自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』~

紹介された本です。たまたま2020年の4月に買って積読してあったのですぐ読むことができました。前半と後半で物語の雰囲気ががらりと変わる不思議な本です。前半部分も学ぶところはありますが、やはり直近に読んだ後半の方が記憶に残っているので後半の感想と考えたことについて記事としてまとめたいと思います。(すごく長いです)

その前に導入を。

自由は自分に依拠するので意志が必要だが…

授業登録が進まない

 私の大学は結構変わっているので他の学部学科の授業も履修ができる。大学は「自由な学習と研究の共同体」とかなり「自由」強調し、前述したことができるようになっている。

 面白そうな取りたい授業はたくさんあるが、経済学士をという学位をとる以上他学部他学科の授業ばかり取っている場合ではない。しかし、「○○の専門性を身に着けるならこの講義は必要ですよ」というアシストが全くなく、知的好奇心に身を任せているとある程度の専門性すら身につけずに卒業し、大学院に進学した際「そんな基礎中の基礎も知らないの?」という悲惨な現実に直面する可能性が高い。院に進むためにGPAを3.5以上に維持しているのに、いざ大学院に進んだら知らないことだらけで研究まで行きつかないのは困る。

 意志はある。学問の自由における大学基金の有用性を示し実際に大学基金を設立したい、というのが意志である。だが、経済学において基金がどのような分野に位置しているのかわからない。授業登録はもう始まっており授業をいざ選び始めたら興味関心ばかりが優先され必要なものがとれていないのが現状である。

 「自由」というけれど、授業登録前にアシストがないのは自由を上手く活かせず普通に困る。ただでさえ選択のパラドックスのため選択肢が多すぎて後悔するし、いちいち結果を受け入れる覚悟を持って決断しないといけないのに...。まるで、航海にでていて行先は決まってるのに方向がわからないみたいな感じだ。どうしようもないので他の大学の経済学科の必修を調べる始末なのである。自由からの逃走とは言わないが困ったもんだ。(一様、学科別の履修相談に行くがこれがまた授業登録開始後と遅い)

 このままでは自分の好きな授業ばかりとって専門と呼べるものは何も身につかず、居心地の良い大学で学問を楽しみ社会に出られない人間になりかねない。(就職できるかできないかではなく卒業要件満たしても”大学にいる”ことが目的で居続けることと捉えてもらいたい。)

 ということで導入は終わりにして本題に入っていこうと思う。

はてしない物語

この物語はネタバレするとよくないので読む予定がある人はこの記事を読まないでおくことをお勧めする。私自身、もしネタバレ込みの紹介だったらネタバレなしだった場合と比べて楽しめなかったと思うからだ。

引用文献 〔ミヒャエル・エンデ, 『エンデ全集5――はてしない物語 下』(訳上田真而子佐藤真理子),岩波書店. 〕より

あらすじ

前半[編集]

 読書と空想が好きなバスチアン・バルタザール・ブックスは肥満体型やX脚、運動音痴を理由に学校のクラスメートからいじめを受けていた。また、母親を亡くしたことをきっかけに父親との間にも溝が出来てしまい、居場所を失っていた。

 ある日、いじめっ子に追い回されたバスチアンはカール・コンラート・コレアンダーが経営する古本屋に逃げ込んだ。バスチアンはそこで、『はてしない物語』という風変わりな本を目にし興味を抱く。お金を持っていなかったバスチアンはコレアンダーの目を盗んで本を店から盗み出し、忍び込んだ学校の物置で読み始めるのだった。

 本の世界では、幼ごころの君が支配する国「ファンタージエン」が「虚無」の拡大によって崩壊の危機に晒されていた。病に倒れた幼ごころの君と「ファンタージエン」を救うための方法を探す使者に指名された緑の肌族の少年・アトレーユは、女王の名代として「アウリン」を授けられ、「救い主」を求めて大いなる探索の旅に出る。

 冒険を重ね、幸いの竜フッフールなどとの出会いや数々の試練を経て、「救い主」が人間のバスチアンであることに気づくアトレーユであったが、努力虚しく「ファンタージエン」は崩壊する。幼ごころの君は最後の手段としてさすらい山の古老のもとを訪れる。さすらい山の古老は「ファンタージエン」を取り巻く全ての出来事を本に記しており、そこから物語の内容もバスチアンのいる現実世界の話へと変わり始める。

