自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由自在と手つかずの自然

 筆者が自由・自在に対して価値を置くのを促進したのは、生物の進化であった。

 生物の進化は、世代間を経た遺伝的変化を意味する。現代の生物の多様性を見る上で、環境や他の生物との関係があっていたものが生き残ってきたんだな、観察に値すると意味で貴く思うことができるようになった。環境や他の生物との関係は絶えず変化するだろうが、どんな風に進化したり、どの生物が生き残るのか考えると非常に面白い。

 何も手を加えないでいれば生物はどう変化するのだろうか、ありのままが見れるのではないかと、わくわくする。何も手が加えられていない人間などそもそもいないのだが、何も手が加えられていない人に対しても怖いもの見たさという関心はある。(これをカルチベートというなら納得がいく)

 

 自由・自在について考えていたら自然保護の思想にその片鱗がありそうだと思った。ウィルダネス(wilderness)である。

訳語注記

♦ウィルダネス[wilderness]

訳語としては「荒野」や「野生(地)」などが検討されたが、以下の理由で、ウィルダネスとした。wildernessとは、語源的には「野生の鹿」のこと。現代英語では、「野生動物のみが生息する無住の未耕作地」が基本的意味。アメリカ合衆国においては、とくにヨーロッパ人入植以前の「未開」の状態を残している原野や森林など、いわば手つかずの自然を意味することが多い。現在、こうした未開地の一部は国立公園などとして保護されているので、ウィルダネスは保護区域の同義語となっている。

 

エマ・マリス,2021,『「自然」という幻想―多自然ガーデニングによる新しい自然保護―』,草思社文庫,p.348.

 

 ただ、手つかずの自然は幻想に過ぎないと著者は指摘する。指摘しているだけでは具体性に欠けるので、代わりに大学のレポートを読んでいただこう。

 

大学のレポート

 本レポートでは、最初に課題図書『「自然」という幻想――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』の概要を述べる。次に、ヒトの活動による人為的環境と生物の関係について述べる。また、国際貿易と農地の集約化も合わせて考える。さらに、在来種のために外来種を駆除すべきかどうかを実在するある緑地でできるのではいかという考えを示す。最後に、イギリスの学者の方が外来種の選択的導入を考えていたことを取り上げ、エマ・マリスの考えが新しいものではないことを述べる。

 

 はじめに、課題図書の概要を述べる。

 本書は、自然の新しい見方として「自然に手つかずのものはない」という見方を示し、自然保護の在り方を再考し、新たな自然保護の在り方を指し示すという内容構成になっている。新しい味方と対比される思想として「定常的に、手つかずの野生(ウィルダネス)があらゆる景域の理想」とする考えがある。これに対して、著者はそもそも過去のどの時点を手つかずの自然するのか問いを立て、批判する。この問いを極限まで考えると、手つかずの自然といえるような基準となる過去の時点は1万3000年前であるという「更新世再野生化」という考え方を皮切りに、自然保護の在り方として本物の復活ではなく失われた種の「代理種」への検討へと移る。代理種は、手つかずのウィルダネスに基づけば外来種ともいえるため、外来種の利点を述べ、外来種の在来種への影響を踏まえ、絶対に外来種は駆除すべき存在と言えるのか再考を促しつつ、外来種の有効活用を促す。最後に、庭や工業地帯を使ったあらたな自然保護の形を紹介し、自然保護の七つの目標及びコストとの兼ね合いについて触れている。

 

 次に、課題図書を読んで考察したことを述べる。

 ヒトが特に土地という環境にどのような影響を与えているか、ヒトが作り出した環境と生物の関係はいかようなものかというのを取り上げたい。

 ヒトの活動が環境に影響を与えていた例は、野焼きだけでなく、農場、放牧、稲作があげられると考える。まず、農場については「ヨーロッパの大半の地においては、伝統的な方式で管理される農地は、自然保護の場なのだ。その地に見られる生物種は、すべて農地の生物種と見なされている。……。イギリス王立鳥類保護協会は『農業活動に依存する農地の野鳥』を保護するプログラムを持っている[1]」といった事例も、ヒトの活動が環境に影響を与え生物が暮らす環境を構築しているという一例だ。日本の稲作でも同様に、人間の活動である水田とゲンジボタルヘイケボタルとの関係[2]が知られている。また、水田にはホタル以外にも数種のトンボとその幼虫も生息している。恐らく、それ以外の生物も生息していると考えられるため、ヒトの活動によってもたらされている水田とそこに暮らす生物の関係に着目して、生物多様性のために調査を実施する必要がある。

 また、農地の集約化の度が過ぎると、ヒトの活動によってもたらされていた環境に住んでいた生物の住家を奪いかねないことは、国際貿易の議論の場において必要な知識と考える。なぜなら、現在、世界国際貿易において、リカードの比較生産費説が条約等を結ぶにあたって今でも活かされているからだ。その内容は、他国と比較して生産効率が高いものを生産し、他国より生産効率が低いものは他国に任せるというものだ。これを推し進めた場合、例えば環太平洋ではオーストラリアとニュージーランドにしか、ヒトの活動で生まれる放牧地がないといったことになりかねないのだ。そんなことをすれば、当然、日本の本州の放牧地に住んでいた生物は絶滅の可能性がでてくる。そのため、水田や放牧地といった人の活動に由来するものは、地域単位で一定の規模を水田や農地等に活用し続ける必要があるといえよう。

 

