自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~ミヒャル・エンデの『モモ』のモモと場の関係を探る~

 連絡先を交換しただけの関係では場がないと交流できなさそうだ。また、見知らぬ人と会う場がないと人間関係や視野を広げるのは難しい。現代社会では、場が重要そうだが、はたしてオープンな行けば誰かがいる場というのはどれほどあるのだろうかという話をします。

目次

 

連絡先は持ってるが交流のない、昔交流があった人々

 LINEの友だちはたくさんいるが、かなりの人数が友だちにはなったが連絡をとっていない人だったりする。だがしかし、友だちになった人は一度はどこかで会った人だっりもするわけで、、、対面で会っていたら会話もできるはずなのにと考えていた。連絡しない理由は私が怠惰なせいもあるし、話したい話題がない、トーク履歴を見て萎える、相手も連絡をよこさないというのもある。友だちには中学、高校の同級生などそれなりに一緒の時間を過ごしてきた人もいるのに、なぜ連絡を取らないのかと考えていた。同窓会や道端で偶然会ったら話せるのにと考える。連絡先を交換したあと、連絡先を交換しただけの人、連絡までいく人(のち、連絡は途絶える)、連絡して会う人の3種類に分かれる。だがしかし、同窓会や道端で偶然会ったら絶対に話すことを考えると、恐らく、そこにいたら話す人とそこにいなくても連絡して会う人に大別できると考えた。

 つまり、場がなければ人間関係が切れる人がかなりいるということだ。しかしながら、現代社会であそこに行けばだいたい誰々がいる場というのは存在するのだろうか。確かに、地方レベルなら長崎に旅行いったらついでに長崎にいる子に会おう、二子玉に行くから二子玉に住んでる子と会おうとなるかもしれないが、あくまでたまにだ。人間関係には場があれば交流できる関係と、場がなくても交流が続く関係がある。だが、人と人をつなぐ交流の場が学校、会社以外にはたしてあるのだろうか。入学や卒業、就職、退職という出入りの制限のない開かれた場はあるのだろうか。あったとして、どこにあるのだろうか。

 今回の記事は、傾聴のスペシャリストであるミヒャエル・エンデの『モモ』のモモと場の関係に注目してみました。

ミヒャエル・エンデの『モモ』のモモと場(円形劇場あと)の関係

第一部は、場(円形劇場あと)におけるモモとその友だちの話が展開される。第二部からは、場(円形劇場あと)に友だちが来なくなりかけ、モモも場から離れてしまう。第三部では、場(円形劇場あと)にモモが返ってきたが、友だちは来なくなってしまった。モモは誰も来ない場から遠ざかろうとしたが、思いとどまりみんなを助けることにする。モモが時間の花を取り戻すと、みんなが場(円形劇場)に戻ってきた。話の展開は以下の通りになっている。(注意、カメ=カシオペイアである)

場(円形劇場あと)がある第一部

・第一章 

劇場について、モモが円形劇場あとにやってくる

・第二章 

「モモのところには、いれかわり、たちかわり、みんなが訪ねて来ました。」

・第三章 

モモと子どもたちは円形劇場あとで遊ぶ

・第四章 

モモには親友の観光ガイドのジジと掃除夫のベッポがいて、この二人はモモがいる円形劇場あとに毎日やってきた

第五章 

円形劇場の廃墟でジジがモモのためにお話を聞かせる

 

誰も場(円形劇場あと)に来なくなる、モモが場からいなくなる第二部

・第六章 

灰色の男たちが現れて、時間を貯蓄させて盗むようになる

・第七章 

モモがいえる円形劇場あとに友だちがやってこなくなる「どうしてかしら。あたしたちの古いお友だちが、だんだん来なくなったような気がするの。もうずっと会っていない人もたくさんいるわ。」、円形劇場あとにくる大人に遊んでもらえない子どもが増えた。モモがニノの酒場へいく。ニノがモモのいる円形劇場あとにくる。同じように他の友だちのところに行って、円形劇場あとに来る約束をする。約束を守る人もいれば、守らなかった、守れなかった人もいた。その暇がなかったから。円形劇場あとでモモは灰色の男と会う。

・第八章 

モモの円形劇場あとにジジとベッポが来る。次の日子どもたちも協力しにやってくる。町中の人に円形劇場あとで時間を取り戻そうという集会をやるから、来てくれとデモ行進をする。

・第九章 

町の人は誰一人として円形劇場あとの集会に来なかった。ジジやベッポはモモのいる円形劇場にいる時間が短くなってくる。モモが円形劇場あとからいなくなる。

・第十章 

ベッポと灰色の男たちモモを探す。モモはカメに連れられてマイスターホラのいる<どこにもない家>に着く。

・第十一章 

灰色の男たち、会議をする。モモの時間は奪えないので、モモから友人を奪うことにする。(モモを孤独にする)

・第十二章 

モモ、マイスターホラのいる時間の国に着く。

 

