自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

雑談 ~効果的に話すためには~

 今回の記事の内容は、話し方についてです。

効果的に話すためには

 私は「効果的に話すためには場とタイミングが重要なんだよ」とアドバイスされたことがあります。確かに、自分自身話す内容についてはこだわってきましたが、場とタイミングを話すときに意識したことは恥ずかしながらなかったのでアドバイスに則ろうと思いました。

効果的と判断するための基準

 で、何を成功したときに効果的に話せたとするかを、自分が伝えたいことが相手に伝わった場合、効果的に話せたとします。で、自分が伝えたいことが相手に伝わった、つまり効果的に話せた、効果的に話すためには場とタイミングが重要、すなわち、自分が伝えたいことが相手に伝わったとき場とタイミングの選択が良かった。では、自分が伝えたいことが相手に伝わったという相手のメッセージを何とするか。相手がどのような表情や仕草といった記号を示したら、伝わった感を自分が受信できるかです。ここの基準を、アドバイスしてくれた人に聞いてみたところ、絶対に教えないという姿勢をとられました。曰く、「みんなが他人の基準で生きようとするから、こんな変な世の中になっちゃったんじゃないの。自分で考えなよ」とのことでした。そのため、私は相手がどのような反応を示したら伝わったと思えるのか考えてみたところ、私の場合、「相手が要約などをして、こういうこと?、と聞き返し、その認識で合ってるよと言えた場合に伝わったとする」ことにしました。

 このアドバイスをしてくれた人の主張は足りない点もありますが、そこで「なぜ効果的に話すためには場とタイミングが重要なのか、他にはないの?もっと重要なこととかあるんじゃない?」と聞き返さず、とりあえず相手のルールに則るところが私のいいところであります。情報の話をする前に補っておけば、パワーポイントなどでプレゼンテーションするときに重要になってくるのは、伝えたいことは一つが望ましく、詳しすぎないことがよかったりします。そのため、効果的に話すためには場とタイミングが重要と変数を二つに絞ったことは評価してもいいかなと考えています。(上から目線だって、どれは批判的精神とは上から目線なのか、否か、と議論する必要がありそうですね)

コミュニケーションというか情報伝達の目標

 はい、では、情報の話に移りたいと言いたいですが、その前にコミュニケーションの目標を宣言します。私のコミュニケーションの目標は相手をピヨピヨ病(混乱、フリーズ)にさせないことです。ピヨピヨ病ってなんぞや、と99.9%の方がなっていると思いますので解説を。ピヨピヨ病とは、ある本のエッセイで出ていた言葉で、相手が何を言っているか・どう解釈していいかわからず混乱して言葉を発せない状態を指し、アニメとかで頭が混乱している人の頭の上にひよこが回る描写が由来のはずです。私のコミュニケーションの目標は、相手をピヨピヨ病(混乱)にさせないように話すことです。私の会話の問題点は、私が理解する仕組みに則って話すところです。相手が理解していない様子なら、例えを出し、解説し、補足をしまくり情報量を増やして理解を促すといやり方です。どうやらそれは、お腹いっぱいな人に無理やり口をこじ開け食べさせるみたいなやり方で好ましくなく、理解は進んでいなさそうなのでやめることにしました。

 ここまでの話、効果的に話すためには、場とタイミング、情報量のさじ加減に注意することが重要となってくることがわかりました。

 はい、では、ようやく情報の話をしたいと思います。

情報から考える

以下、引用はすべて、2014年初版、2020年増版された戸田山和久ちくま新書の『哲学入門』の第3章情報から引用しています。

通信の根本的な課題は、ある地点において選ばれたメッセージを、別の地点で正確にあるいは近似的に復元することである。

シャノン

ということを踏まえた場合、何をもって効果的とするかは検討の余地がありますが、とりあえず、情報の発信者(=私)が話したことを情報の受信者(=聞き手、相手)が同じように復元できれば効果的に話せたと再定義します。

シャノンの理論はあくまでも通信の理論なのだね。だから、その関心の的は、情報源ではなく、通信路の能力の方にある。いろんな通信路の能力差や限界が知りたい。そこで、シャノンは通信路にメッセージをのせて送る場面に考察の対象を移していく。通信路の能力を通信路容量と言うが、これはその通信路を介して単位時間内に送れる情報量で測ることにしよう。単位はビット/秒だ。

 ・・・・・・。

 で、「通信の数学的理論」でシャノンが行った重要な仕事が、この符号化に関する二つの定理の証明である。第一のもの(第一基本定理)はだいたい次のような内容だ。エントロピーHの情報源と雑音のない容量Cの通信路があるとしましょう。さらにこのHとCは変えられないとします。そこで、符号化を工夫して送信速度(単位時間あたりに送れる文字数)を大きくすると考えます。上手く工夫することによって、送信速度をある上限にいくらでも近づけることができますが、どんなに頑張ってもその上限を超えることはできません。・・・・・・。

 ただし、通信路の能力差や限界があるため、私も口頭での会話の単位時間内に送れる情報量を考慮する必要があります。単位は、字数/分とします。ちなみに、アナウンサーの話すスピードは、400字/分です。アナウンサーの喋るスピードがどういった基準で定まっているのか知りませんが、少なくともこれより早く喋らない理由があるのでしょう。というわけで、早口はやめた方が良さそうです。

