自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

愛の個別性

 最近、解けたと思った疑問があります。その疑問は、「愛」ってなんだというものです。愛の意味ではなくて、愛の輪郭ですよ。

 頭に残っているのは、ジブリ千と千尋の神隠し千尋がハクににが団子を食べさせるシーンの「愛じゃよ、愛」というセリフが、何だよそれって思わせる。他にも、ハリーポッターのボルデモートからハリーを救った母リリーの魔法を「愛の力じゃ」と表現するダンブルドア先生のセリフに対しても何だよそれって思っていた。

 映画のセリフから愛って何なんだよ、とずっと疑問に思っていた。

 というわけで、愛ってなんだよっていうね。メディアは、愛より青春をとりあげてばかりいるせいか、青春に比べて愛を捉えるのが難しい。

 で、愛の輪郭について言えることは、愛っぽい行為って人によって認識が違うのではなかろうか、というものです。

 まず、愛の共通認識について考えみよう。母親の子への無償の愛は共通認識としての愛であろうが、それ以外はどうなのか。昔は、宗教である程度統一されていたかもしれない。だが、現代日本では愛の共通認識が存在するのだろうか。なんなら青春の共通認識より共有されてなかったりして。

 もし確かな愛についての共通認識があるとは言い難いのならば、個々人の愛の認識(位置づけ)が個々人で異なるため、愛と思って行為をしたところで、受け取る側からしたら”そのような行為”を愛という行為として位置づけていないため、愛の行為がなされたと認識してもらえないのではなかろうか。(これを一致させていくのがコミュニケーションなんだろう。)

 愛の行為の位置づけが違えば、場合によっては、あなたにとってこんなことが「愛」なんですか、とか。自分にとってはこんなことでも「愛」なんですよ、という不思議な現象が発生するはずだ。お金が愛、時間が愛、手助けが愛、自力でできるように見守ってもらうことが愛、傾聴が愛、性的な交際が愛、DVでも愛、愛があるなら家事して当然とか、愛の行為と位置づけられている行為は人によってバラバラだ。

 愛の位置づけが、愛する側とそれを受け取る側で違えば、誰かを愛していても伝わっていなかったり、誰かに愛されていても気づいていなかったりするのではななかろうか。いわゆる、すれ違い。神は平等に人を愛していたとしても、人が平等に人を愛すとは限らないため、人は人を必ず愛してくれるから全部の行為が愛とか思うのはちょっと違うと思う。

 愛を受け取る側は、愛の範囲を正常な範囲で広げ、愛する側は、よくない表現をすれば「こんなレベルを愛として受け取るのか」というところに愛を位置づけると、かなり愛が身近になると思う。

 自分にとってはちっぽけな行為であっても、他者にとっては欲しかったものだったりする。他人にとってはちっぽけかもしれない行為かもしれないが、自分にとってはすごく大切な行為だったりする。自分に余裕がありすぎて人によってはおせっかいかもしれないが行為は、人によっては必要なものだったかもしれない。

 「愛されたいは、愛ではない」という映画のセリフがある。だが、まあ、愛することは難しいと考えるのが普通だ。無償の愛なんて母子と神にしかないものだとかね。愛の位置づけは人それぞれ違うという前提を踏まえるて無償の愛について考え見よう。無償の愛とは見返りを求めないという意味もあるだろうが、相手が求めることは自分が無償で差し出せるほど自分にとっては容易な行為だったり、頑張ってでも無償ですべき行為という自己犠牲的な場合もある。無償で差し出せるほど自分にとっては容易な行為と捉えて、フロムの『愛するということ』を紐解こう考えてみよう。

与えることは、自分のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は、自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それははぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

エーリッヒ・フロム,2010(1991),『愛するということ 新訳版』(訳鈴木晶),紀伊国屋書店,p.44.