 現実と本の世界が交錯する中、バスチアンは幼ごころの君に「月の子(モンデンキント)」という新たな名前を授け、本の世界に飛び込む。そして持ち前の想像力と女王から授けられた「アウリン」の力によって、崩壊した「ファンタージエン」を新たに作り上げていく。

後半[編集]

 こうして自ら再建した新たな「ファンタージエン」の世界に入り込んだバスチアンは、その後アトレーユやフッフールと友達になったり、「ファンタージエン」の住人や場所に名を与え物語を作ったりして、「ファンタージエン」の世界を楽しんでいた。また、コンプレックスの塊であった自分の外見も、「アウリン」の力を使い容姿端麗で強く立派な勇者のような姿に変えていった。

 しかし、バスチアンは「アウリン」の力を使い続けるうちに、次第に現実世界の記憶を失くしてしまう。そして、幼ごころの君に再び会いたいという気持ちが芽生えたバスチアンは、女王の居住地であるエルフェンバイン塔に行くが、そこに幼ごころの君はいなかった。

 女魔術師・サイーデに唆されたバスチアンは「ファンタージエン」の新しい王になることを決意する。我を失い権力まで欲するようになったバスチアンを諭すアトレーユとフッフールであったが、バスチアンは彼らを裏切り者と見なし対立、ついには「ファンタージエン」から追放してしまう。

 そして、バスチアンは「ファンタージエン」の帝王となったことを宣言するが、アトレーユがその就任式でバスチアンを急襲。その後、バスチアンの軍勢とアトレーユたちは戦争となり、アトレーユたちを追ったバスチアンは「元帝王の都」に辿り着く。そこにはバスチアンと同じように現実世界から「ファンタージエン」に入り込み、「アウリン」によって願いを叶え続け、その果てに完全に記憶を失ってしまったかつての「ファンタージエン」の王たちが徘徊していた。

 やがてバスチアンは、自らの名前以外のほとんど全ての記憶を失うが、アトレーユとフッフールの助けで無事現実世界に生還を果たす。

 現実世界に戻ることができたバスチアンは、古書店へ本を返しに行く。そこで、コレアンダーもかつての「ファンタージエン」の「救い主」だったことを明かし、二人はそれぞれの体験を語り合うのであった。

引用 「はてしない物語 - Wikipedia のあらすじ」より (2021年4月21日時点) 

 アウリンには「汝の 欲することを なせ」と書いてあった。字の読めなかったアトレーユはそのメッセージに気づかなかったが、下手に文字の読めるバスチアンは幼ごころの君の名においてファンタージエンで何でもしていいと思い望みを叶えていく。

 バスチアンはライオンに宝のメダルの裏に記された文字を見てたずねた。「これはどういう意味だろう?『汝の 欲する ことを なせ』というのは、ぼくがしたいことはなんでもしていいっていうことなんだろう、ね?」

 グラオーグラマーンの顔が急に、はっとするほど真剣になり、目がらんらんと燃えはじめた。

 「違います。」あの、深い、遠雷のような声がいった。「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」

 「ぼくの真の意志だって?」バスチアンは心にとまったそのことばをくりかえしました。「それは、いったい何なんだ?」

 「それは、あなたさまがご存じないあなた様ご自身の深い秘密です。」

 「どうしたら、それがぼくにわかるんだろう?」

 「いくつもの望みの道をたどってゆかれることです。一つ一つ、最後まで。それがあなたさまをご自分の真に欲すること、真の意志へと導いてくれるでしょう。」

 「それならそれほどむずかしいとも思えないけど。」バスチアンはいった。

 「いや、これはあらゆる道の中で、一番危険な道なのです。」ライオンはいった。

 「どうしてだい?」バスチアンはたずねた。「ぼくは怖れないぞ。」

 「怖れるとか怖れないとかではない。」グラオーグラマーンは声を荒らげていった。「この道をゆくには、この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから。」

