以前、友だちとAIでの言語学習の仕方について話した。言語学習をAIとするにあたり、言語学習アプリのレベルに対して自分の言語レベルが低いならば、CHatGTPに「ネイティブの5歳児のレベルで返答して」とオーダーして言語学習に取り組めばいいのではないか、という話をした。
友だちには、「頭いいね」と言ってもらえた。
結論から申すと、AIという道具の使い手である人間の限界がAIの限界なのではなかろうか。
この話題をもっと普遍化してみよう。
現代人はインターネットブラウザを用いて、日々様々なことを検索している。
これは、人に対して質問する行為にも似ている。
インターネットブラウザで何を検索するか決めるにあたって、問いや関連用語として言語化し検索する。人に対して質問する行為も何を聞くか決めるにあたって、問いや関連用語を言語化し問いを作り説明する。インターネットブラウザと人の違いは、その人の持っている情報がかぶっていることもあるが、プライベートや同じ経験を含めると違ってくる。
インターネットブラウザで検索する行為と人に質問する行為は似ている。上手く質問したり、上手く自分が調べたいことをイメージできていないと検索結果や答えにずれが生じ、欲求が満たされないことがある。
したがって、インターネットブラウザで検索する人、人に質問する人の答えを引き出す限界が、インターネットブラウザや説明ができる人の限界を決めることとなる、といえる。
インターネットブラウザに限らず、データベースを持ち様々なデータが充実していたとしてもそれの使い手が優れていなけれデータは生きてこない。名器と言われる楽器があったとしても、優れた演奏技術がなければ名器を生かしきれない。何かしらに優れた人がいようと、それを引き出す能力がない人が指示する側に回ればその優れた能力は発揮されずらい。優れた人がいたとしても優れた記者がいなければ、その人の優れているところは立ち現れずらい。優れた教授がいようと、それ相応な質問ができなければ、教授の優れているところを垣間見るのは厳しい。
したがって、当たり前の話であるが、自分の能力の限界が、人や道具等のポテンシャルを引き出す限界といえる。
どんなにAIが発達しようが、AIを使う人間の限界がAIの限界となる。
自分の能力の開発は、人や道具等のポテンシャルを引き出す限界をずらす。自力で考えなくて済むようになってきた情報社会の現代こそ、自分で仮定し問いをつくりインターネットや人から答えを引き出す訓練が必要なのではなかろうか。