誰も来ない場(円形劇場あと)にいたくない第三部 第16章まで 

・第十三章 

モモ、一年ぶりに円形劇場あとに帰ってくる。カメのカシオペイアが一緒に来てくれた。この先長いあいだ、鳥やコオロギ、木、古びた石以外にはモモに声に耳をかたむけてくれるものがいない。ジジは円形劇場あと近くに住むのをやめてまるっきり別の住宅地にうつっていき、ベッポはモモを取り戻すための時間を貯蓄するために家に帰らず道をはき続けることにした。モモの友だちの子どもたちを含め、すべての子どもは<子どもの家>で面倒をみられることになった。この時以来、モモが返ってきた円形劇場に訪れる人はだれもいなくなった。ただ、モモは円形劇場あとでカシオペイアと友だちを待っていた。ジジの手紙を発見する。

・第十四章 

モモはカシオペイアと一緒にニノの小さな酒場へいく。酒場は「ファストフード レストラン・ニノ」になっていた。場はあるものの、他の客に急かされモモはニノとちょっぴりしか話せなかった。次は、ジジに会いにいくことにする。

・第十五章 

モモ、カシオペイアと一緒にジジの家を探しにいく。モモ、ジジを門の前で待つことにした。カシオペイアは「アナタヲ サガシニユキマス」といってどこかにいってしまう。門の前でまっていたらモモはジジに会うことができたが、家には入れてもらえ飛行場に向かう車の中で話すことになったが、一言も話せず目的地についてしまう。モモはジジと別れて帰ろうとしたとき、カシオペイアまで失ったことに気づく。

・第十六章 

ジジの家まで送ってもらったモモはカシオペイアを探しながら円形劇場あとに帰る。モモはひとりぼっちになってしまう。ベッポを探しにいったが、見つからないまま数カ月が過ぎた。その間、ベッポがもどってくるのではと思い、出かけずに円形劇場あとのうちにいる日もあった。ある日、モモは友だちである子どもたちに遭遇し、灰色の男にもあって取引を持ち掛けられる。

 

人間の時間を取り戻して、場に集う第三部 第17章から

・第十七章 

モモは円形劇場あとに帰るのが嫌で、円形劇場あとから遠ざかっていった。が、自分が大変なのではなく、友だちが大変なのだと気づく。モモは勇気と自信がみなぎりチャンスを友好活用するため円形劇場あとに向かおうとする。間に合わないことに気づき、「あたしはっこよ!」と言って灰色の男たちに見つけてもらって、会う。灰色の男たちはカメを探しに行く。

・第十八章 

モモはカメと再会し、マイスターホラのいる時間の国へ向かう。灰色の男たちはモモとカメを追う。モモとカメは<どこにもない家>に着く。家は灰色の男たちに包囲される。

・第十九章 

モモとカメとマイスターホラは、灰色の男たちに包囲された時間の家でアサゴハンヲタベル。モモは時間の花をもってカシオペイアと一緒に人間の時間を解放しにいくことにし、そのためにマイスターホラは眠りにつくこといって別れを告げる。

・第二十章 

灰色の男たちは一時は時間の家に入ったものの、自分たちの残りの葉巻(時間)惜しさに、葉巻を奪いあいながら時間貯蔵庫へと向かう。それをモモとカメであるカシオペイアが追う。

・第二十一章 

時間貯蔵庫に灰色の男たちに続いてモモとカシオペイアも入っていく。灰色の男たちは何とかして葉巻(時間)を手に入れようと争い、6人が残った。モモが時間貯蔵庫の扉を開けるために飛び出し、ひと悶着したあと最後のひとりが消える。モモは時間の花を使って貯蔵庫の扉を開けると、持ち主のもとに帰るため勢いよく時間の花がでてくる。その勢いに乗ったモモはカシオペイアと分れた。モモはベッポに会い、ベッポと一緒に円形劇場あとへ帰る。円形劇場あとに帰ってみると友だちは全部そこに集まっていて二人を待っていた。観光ガイドのジジ、パオロ、マッシ―モ、フランコ、妹のデデをつれた女の子のマリア、クラウディオ、それにほかの子どもたち、ふとっちょのおかみさんのリリアーナと赤んぼうをつれたレストランの主人のニノ、左官屋の二コラ、それに、むかしいつもやって来てモモに話を聞いてもらっていた近所の人たちです。それからお祝いが始まった。

 

モモと場(円形劇場あと)の関係

このようにモモと場と関係に着目して物語を整理してみると、やはり場のあるなしは非常に重要な要素であることがわかる。場がなければ落ち着いて話をすることはできないのだ。全二十一章中、円形劇場あとという場での会話は、一章から九章と二十一章ぐらいである。あと、落ち着いて会話をしているのは<どこにもない家>でのマイスターホラとの会話ぐらいだ。だいたい、モモは円形劇場あとで人の話を聞いている。また、物語では「モモと話したら」ではなく、「モモのところに行ってごらん!」と表現され、原文がどうかわからないが、場である円形劇場が強調されていることがわかる。