 「それは、ぼくたちの持つ望みがいつもよい望みだとはかぎらないからかい?」

 ライオンは尻尾のそばでぴしゃりと打った。そして耳を伏せ鼻にしわを寄せた。目は火を噴いていた。つづいてグラオーグラマーンがまたあの大地をゆるがす声を発したとき、バスチアンは思わず首をすくめた。

 「望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」

pp.61-63

 欲するためには記憶が必要だが、あらすじにある通りバスチアンはアウリンで欲望を実現していくごとにその記憶を失っていく。

彼は各章で以下のものを望み括弧内の記憶を忘れていく。

「ⅩⅢ 夜の森ペレリン」  美しいさ (デブでエックス脚だったこと)

「ⅩⅣ 色の砂漠ゴアプ」  粘り強さ、不屈の強さ (神経質で、愚痴っぽかったこと)

「ⅩⅤ 色のある死グラオーグラマーン」 勇気 (臆病だったこと)

「ⅩⅥ 銀の都アマルガント」 友であるアトレーユに会う(なし)

「ⅩⅦ 勇士ヒンレックの竜」 アトレーユに無条件で尊敬してもらうことを望み、自分にしかできない「物語を作る」ということをする(クリスタのこと「バスチアンが自分で作った話をしてやると、身じろぎもせず、大きな目をして何時間でも聞き入った。クリスタはバスチアンをしたっていたし、バスチアンがとても好きだった。」という記憶、バスチアンはクリスタという友だちの記憶を失った)

「ⅩⅧ アッハライ」 「いい人」とか「偉大なる徳行の人」とか呼ばれて尊敬されたい(子どもにからかわれたこと)

この辺でアトレーユがアウリンのせいでバスチアンが記憶を失っていることに気づく

「ⅩⅨ 旅の一行」 エルファバイン塔に向かうという望みを持つ

「ⅩⅩ 目のある手」 みなに怖れられ、用心される存在(自分の世界で子どもだった記憶)

「ⅩⅩⅠ 星僧院」 ファンタ―ジエン中、最も知恵のある賢者になること(自分がかつては学校に通っていたという記憶を失い、物置のことも、自分の盗んだあかがね色の絹表紙の本のことまで忘れ、なぜファンタ―ジエンにやってきたのか不思議に思うことすらなくなった)バスチアン的にはこの望みは真の望みであると思っていた。

「ⅩⅩⅡ エルフェンバイン塔の戦い」 

「ⅩⅩⅢ 元帝王たちの都」 

元帝王たちの都から抜け出し二度と戻ってこないこと(昔は物語がつくれたという記憶) 

仲間に入れてもらいたい (自分がいた世界、そして今そこへの帰り道をさがしている世界に、人間が、みんなそれぞれ自分の思いを持ち考えを持った人間がいる、という記憶)

 自分の欠点のすべてをひっくるめて――というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった。

しかし、あるがままの自分はどうだったのだろう?

バスチアンはもう忘れてしまっていた。ファンタ―ジエンにきて実にたくさんのものを得た今、その手に入れたものや力に埋もれて、自分自身が見えなくなってしまっていた。

pp.310-311

「ⅩⅩⅣ アイゥオーラおばさま」  愛することができるようになりたい(お父さんとお母さんを忘れる)アイゥオーラおばさまのおかげで、愛されたいから愛したいにバスチアンは『変わる家』でコペルニクス的展開を遂げる。

「ⅩⅩⅤ 絵の採掘坑」 絵を探す(自分自身の記憶、最後の記憶である自分の名前を忘れる)

よいか、おまえは生命の水をさがしておる。おまえの世界にもどるために、愛することができるようになりたいと望んでおる。愛する――というのは簡単だ!だが生命の水はおまえにたずねるだろう、だれを?とな。つまり愛するというのは、ただ単に、一般に愛するなどということではないのだ。ところが、お前は自分の名前以外、一切を忘れてしまった。答えられなければ、生命の水を飲むことは許されぬ。そこまでおまえを助けることができるのは、おまえがみつけだす忘れた夢の絵だけだ。その絵がお前を泉へと導いてくれる。だがその絵を見つけるためには、おまえはおまえの持っている最後のもの、自分自身を忘れねばならない。

p.351

 最終章「ⅩⅩⅥ 生命の水」生命の水を見つけて飲む (ファンタ―ジエンでもらったすべてのものをなくす)裏を返せばもとに戻り、ファンタ―ジエンの自分の物語を手に入れる