 他者が求めて評価することをしてやる、できるようになることも大切だろう。だが、自分の容易にできることを求めている人のところで発揮すれば、受け手が愛と捉えるかは別として、愛していることにはなるのではないだろうか。

 別にできないことを頑張ってやれっていうわけではなくて、余裕のあるときに気が向いたときだけでもいいから自分ができることを求めている人にやってあげることが愛の循環につながるのではと思う。自分のできること(自分の力、富、権力、生命力)でしか人を愛すことはできない、ってね。例えば、お金がないので、金で貢がれることが愛と思う人を愛することはできないっていうのをドラマっぽく言えば、「僕じゃ、君を幸せにすることはできないよ」になるんじゃないかと私は思います。

 

 はい、次。

 愛の曖昧さって、その位置づけの個別性によるものではなかろうか。

 愛の等価交換は、お金ではないのだから困難である。例えば、結婚式で、メロンを嫌いな人が自分のメロンを、メロンを好きな人にあげたところで、失うものもなければ逆に食べ物を残す人というレッテルを張られずに済む。メロンを好きな人がメロンをもらえたら嬉しい。価値観の違いが、無償の行為を可能にする。誰かにとっては大したことがなくても、誰かにとっては嬉しいのである。逆に、誰かにとっては、大したことであっても、誰かにとってはありふれたことだったり、場合によっては求めていないことなのである。愛の拒否にもそれ相応の痛みが伴うが。

 愛の渡し方も、ものを手荒に渡されてたら受け取れる人もいるが受け取れない場合もあるし、勘違いする場合もある。言葉に気をつける必要性は、そういった面もあるのかもしれない。あやふやだとわからなかったりとかね。私は、「せっかく良いこと言っているのに、全然伝わってないよ」、「言い方」とかよく言われるので比喩は大切。

 

 自分にとってはどのようなことが愛で、他者にとってはどのようなことが愛なのか、それは容易に与えることが可能なのか、可能ならば必要な分だけ与えればいい。困難ならば少々考えよう。勘違いは避けたい。

まとめると、

 愛はその曖昧さ故に、我々、愛に疎い者たちを遠ざける。されど、その曖昧さ故に容易である余地を与え、無自覚な愛も可能にする。一方で、その曖昧さは愛されていたことに無自覚だったと気づく余地を残す。その曖昧さの判断にコミュニケーションを通じた意思疎通が伴えば、愛に一歩近づけるのではなかろうか。愛に疎い者たちよ。

となる。

 

 

愛の個別性について、

 

 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらあわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。

エーリッヒ・フロム,2010(1991),『愛するということ 新訳版』(訳鈴木晶),紀伊国屋書店,p.48.

 

誰に配慮するのか。誰に対して、誰がどのように応答するのか。誰が、誰のどのようなポイントに尊敬の眼差しを向けるのか。誰が、誰の情報を知っているのか、その機会はあるのかプライバシーの詮索はどこまでにしておくべきか。個々人の、遺伝子、生まれ育った環境、影響を受けた友人や時代、個々人を取り巻く様々な環境は同一ではないため、人々は同一ではない。何を愛と感じるかも、何を愛とするかも個々人で異なる。配慮、責任、尊敬、知以上に愛の共通の要素を見いだすのは、少なくともエーリッヒ・フロムは困難であった。

何を愛とするかは、人それぞれ違うことを理解し、愛は○○という単純化を辞め、自分と誰々の関係性の上にあるこの行為は愛といえそうだ、特定の人と自分の関係性と行為などを踏まえて何が愛かをっぽいか、位置づけるかが愛に近づく術のひとつと私は思う。

 

以上、ちょっと自己満っぽいけど、我々愛に疎いものたちに必要な記事だと思うので掲載します。最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。わかったつもりになって記事を書いていたらひどすぎる脈絡になってしまったので適宜編集します。

ちなみに、この話、私の女性の友人たちにしたところ、結構この話が通じましたよ。愛について恥ずかしがらずに対話をしてみると、実は簡単にわかっちゃってたのかもしれないですね。(笑)

 

 

思考源(自分のため、読者のために)

・映画「ハリーポッター」、「千と千尋の神隠し」他、愛を強調するセリフのある映画

・エーリッヒ・フロム『愛するということ』

・これまで覚えている範囲で尊重や配慮が際立だった利他的な気遣いを私にしてくれた人々とその行為、とりわけ大学以降に出会った人々とその行為

・漫画たち

・その他

 

 

付録

ジェネレーションXとポップカルチャーの関係から

共同性やコモンセンスの喪失に拍車をかけたひとつに、場を共にした経験の上に成り立つ思い出の喪失があるように思う。

 

同じオペラを一緒に見ていない。

金曜ロードショージブリを遠くでテレビで見ていたとしても一緒には見ていない。

昔、DVDで見たことがある。

 

いつ、どこで、誰と、どうやって、見たか。

意外にも、私たちはもはや、いつ、どこで、誰と、どうやって、どうだったか、と言わなくても済むような相手の存在がいなくなりつつあることに無自覚なのかもしれない。