 第二の定理(第二基本定理)は、雑音のある通信路についてのものだ。雑音があると、メッセージは通信路の途中で歪む可能性がある。でも、うまい符号化によって雑音の効果はある程度除去できる。実際、われわれも日常的にそれをやっている。たとえば、工事現場のそばなどうるさい場所では、同じメッセージを何度も繰り返し叫ぶ。これって、符号化を冗長することによって雑音の影響を減らしているわけだ。それじゃ、符号化によってどこまでやれるのだろうか。第二基本定理は次のことを主張する。雑音のある通信路が容量Cをもつとし、情報源のエントロピーがHであるとしましょう。で、こんどもこのHとCは変えられないとします。このとき、うまく符号化を工夫することによって、雑音による誤りの頻度をいくらかでも小さくすることができます。

 特徴的な話し方のせいで話している内容が全然入ってこず、特徴的な話し方にコメントしてしまったことが日常生活であります。雑音のない話し方というのは意識する必要があります。また、400字/分で話すときに「えっと」「あの」などの、余計な雑音は省く必要もありそうです。あと、具体的にシンプルに勘違いの余地を与えないような喋り方も重要そうですね。例えば、公共の場でキーキー泣き叫ぶ子どもに対して「静かにして」「うるさい」などと言うとしましょう。「静かに」の方がシンプルです。ですが、子どもというのはわけも知りたいそうなので、「公共の場でみんなに迷惑だから静かにしようね」といって受信できるのは成長段階によります。そのため、符号化を上手く成功させ、端的に「静かにして」か理由を伴わせるかの塩梅は難しいなと思っています。犬のしつけの時に、「待て」「よし」といった合図は符号化ともいえるかもしれません。符号化の具体例と考えられる例はこんな感じでしょう。

 このようにして、情報の心理的側面を捨象して、通信の純粋に物理的な側面だけに注目しよう、という路線が確率した。つまり、送信側でなされた選択の結果を受信側で識別できることだけが情報伝達の本質であって、意味の理解は関係ないという考え方だ。

 次にハートレーは、情報量と可能性が、一方が増えると他方が減るという関係性にあることに気づいた。一つの記号を選ぶということは、他の選択の可能性を捨ていることが。情報は可能な記号の集まりから選択によって生じる。つまり、可能性を狭めると情報が生まれる。これも考えてみればすごいはっそうの転換だ。情報を意味内容に結び付けて考えているかぎり、情報量を「言われていること」の中に求めたくなる。そうではない。言われていることではなく、言われていないこと(排除された可能性)が情報量を決める。こうして、情報から意味を抜き去ったことによってはじめて、確率メカニズムによる選択が情報を生むという発想が生まれた。

 例えばですが、誰かを特定するときに男性では情報量がなさすぎる、20代男性でもちょっと多い。20代男性で大学生なら日本の場合だいぶしぼられてくる。(ここに確率メメカニズムによる選択が入ってきそうですね。)で、苗字は「佐藤」さんです、という情報もあるに越したことはないが、佐藤って日本で一番多い苗字だぞとなり、特定できる有益な情報とはいえないぞとなる。これが、「言われていることではなく、言われないこと(排除された可能性)が情報量を決める」の具体例といえそうです。

 私は「効果的に話すためには場とタイミングが重要なんだよ」とアドバイスされたことがあります。このアドバイスしてきた人がどれほど注意を払って情報量を少なくしたかは知る由もありませんし、この人の基準において効果的に話すために私が何を満たしたからその情報量になったのかも知る由もありませんが、とりあえず、効果的に話すためには場とタイミングを意識する必要があるみたいです。

まとめ

 情報の発信者(=私)が話したことを情報の受信者(=聞き手、相手)が同じように復元できれば効果的に話せたとします。その場合、話す速度を400字/分を目安に話し、情報を符号化し雑音をできる限りなくし、言わなくていいことも合わせて考えて捨象し情報として伝える。「いつ、どこで、誰が、何を、どのように、したか」にあてはめると。「効果的に話すためには、タイミングと場を考え、私が、情報を、400字/分を目安に、情報を符号化し言わなくてもいいことを捨象して話す。」となります。ただし、ここでは伝える相手を踏まえていないというのは忘れてはならないし、非常に重要な変数です。赤ん坊、小学生、中学生、高校生、学士、修士、博士に喋るのとでは情報の復元能力は全く違います。では、伝える相手を踏まえたとき、「誰に、いつ、どこで、誰が、何を、どのように、したか」の順序でしょう。なぜなら、誰に話すかによって、場とタイミングなどあとが全く変わるからです。ここまで考えれば、私と話しててピヨピヨ病になる人も少なくなることでしょう、、、そう願いたいです。

 

 

では、今回はこの辺で失礼します。最後まで読んでいただきありがとうございました。

informationとcommunicationの違いは考える必要がありそうですね。

 

付録「空気読めよ」の空気が抽象的な件について

みなさんは、空気読めよと言われたら何を考慮する必要があると思いますか?

私は、場とタイミング、人の需要と供給を考慮する必要があると考えられるようになりました。ただ、こう解釈できる人間、もしくは聞かれたときに説明できる人間がどれだけいるのでしょうが。というか、空気読めよっていつぐらいに生まれた言葉なんでしょうね。空気が読めない人に空気読めよと抽象的に言っても伝わらない気しかしません。空気が何かよくわからないので、人が泣いてるとか、冠婚葬祭とか極端なときにしか空気読めなくてもしょうがないんじゃなかろうか。だって、空気が何かわからないのに意識なんてできないし。