なぜ望みを叶えると記憶が失われていくのか

 欲しいものを手に入れたり、年齢制限がなくなると確かに望みというか記憶がすっぽり抜ける。高校の時から欲しいものがあって3、4年悩んでそれを買ったが一度も使ってないし、なんなら資産価値はあるから売ろうかなと次の日に思ったくらい、「なぜそれをそんなにも欲したのか」という記憶がすっぽりなくなった。学校の英語教育はヨーロッパ諸国と比べると定着度が全然違うのに、高校を卒業すると英語教育がどうでもよくなるのもその例だと思う。

 なぜそうなるのか全くわからない。少なくとも欲が満たされると経済学の限界効用といったように興味関心は薄れる。ということは、「幸せ」「自由」「平和」とかも欲求が満たされると欲していた時の記憶がすっぽり抜け落ちてしまうのかもしれない。(確かに、今現在なぜそんなにも自由を私が欲していたのかわからない。私の場合、全ては依存すると交渉が面倒という怠慢へと帰結するわけだが。)

 というのを考察対象とすると、記憶というのは想起というのが肝心だ。確かに、望みを叶えたら望まくなり興味関心が薄れるというのは納得できる。さらに、説明を付け加えるならば望みを叶えるとある出来事に直面しなくなったりし、想起する機会が失われるので記憶もなくなるのかもしれない。(よくよく、考えると想起しない記憶とかないも同然だよね。そうではないが。)

 記憶が失われると自我が失われるのは、前に記事(自由研究〜Don't worry about tomorrow.)の記事の通り、記憶はある種の人生とも言えるから、記憶がないのは生きてこなかったのと同じともいえる(この見解に今の私なら反論するが)。

 はてしない物語では「元帝王たちの都」でバスチアンの欲求が元の世界に帰るという方向になる。気になるのは、彼が帰りたいと思う理由が「元帝王たちの都」にいる人にはなりたくないから帰りたいという風にとれるところだ。ファンタージエンでは「遠い」とか「近い」というのは望むか望まないかで変わってくるというのを考えると、望んだだけ帰ることができそうになったわけだが、「〜にはなりたくない」という欲求は眉をひそめる。

なくならない記憶

  記憶が失われも、記憶でなかった深層心理である夢というのから彼の真の意志を見つけるというのは中々面白い表現だと感心したが、一方でずるいとも感じた。

 そして、もといた場所での記憶をバスチアンはなくしていくわけだが、ファンタージエンの記憶はなくならないし、ファンタージエンには覚えられているというのも面白い表現だなと思った。まるで、アリスインワンダーランドの「アリスが返ってきた!」みたいな。そのおかげでアトレーユが助けてくれるわけだが。

過去の自由研究と関連付けていこう

 まず、このアウリンのおかげでファンタージエンにおける万能な自由が与えられる。しかし、バスチアンの欲というのは抽象的に見ると消極的な自由の部類に入ると思う。なぜなら、「消極的な自由がすべて実現したときに何がしたいか?」と物語の最後の方になるまで彼は答えられないと思うからだ。消極的な自由は「~からの自由」とも言われ、”from ○○”なのだから必ず出発点が必要になる。彼が記憶を失うごとにこの○○の部分にあたる記憶がなくなっていくので物語の最後では○○はなくなるからだ。

 彼は自分の願いをかなえることで記憶を失っていく。しかし彼はファンタジーエンから出られるのだ。これを「積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」というフロムの言葉と私がだした結論として自発的な行為の一つは「愛するということ」と考えると説明がつくと思う。

自発的活動とは何か?

自発的な活動とは、何かに駆り立てられることなく能動的に創造的活動で養った自我に基づいた活動である。つまり、自我の表現(または実現)である。

自発的活動はなぜするのか?