 次に、『新しい生態系』のフィールドとしてのある緑地が当てはまり、調査する意義について述べる。

 自然保護の議論の中に、在来種のために外来種を駆除するべきか否かという議論の中で、非在来種が支配する森を新しい生態系としてみるという考え方がある。

 ある緑地が新しい生態系に当てはまるか調査する意義があると考える。というのも、本書に出てくる「農業地帯と市街地の内部に存在するが農業にも都市機能としても利用されていない土地を調べた。このような土地が「新しい」生態系に相当する例になると考えたのである。結局のところ、人間が支配する都市と農地に近接しながら使用されていない土地こそ、非在来種の導入や局所的な絶滅などの変化が起きている可能性が非常に大きいだろうからだ。[3]」というのに当てはまるからだ。規模は小さいとはいえ、谷戸にある、ある緑地の周りは宅地囲まれてはいるものの、農地と隣接しているからである。ある緑地が外来種に支配されている生態系かそうでないかは調査してみないとわからない。ただ、仮に外来種に支配されている生態系ならば、そこでの在来種との関係を調査することは、自然保護において在来種のために外来種を駆除すべきか、という議論を一歩先に進めることができると考えた。

 

 最後に、イギリスの学者の外来種の選択的導入を1960年代時点で考えていたことについて、述べる。

 訳者あとがきを読んだところ、「手つかずの自然への信仰を支える生態学的平衡理論として知られる『遷移理論』は、20世紀前半アメリカの生態学から生まれた。[4]」との文言がある。これについてアメリカの学者に対して少々疑問がある。イギリスの学者で、『動物の生態学』の著者として知られる、チャールズ・S・エルトンの『侵略の生態学』において自然保護についてこう述べている。曰く、「“自然保護”とは、そもそも世界中において、すべての大陸とすべての島で、いっそうはっきりいうなら可能な限りすべての地域において、生態学的な多様性を最大限持った景観を、保ちかつ増大させることである。したがって、土着の生物種がそれぞれ占めるべき場を確保している場合には、群衆をいっそう豊かで興味深く、かつまた安定するように改造するため、外来の種を慎重に検討しながら選択的に導入することも、あながち否定するわけではない。外来種の多くのものは、当然の成り行きとしていずれは、到着し、ある生態的地位をしめるものだからである。[5]」と述べている。つまり、エマ・マリスの外来種を有効活用するという考え方は、1970年以前にイギリスの学者によって既に考えられており、新しい視点とは言い難いのが実情である。もしからしたら、ただ単にアメリカの生態学者たちがイギリスの文献を真剣に読んでいなかったり、間に受けていなかっただけかもしれない。

 すでに頭の中にある「手つかずの自然」こそ自然である、という考えはどこから来ているのか、なぜ自分はそのような考えを持っているのか、どこから来ているのかわかったら他国、他者はどのような考えを持っているのかと比較する姿勢が人の考えを自分に取り込むうえで必要と言えるだろう。

 

以上

 

[1] エマ・マリス,2021,『「自然」という幻――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(訳岸由二,小宮繁),草思社文庫,草思社,pp.281-282.

[2] 大場信義,2011,ホタルにとって水田とその付随施設はどのような環境か?,国立歴史民俗博物館研究報告,162集,pp.11-31.

[3]  エマ・マリス,2021,『「自然」という幻――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(訳岸由二,小宮繁),草思社文庫,草思社,pp.241-242.

[4] エマ・マリス,2021,『「自然」という幻――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(訳岸由二,小宮繁),草思社文庫,草思社,p.351.

[5] チャールズ・S・エルトン,1983(1971),『侵略の生態学』(訳川那部浩哉,大沢秀行,安部琢哉),思索社pp.206-207. 

 

レポートは以上。

自由自在と手つかずの自然

 人の手が加わっていない状態を自由だとして、自在になる人、自然に興味があったとしよう。しかしながら、人の手が加わっていない人、自然などないとは言い難いが、あるとは言えないわけで、自在が怖いもの見たさだとしても、見たいからといって見れるものではないなさそうだ。

 また、規範を自分の思想や習慣から切り離すのはかなり難しく、自在になる道は長い。

 

 

以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録

 3月3日の桃の節句に、桜と梅と桃のうち、桃の特徴を捉えるために友だちと桃を探していました。あれは桃かと言って人の家の庭の木を見ていましたが、「違う、これはボケ」だと教えてもらって、どうしても桃と言えそうな木が見つかりませんでした。花屋は、夕方の時点で既に桃ノ木を売るのをやめていましたし、見つかりませんでした。

 4月に入って桃の本を読んでいて、何てアホなことをしていたのだろうと自分に呆れてしましました。

 というのも、桃の節句は桃の節句であっても、私たちが探した3月3日は、新暦の3月3日に桃の花を探していることを意識していなかったのです、旧暦に沿っているであろう桃の節句に桃の花を探さなければ桃の花は見つからないのに、何馬鹿なことをしているのだろうと呆れたのです。

 ちなみに、桃を探すなら桜と同時ぐらいに探すと見つかりそうです。確信はありませんが、多分これ桃かなと思っている木があります。つまり、新暦の3月3日のために桃の花を売るのは、温室が必要なため地球温暖化に一役買っているというわけです。節句や祭り等は、旧暦に則るのが色々と良いではないでしょうか。

 皆様、立春と同様、カレンダーの節句等を見て花等を探すなら、旧暦に換算して考えましょう。