 

場がなければ交流が途絶える関係、場があれば交流できる関係

場があれば交流できる関係性のはずである。場があれば多くの人が、しょうがないからする暇をつぶすのではなく、場で生まれたコミュニティーを通して人と交流し人間関係を深め、社会生活、私的生活の安定や充実を実現できるのではないかと思う。

場じゃなくて、カフェとかファミレスとか、友だちの家とかいけばいいじゃんという声もあるだろうが、飲食店は金がかかる。また、今回の話は場にいる誰かと交流するのであって、ある特定の個人に会うという話ではないと言いたい。また、交通網の発達により会うだけも金がかかるのだ。幼馴染や近所の友だちといった物理的な距離は人間関係を維持するにあたり重要ファクターであったりする。

人間関係や視野を広げるというのは得てして、その場にいた見知らぬ人との交流がきっかけになることが一般的だ。場があれば、連絡するほどではないが交流はする関係もある。場がないとそういった交流は生まれずらい。

英語では人間関係をストロングタイズ、ウィークタイズと表現したりする。強い信頼関係のある人間関係、浅い知り合いや友だちと考えても差し支えない。今回の話はウィークタイズ、連絡先を持っているだけのウィークタイズの人と交流したり、人間関係を維持するためには場が必要なのではないかという話でした。

まとめ

連絡先を交換しただけの関係では場がないと交流できなさそうだ。また、見知らぬ人と会う場がないと人間関係や視野を広げるのは難しい。現代社会では、場が重要そうだが、はたしてオープンな行けば誰かがいる場というのはどれほどあるのだろうか。

ただし、今回の考察は、今回はSNSだけのチャンネルでの交流は考察対象に入れていない。(交流の持ち方は、チャンネルといったりする)

いや、そもそも、SNSといった情報やその発達に伴うプライバシー保護関連の発達は1995年あたりからである。人と連絡を取る手段は大まかに、手紙、電話、電報(最近なくなった)、FAX、公衆電話、ポケベル、携帯電話、インターネット検索可能な携帯電話の順で進化し普及していった(あと、無線)。人類の発展においてほとんどの場合、連絡手段は手紙や粘土によるもので、連絡や交流するにあたっての重要なファクターは人と場であった。今でも、手紙を送るとき宛先(住所)とあて名が欠かせない。(局留めができるというのはここでは重要ではない)

 

 

誰かと場がセットなところいえば

・小学校の頃は公園にいけば誰かしらいた(いなかったときもある)

・学童、ワクチャレ

・学校、塾

・小学生の頃の図書室

・中学・高校・大学の先生の準備室・部室・図書室・研究室

・病院(笑)

・ママ友(苦笑)

・場合によっては路上ライブ

・キャバクラ、ホステス(指名もできる)

メイドカフェ

・飲み屋、バー

・地下アイドル

・日本は微妙だが教会 (なんと寺や神社は入らない、入っても時期限定、地域による)

・町内会(高齢者限定傾向あり)

・クラブ、サロン(昔は社交界とか)

 

 

 

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

もしや、人口密度によって問題が起きる確率も変わってくるのではなかろうか。社会でも、国でも、会社でも。

 

 

思考源

・集団的繋がり感の喪失と先進国以外の国々の生活のありかた

・LINEの友だち

 

付録

宮沢賢治の「注文の多い料理店」の話は、山猫と若い二人の男の話です。

ゴールデンカムイという漫画を読んでいたら、山猫について触れられていたのでご紹介します。

山猫は「芸者」を指す隠語だ

師団の 一部の連中が 言ったいた くだらない 軽口だ

それに「山猫」には いんちきとか ひとを化かすとか 意味の隠語も あるだろう?

山猫会社とか・・・

漫画『ゴールデンカムイ』より

という個所があったのです。

そういえば、宮沢賢治の「注文の多い料理店」で出てくる料理店の店の名前は「西洋料理店 山猫軒」でした。ゴールデンカムイを読んでいて、宮沢賢治はもしかしらたら山猫軒で先の話をほのめかしていたかもしれないと思いました。あれは、教養があったらもっと楽しめたのかと。無理やりな論かもしれませんが、中々面白い見解と思ったのでご紹介しました。

 

注意

ゴールデンカムイの時代設定は日露戦争終結後の1907年で、宮沢賢治の「注文の多い料理店」の制作日は1921年らしい。

・山猫という隠語は芸者全般を指すのではなく、限られた芸者や寺社の境内にでる私娼に使われるみたいで、いちよう「化けてでる」という意もあるようです

山猫とは - コトバンク (kotobank.jp)

「芸者」のことを隠語で一般的に「山猫」というのか、いつごろから言われているのか知りたい。特に明治末期... | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp)

 

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