自発的活動をしていないなら、自我がなく自動人形であり生物的に生きてはいても感情的、精神的には死を意味する。それは、「生きている」ということになるのであろうか、否、それは自分の人生は生きていないといえるだろう。つまり、自発的活動は自分の人生を生きる、要するに自分として人として生きるということの根幹だと思う。だから、人として自分として生きるために自発的活動をするのである。

教授が切り分けた問題である、自発的活動は何をつかさどっているのか?に対して私は、「自発的活動は人として生きることそのものをつかさどっている」というのが私の考えだ。前提として他人の人生というか、パッケージ化された人生、自分の人生ではないものを「人として生きる」とは言えないと思う。(フロムに言わされば自動人形であって人として生きたことにはならないだろう)

ひも解いて考えたこと

消極的自由は個人の方に目を向けており、積極的自由は自分以外の方に目を向けているような気がする。

個人が自分自身の所有しているもの(身体的特徴、性格や財産などすべてを含む)に目を向ければ向けるほど、自分と他人とを区別すること(個別化ともいえる)になるため孤独に向かうのは必然のように思える。

一方で、積極的自由は自発的活動は活動という動的なものに着眼点を置いており所有という問題ではないし、自発的活動が愛であり他者に目を向け、理解という配慮、責任(responsibility)という双方向の結びつき、尊敬という他者の違いを認めること、自分以外に起因する知という誰しもに共通し分かち合えるものを持つ。つまり、愛するということは他者を必要とするため孤独を克服する道へとなるのであろう。

(「自由研究 ~フロムの自発的活動をひも解く~」より抜粋)

  要するに、バスチアンの真の意志とは愛するということであり、それはフロムの自発的活動であると思う。自分の孤独を克服し誰かのため、父を愛するために元の世界に戻っていく。

 バスチアンとユニークな登場人物

 よくよく物語を読んでみると、バスチアンとは対照的に表現される登場人物たちがいる。彼らは自分の特徴にこだわりその個性を変えようとはしないし、なんなら変えられたとしても元に戻ろうとする。そんなユニークな登場人物を比較しながら取り上げていく。

バスチアンと勇士ヒンレック

「姫を連れもどすことはできないかな?」

「何のためにだ?」

「思いなおしてもらえるかもしれないでしょう。」

 それを聞いた勇士ヒンレックの口から、苦い笑いがもれた。

「きみはオグラマール姫を知らないんだ。わたしはこの十年というもの、できるかぎりのことをしてすべてに熟達するよう、訓練に訓練を重ねてきた。体調を整えるためにわるいと思われることはすべて断念してきた。・・・・・・。何をさせてもわたしの上をゆくものはなかった――きのうまでは、なかったのだ。最初、めもくれようとしなかった姫が、わたしの能力があがるとともに、しだいにわたしへの関心を示してきていた。わたしはもう姫のおめがねにかなうとものと、ほとんど信じかけていたのだ。――それなのに、夢はすべてついえ去った。なんの望みもない今、どうして生きていられよう!」

「そんなにオグラマール姫のことばかり思わないでもいいんじゃないかな。」バスチアンがいった。「ほかにもきっと、同じように好きになれる方がいますよ。」

「いや、わたしは、あの姫が最も強いものでなければ満足しないというからこそ好きなのだ。」勇士ヒンレックは答えた。

「そうか。」バスチアンは困っていた。「それならむずかしいですね。どうしたらいいんだろう?何かほかのことで姫の心を射止められないでしょうか?たとえば歌人とか詩人とかになって。」

「わたしは勇士だ。」ヒンレックは少しむっとしたようすでいった。「ほかのことはできもしないし、しようとも思わない。わたしはわたしなんだ。」

「ん――、それはそうですね。」バスチアンはいった。

pp.117-119

 この勇者ヒンレックは、バスチアンの物語通り姫を助けた。その時点で姫としては勇士ヒンレックと結婚したいつもりになっていたが、彼の方にはもはやその気がなくなっていた、と作中に書いてある。確かに、引用の通り彼が好きだったのは、最も強いものでなければ満足しないからこそ姫が好きだったのだ。バスチアンがいるこの世界で自分が最も強いということはないから、姫が自分を好きになる場合は姫は変わってしまったということになる。そんな姫と結婚するということは勇士ヒンレック自身も変わるということになるのだから、彼は姫と結婚する気がなくなっていたのだろう。結局のところ、バスチアンは勇士ヒンレックから生きる望みを二度奪ったのである。

