自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~家庭における平等と平和の狭間から考える~

 奨学金に関して調べていたら、発言小町で面白い記事をみかけた。親が支払う子への学費の不平等である。学費の負担が兄弟と違い不平等だと訴えるのだ。家への仕送り開始時期問題が私の家でも浮上したことがあるので、興味深かった。もちろん、この問題を取り上げると私の家でも「平等」を主張して険悪な雰囲気になる。

 さてさて、今回のテーマは平等と平和の狭間について語っていきたい。その家族の話し合いのやり方に問題があるというのは抜きにして考えていこう。

 私たちは、平等を主張する。しかし、平等を主張するとなぜだか葛藤という名の分断が生まれる。家族問題というは葛藤から解決へとは中々向かわない。平等を主張し、葛藤を生むと平和は揺らぐのである。誰かが耐えなくてはならなければ平和は維持できないのか、不平等を被っている側が我慢しなくてはならないのだろうか。

 今回は愚痴るためにこの記事を書いたのではなく、ある視点が欠けていることに気づいた。その平等という視点を誰が持ち込んだのだろうか?というものである。ちなみに、平等というのはフランス革命後の近代から大きく掲げられた理念である。私が、平等を家で振りかざすようになったのは中学に入ってからで、自分の母校が平等を理念のひとつとするからであった。この発言小町の人も親の学費支援が平等でないと主張し、家族と葛藤しているが解決までには至っていないようである。この平等という観点はどこからやってきたのだろうか。

 家庭には特殊なルールがある。隣の家に1週間居候させてもらいなさい、そうすれば異文化交流は隣の家でもできることがわかる。それぐらい、各家庭につき特殊なルールがある。平等という観点を家庭に当てはめると、葛藤が生じ平和は崩れる。私は、一番何も負担していない家で負担の平等について主張すべきでないと経験から知っている。平等はどこからやってきたのだろうか。平等や倫理観といった正義を無視するのは非常に難しい。けれども、やり方を気を付けなければ正義は平和や調和を破壊する。社会に対して正義を主張するのにしがらみはないが、家庭に正義を主張するのは難しい。社会正義が家庭正義として機能するのはそう簡単ではない。だが、我々は社会正義を家庭に持ち込みがちである。

 私が家に持ち込んで失敗した社会正義はおならである。私は、おならの音を聞くと腸にひそむうんこの微粒子が鼻に入ったと思って嫌な気分になる。おならは不快な音なのである。なので、おならの音を出すな(すかしっぺにしろ)と家族にいう。私はおなら警察さながら家でおならを取り締まってきた。「そとでは、音出しておならしないでしょ、家でもするな」と取り締まるのだ。本当にたまに自分もすかしっぺに失敗することがあり、それでこのおなら警察の取り締まりは笑われて機能しなくなった。しょうがないので、それ以降努力しろと付け足す。多分、この話で笑ってしまった人もいるかもしれないが、話を戻すと社会的の常識を正義として家でふったのである。読者にもないだろうか、家庭には脈絡のない社会正義を家庭で振りかざして空回りしたときが。

 家族の性格や習慣にもよると思うが、社会正義が家庭正義として使えかは多分思っている以上に治外法権さながら難しいと思う。平等を家庭に持ち込みたいのはわかる。私もこれまで持ち込み、いくどとなく空回りしてきた。そして、これからも空回りすると思う。確かにと思ったのは、「一時の不平等を受け入れられないなら夫婦や家族としてやっていくのは無理だろう」という考えだ。

 もしかしたら、社会正義を家庭正義として持ち込むのではなく、家庭単位で脈絡や歴史にそった共通認識、同意から見出された正義で説得していく必要があるのではなかろうか。多分、社会正義は家庭正義として機能しないし、反発を食らう。なぜなら、それは家庭の脈絡に沿って生まれた正義ではなく、社会正義を持ち込んだからだ。(いや、まあ家族の性質にもよると思うが)

 平等はどこからやってきたのだろうか。平等はいい概念だとは思うが、私たちの社会の脈絡に適した社会正義なのだろうか。世界の正義が社会正義となるのは難しい。社会正義が家庭正義になるのは難しい。正義を主張するのも大事だが、平和や調和を乱したり破壊しうる正義というのを全面的に受け入れるのは難しい。正義が多少なり寛容でないと、正義を受け入れるのは難しい。

 平等はどこからやってきたのだろうか。それは、私たちの社会や家庭の脈絡にあっているのだろうか。輸入してきた社会正義かもしれない。輸入してきた正義で調和を乱したり破壊せず正義を主張し、問題を解決できるかどうかは、そのやり方だけで、社会や家庭の脈絡の問題は関係ないのだろうか。そもそも、なぜ社会や家庭の脈絡から正義を生み出そうとしないのだろうか。そういえば、家訓という言葉があった。

 社会の脈絡、家庭の脈絡がない正義を主張するなら考える必要があるように思う。なぜなら、正義は悪や善を生み、それにより場や共同体や仲間の調和や平和を乱したり破壊しかねないからだ。乱されたり破壊されないように寛容さはそこまで成長していない。また、関係の分断を修復するほど、コミュニケーションが上手くなければ、それを望んでいない人もいる。

 私は、関係の修復が可能であるという意味での平和の方が、暴力のない平和よりも難しいと思う。そして、関係の修復との方が平和と密接だと思う。だからこそ、分断を生みかねない正義をふるったことのある自分が目に入った。分断までいかないようにするためには、権利や義務といった常識の明確化かしつつ寛容さと調和が重要だろう。