自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

愛の行為の位置づけが狭義である人

 愛するという行為は、自分自身のできることでしかできない、と言い切って問題ない。つまり、愛する対象に合わせて自分自身ができることをしていけば愛することができるといえよう。自身のできることが増えれば増えるほど、愛する行為のレパートリーも増えるということである。そのため、愛する対象の愛と認定している行為が特殊であっても、自身の愛する行為のレパートリーがあれば愛されているという感覚を与えることも可能になる。

 しかしながら、逆に言えば、愛される対象の愛と認定している行為が、レパートリーに欠けたり、特殊であったり、形式が決まっていたりするとすれ違ってしまったり、場合によっては拒否をし、最悪、客観的に見れば愛(親切に)されるよりも不利益を被ることになる。愛される対象の愛と認定している行為は、人によって違うので何とも言えないが、場合によっては本質が伴わない表面的な行為という形式があっていなければ、自分の目的のために合致し自分のために行われた適切な行為であっても、愛とはならないという人もいるのである。

 これは社会に広くある程度は人々に認められることだと思うが、行為を重視するのか、言葉を重視するのかである。満員電車の席の譲り合いを例にしよう。

 

 1.「どうぞ」とぶっきらぼうに席を譲ろうとする

 2.「よかったらどうぞ」と愛想よく席を譲ろうとする

 3.もはや誰も譲らない

 

 筆者の評価の順位は、2>1>3である。

例えぶっきらぼうに席を譲られたとしても、自分がゆずってもらえたことは嬉しい。これに対して、なんてぶっきらぼうな言い方なんだと言い方を責めるというのは、確かに気になりはしたとしても席を譲らなかった人よりは評価が上がりはしない。言い方は微妙だが、行為は評価できるというわけだ。

 ちなみに、家族曰く、3の席を譲らない人と、1と2の席を譲る人は同じ土俵にならず、1か2のどちらがいいかで判断するんだよと言われてしまった。

 読者の方々の、行為と言い方の比重はどれほどのものだろうか。

 電車に話をもどして、丁寧な言い方だけど愛(親切)するという行為はない人と、ちょっとフランクな気もするけど愛する行為をしてくれる人だ。愛の行為のやりとりであっても、関係性や内容にもよるだろうが、もしこれが、丁寧な言い方のみで愛(親切)を判断するということであれば、なんと表面的なのだろうか。丁寧な言い方がそもそも問題とならない状態、すなわち、丁寧な言動がなければ愛としないならば、他者等と言葉のやりとりが発生しないという状態である他者の無関心や孤独について考えてみると、マザー・テレサ「愛の反対は無関心」という言葉も腑に落ちる。

 おまけで、行為と言い方や言うことの比重がどれほどかをジャッチする質問を述べると、自分にとっては必要だけれども苦手で交替して欲しいことを交替せず、ただ「愛しているよ」と囁く恋人と、自分にとっては必要だけれども苦手なことを交替していくれる人で愛を囁かない恋人ならどっちがいいだろうか。

 

 愛という行為の位置づけが、狭ければ狭いほど、また愛してくれる関係性を限定的にすればするほど、特定の誰かでなければ愛の針孔を通せないということになる。そのような人を可哀そうな人だとしか言いようがない、と筆者は思ってしまった。

 まとめると、愛することは、自分ができることを相手の目的等を踏まえてやればいいので簡単だ。しかし、愛されている感覚を相手に抱かせるのは人によっては至難の業だろう。

 

何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。・・・・・・ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。・・・・・・すべての果実は苺と同時期に実ると思い込んでいる者は葡萄について何一つ知らない。

パラケルスス

 

エーリッヒ・フロム,『愛するということ』,エピグラフより。

 

 さて、愛するということについて考えているが、スムーズに思考が深まり少々驚いている。自由は、全くスムーズに進まないからだ。その違いを考えてみたことが3点ある。

 1点目は、自由に比べ愛は暴走する可能性が低い。愛するという行為は相手のためになるということが前提であるため、愛は拒めば鎮静化する可能性がある。しかしながら、自由を何が沈静化してくれるのか思い当たらないため、暴走する可能性が高い。

 2点目は、ちょっと関係ないが、裏と表、始まりと終わり、前と後ろ、等々、片方があれば片方もある言葉があるが、自由がはじまったらどのような終わりがあるのだろうと思ってしまった。自由と対になる言葉とはどのようなものなのだろうか。自由が生まれた瞬間に生まれたものは、責任だろうがなんだかしっくりこない。他に、自由が生まれた瞬間に何が対の言葉として生まれたのだろうかと思った。私は、愛の対が無関心であることに納得しているため、自由の対が何なのか気になる。

 3点目は、近代化以降、出版等で文字状の共通概念が形成されていった。そのうちのひとつとして、愛は金であるといった、愛の形は人によって違うという感覚がなくなる方向性は

 

 

以上になります。

 

 丁寧な口調は行為を正当に受け取ってもらえる可能性をあげると気づいたので、徐々に丁寧な口調にしなければと意識する属性を拡大していければと思います。行為を正当に受け取るかどうかの要素は、それだけではないでしょうが、とりあえず丁寧な口調から攻略していきたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録1

 なんと、ついに私は、質問することは権利であり、「質問ありますか?」と聞かれて臆せず質問ができるようになりました。

 これまで、大学の講義で、「何か質問はありますか?」という質疑応答の言葉を鵜呑みにして、質問を義務的意識でつくっていた私は、公共的な質問か、2度目の質問か、重要な質問か、等々を意識していることが自信につながり、内容に関しては臆せず質問できるようになりました。以前は、質問を何個もしていいわいけないし、他の人に譲る気持ちもあり恐る恐る周りを見て質問していましたが、概ね皆さん譲る以前に質問がないので譲る必要性がないことに気づきました。

 わからないことがあって質問せずに失敗したり、勘違いしたりするぐらいなら質問しようというものである。そんな無暗に質問すると、馬鹿にされたり迷惑だという見解もあるでしょうが馬鹿にされたり、迷惑だと思われたとしても自分や質問を思いつきさえしないものが失敗や、勘違いを未然に防ぐという意味で、質問することは良いことと考える。よく質問を促されるときに言われる、「自分がわからないことは、みんなもわかっていない可能性があるから、質問はみんなのためになるから、何かわからないことはない?」というものだ。

 ただし、特に良い質問を求める場で、場が冷めるような質問や以前聞いた質問を繰り返さない、一緒にいる人がその質問と応答を聞く意義は0ではないという見込みのある質問が望ましいということは忘れてはならない。

 

 

付録2

この前、絶対に東大に入れない人は一部存在するという発言をしたらなんとか否定しようとした人がいたので、確率について考えてみました。

まず、18歳以上で、100歳まで生きるとして、82回受験できる。東大の入学枠は○○で、受験者数は○○なので、82回の挑戦権を考えると、計算した場合、確実に100%ではないので、絶対に東大に入れない人は一部存在するといえよう。

(くれぐれも、こんなことを人に言うのやめましょう)

 

付録3

私は「社会の最小単位は家族だ」という認識を採用している。これを考えてみると、身寄りのない親戚もいない独身の個人というのは、どうなるのであろうか。こう考えてみると夫婦や兄弟というのは、社会の最小単位である家族を維持する可能性を持つが、独身というのは前述の認識を採用すると社会の最小単位ですらない、最悪社会性を持たない状態と表現できそうだ。では、質問を最後したいと思う。社会の最小単位は個人といえるだろうか。また、社会性を持たない孤独な人を定義することは可能だろうか。