 バスチアンと比べて勇士ヒンレックは自分がある。彼は勇士であり、ヒンレックであったが、バスチアンは物語が進んでいくごとに人間ではなくファンタ―ジエン人近づいていくし、バスチアンではなくなっていく。内的側面であるバスチアンらしさというのを彼は失っていくし、彼はそれについて何も思わないところが勇士ヒンレックと違う。

バスチアンとアッハライ

 アッハライは最後の方でも出てくる登場人物でバスチアンとは考え方が違い個がある。『モモ』のベッポと同じようにエンデは見た目や行動といった外的な側面特徴を変化させて、「○○ではなくなった」ということを表現するがここでも使われている。まずは最初にアッハライの紹介を。

「われらは、己が姿を日のもとにさらすをはばかり、地の中の光なき深みに住む。」無数のひそめた声が合唱となって返ってきた。「己が生を嘆き悲しみ、たえまなく流すわれらが涙。その涙もて地中の原石から、われらは不壊の銀を洗い流す。その銀を細やかなる線に織りなし、今しも君の目にふれたあの細工をつくる。いと暗き夜にのみ、ひそかにも地表にはいいで、地下につくりし細工のものを、合わせ重ねて組みたてる。ここにある洞穴はみな、われたが地表への出口なり。今宵の闇はわれらが姿を、たがいに見ずともすむ暗さゆえ、われらはこの働きによって、己が醜さをこの世にわび、はたまらそこにわずかながらも、自らの慰めをも見出さんとする。」

「だけど、おまえたち醜いのはおまえたちの罪じゃないよ!」

「おお、罪はさまざま!」アッハライは声をそろえて答えた。「行いのつみ、考えの罪、――われらのは、あるがゆえの罪。」

p.144

 綺麗な翻訳だなという感想はおいといて、バスチアンはアッハライを醜いいも虫から蝶に、常泣虫のアッハライから、常笑いのシュラムッフェンに変えた。しかし、見た目に起因するアッハライらしさ、つまり彼らなりの生きる意味がなくなったのだ。まさしく、「いまだだれの目をも、われらはこの醜き姿をもって汚したことはなかったのに。」である。アッハライ達すら自分たちの見た目を知らないはずだったが、バスチアン(とアトレーユ)は、アッハライの醜いという感情を思い込みから客観に変えたりもした。

 では、アッハライが何を失ったのか見ていこう。

「お偉い恩人さんよ!アッハライだったおれたちを救ってくれたこと、覚えているかい?なるほどおれたちは、あのときファンタ―ジエンで一番不幸ないきものだったさ。けど、今じゃ、自分で自分にうんざりしちまった。あんたが姿をかえてくれたのは、そりゃ始めは愉快だったさ。でも、今じゃ、死ぬほどたいくつだ。こうしてふらふらとびまわっているだけで、たしかなものはなんにもない。決まりってものがないから、遊び一つできやしない。救ってくれるなんていった、あんた、おれたちをばかげたおっちょこちょいにしちまった。あんた、おれたちをだましたんだ!え?お偉いさんよ!」

「ぼくは、よかれと思ってしたのだ。」少年は恐怖におののきながらささやいた。

「そうとも、あんた自身によかれってね!」シュラムッフェンは声をそろえて叫んだ。「あんたは自分がたいそうご立派に思えたんだろう。だがね、あんたのご親切の勘定を払わされたのは、おれたちよ、お偉い恩人さん!」

「どうすればいいんだ?」少年はたずねた。「ぼくに、どうしろというんだ?」

「おれたち、あんたをさがしていた。」シュラムッフェンたちは道化の顔をますますゆがめ、きいきい声でいった。「あんたがずらかっちまう前においつこと思ったな。やっとのことで追いついたわけさ。こうなったら、おれたちのお頭になってくれるまで、あんたを放しゃしないぜ。・・・・・・。」

「だけど、どうしてだ?どうしてなんだ?」少年は泣きだしそうになりながらささやいた。

道化蛾がコーラスで叫び返した。

「おれたちゃ、命令が欲しいのさ。指図してもらいたいのさ。強制してもらいたいのさ。禁止してもらいたいのさ!おれたちゃ、なんか意味のある生き方をしたいのさ!」

・・・・・・・。

「あっちへいってくれ!」少年は叫んだ。「もうおまえたちにかまってはいられないんだ!」

「なら、あんたはおれたちを元にもどしてくれなきゃいけないぜ!」耳をつんざくような声がいった。「そんならおれたち、またアッハライにもどる方がいいよ。涙の湖がほしあっがちまったんで、アマルガントの町は困ってるんだ。あの見事な銀細工のできるものもいない。おれたち、またアッハライになりたいよ。」

pp.362-364

 何がバスチアンと比較対象になるかというと、まず見た目が変わった時の反応である。バスチアンはデブでエックス脚であった記憶の代わりに美しさを手に入れたが、具体的にデブという何の記憶を失ったのかわかっていない。それに対し、アッハライたちは美しさを手に入れて笑えるようになって、上記のように醜さから起因した何かを失ったのが明確にわかっていたし、加えてそれを取り戻そうとしたところがバスチアンと決定的に違う。彼がデブとかエックス脚で失ったものは、『はてしない物語』の本と出合うために必要なきっかけである「追われてコレアンダーさんの本屋にはいる」という記憶が失われたのだった。(ちなみに『はてしない物語』の冒頭を読み返すとバスチアンがいじめられている理由で彼の特徴がわかり、それと同時に何を失うのか明確に分かる)

 

こんな感じでバスチアンと登場人物を比較しながら物語を読み返すと面白いかもしれない。

脈絡のない話

はてしない物語においてバスチアンは元の世界の記憶は忘れるが、ファンタジーエンの記憶は忘れていない。幸運か何かわからないが、バスチアンがアトレーユに会いたいという意思は非常に重要だったと思う。 やはり人は孤独に耐えられないのかもしれない。

・徐々に徐々に、バスチアンがなくした記憶を尊ぶところが皮肉だなと思った。

・消極的自由は、自分を何ものからも縛られないようにする自己中的な考えで、利己主義ともいえる。ここで、自分からも自由にならないとただの自己中だと私としては思う。

(freedom from 〜)

・積極的自由は、自分ではなく他の何かの自由を実現や維持をし続ける利他主義のような考えだ。少々、積極的平和主義が頭をよぎるが。そして、これが自発的に基づいた行動で積極的自由の強制しないようにすることが全体主義の芽を刈り取ると予測する。答えはハンナアーレントを読めばわかると思う。

(freedom to 〜) 

終わりに

 なぜ、最初に大学の話をしたかと言いますと自分自身をバスチアンに重ねたからです。一時、ファンタージエンから出るのをバスチアンがどうでもよくなってしまったように、私も他学部の授業も履修できる大学という場所で知的好奇心に身を任せ自由に履修をしようと思いましたが、これでは大学という場を出たくなくなってしまうと危惧したのです。というか、大学に来た理由、つまり目的を忘れてしまうと思ったのでした。

 私の大学は他の学科の授業が選択できる余裕と自由がありますが、ここでもし真の意思を持って授業選択をし大学生活を送らないと、個性的な何にもあてはまらない、裏を返せば専門性の基礎すらない人間になりかねいので気を引き締めなけらばならないと思ったのです。特に1,2年生のほとんどの人は友人もいないか、接する機会がいなのないのだから忠告してくれる人が不在ということになる。そのため、なおさら気を引き締める必要があるように思う。(忠告してくれる人の不在は、物語に当てはめるならアトレーユの不在である。)

 ちなみに、『はてしない物語』を読んでそんなことに気づき、授業を選んでいる真っ最中です。

  最後になりますが、読んいただきありがとうございます。13000字を超える長文で途中で読むのを止めたくなった方もいると思います。言い訳としては今月上げた記事はこの記事を合わせて二つですし、平均したらそれほどではないかと思います。ですが、引用のし過ぎや重複表現が多々あり読みにくかったことでしょう。それを知っていますので、文章力を上達させるために論文作成法の授業を履修するので、読みにくい長文から精錬された読みやすい文章へと徐々にではありますが変化してくと思われます。長い目で見守っていただけると嬉しいです。

 

以上になります。

 

付録

今回の付録はなかなか面白い発見です[part.1]

曲「君をのせて」(抜粋)

あの地平線 輝くのは
どこかに君をかくしているから
たくさんの灯が なつかしいのは
あのどれかひとつに 君がいるから

作詞 宮崎駿 作曲 久石譲 

 ジブリの「天空の城ラピュタ」のエンディングソングがあるじゃないですか、「あの地平線 輝くのは どこかに君をかくしているから」という歌詞は少々意味がわからないですよね。「はてしない物語」の最後の方でバスチアンは「自由の牢獄」の主人公と同じように盲目になってしまうのですが、なぜ彼らが盲目になってしまうのか考えているときにサン=デグジュペリ「星の王子様」を思い出して読み返してみたら、同じようなことが書いてあったのですよ。

 「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね......」

 僕は「ああ、そうだ」と答えると、あとはもうなにも言わずに、月にてらされたやわらかな砂の起伏を見つめた。

 「砂漠って、美しいね」王子さまが、ぽつりと言いたした…...

  そしてそれは、ほんとうだった。僕はずっと、砂漠が好きだった。なだらかな砂の丘にすわれば、あたり一面、なにも見えない。なにも聞こえない。それでもその静寂の中で、なにかがひっそり光っている......

 「砂漠が美しいのは」王子さまが言った。「どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね......」

 このとき不意に、僕はなぜ砂漠が不思議な光を放つのかわかって、息をのんだ。僕は子どものころ、古い時代に建てたらた家に住んでいたのだが、その家にはどこかに宝物がうめられているという言いつたえがあった。もちろん、それを見つけた人は誰もいなかったし、もしかしたら、さがすことさえなかったかもしれない。でもそれが、家全体に不思議な魔法をかけていた。僕の家は、その見えない中心部の奥に、秘密をひとつかくしていたわけだ……

 「そうだね」僕は王子さまに言った。「家や、星や、砂漠を美しくしているものは、目に見えないね!」

【引用文献】

サン=デグジュペリ, 2011(2006), 『星の王子さま』(訳河野万里子),新潮文庫, pp.116-117.

 なぜ、『星の王子様』からの「君をのせて」かといいますと、宮崎駿がサン=デグジュペリの『人間の土地』の日本語訳で解説しているからです。これに気づいたときオマージュか真似たなと思いました。

 以上、なかなか面白い発見でした。良かったら時間がある時にでも『星の王子さま』を読み返したり、「君をのせて」を聞き返してみてください。

 で、この『星の王子様』がフロムの『愛するということ』で取り上げられる「愛とは、配慮・責任・尊敬・知である」の良い例になると家族に言われたので、興味がある人は読み返してみてください。私もよい例としてお勧めします。

 面白い発見[part.2]

意志をテーマに名言を集めようと思ってショーペンハウアーの『幸福について』を読んでいたら、またまた「汝の 欲することを なせ」に関連する文章が見つかりましたので文脈を含め長めにご紹介いたします!

大自然の所産と人間の営みに対する観察、それから、あらゆる時代、あらゆる国々の天賦の才に恵まれた人々のさまざまな業績が、彼に外から刺激を与える。完全に理解し獲得できるのは彼だけなのである、彼だけがこうしたものを全身全霊で味わうことができる。言うなれば、これらにはただ彼ひとりのために真の生命を輝き放ち、かれひとりを相手にしている。これに対して他の人々はたまたま通りかかった見物人にすぎず、個々の部分をせいぜい半分しか理解しない。もちろん彼はこれらすべてによって他の人々よりも欲望が多い。学びたい、自分の目で見たい、研究したい、沈思黙考したい、錬磨したいという欲望、したがって自由な閑暇を求める欲望が多い。けれどもヴォルテールが指摘したように、「真の欲望なくして、真の楽しみはない」のだから、この欲望は、彼が他の人々には享受できない楽しみを味わうことができる前提となる。

ショーペンハウアー『幸福について――第二章「その人は何者であるか」について』より

(下線は原文にはない)

 

 

思考源・引用文献

 『はてしない物語』上・下巻

過去の記事 「自由研究 ~フロムの自発的活動をひも解く~」

      「自由研究 ~ミヒャエル・エンデ『モモ』~」

 

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