自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

視点 ~多様性というけれど、他人の意見を聞く機会の乏しさに気づいているだろうか~

目次

多様性というけれど

 近頃、欧米諸国から始まり日本でも多様性が意識されるようになってきた。だが、ちょっと待って欲しい。多様性というけれど、他人の意見を聞く機会の乏しさに多くの人は気づいているだろうか。よもや、主に年齢・性別・宗教・肌の色・出身が多種多様であれば多様性だというまい。年齢・性別・宗教・肌の色・出身が同じだったとしても一人一人視点が違うのだから、大学生で女性で無宗教でアジアンな肌の色で東京出身でという人を多く寄せ集めたとしても、オープンクエッションに回答してもらったらかなり考えが異なるのは予想できる。確かに、日本の大学において年齢・性別・宗教・肌の色・出身がそろうことはあっても、視点・考えの多様性はある。ない方がおかしい。(もしそうなら、それこそナショナルカリキュラム・メディアの統一の賜物だ。)

 今の日本の現状で多様性が感じられないのは意見を発信する機会、他者の意見を知る機会があまりにも乏しいのが問題ではなかろうか。

社会性がないところの意見を発信する機会、他者の意見を知る機会

※私は社会性を継続的に同一人物に接する場がないところに生まれないと定義する

SNSやインターネット、いわゆるソーシャルメディア

 SNSやインターネットで意見を発信できたり他者の意見を知る機会を提供できているが、意見を発信したい・他者の意見を知りたいという欲求と実行がない者の意見は知り得ない。

選挙

 日本の選挙における投票率は50%前後と低いわけだが、50%前後でなくても先進国の中では低いわけだが、無投票の人々の意見をは知り得ない。

社会性があるところの意見を発信する機会、他者の意見を知る機会

学校機関

学校機関は前提の共有(同じ情報)をもとに議論ができる場 

 学校機関での意見の発信する機会、他者の意見を知る機会というのは非常に欠かせない。なぜなら、前提の共有ができた状態を作れるからだ。一人一人の考える元となる情報、すなわち前提が異なっていれば意見は当然違う。政策はこうすべきだという意見交換するとき、お国柄(理念)や国民性が違うのでアメリカの政策なのか、日本の政策なのかでかわってくる。情報が同じにも関わらず意見が違って初めて他者の視点で物事をみるというレベルになる。

 同じ彫像を見てないのに、同じ事象を見ていないのに、同じ情報を持っていないのにどんな議論ができるのだろうか。こんな情報もあるよ系の話し合い、例えば福祉の話をするときに「北欧では~だよ」という系の話し合いはただの情報の共有・前提の共有でしかないことは頭にいれておくべきだ。別に、知るというのが目的ならそれでいいと思うがね。

 話は反れるが、自分も知っている情報で構成されたわけではない考え、つまり前提の共有ができていないのに他人に意見を言われても参考程度にしかならない。賛成や同意はできないのである。

学校機関におけるグループワーク

 ここでいうグループワーク、特に意見・考えを一つにまとめるためお互いに意見を言う過程について言及する。本題に入る前に、グループワークをしたときの個人の評価の仕方は知らないということは断っておく。

 

【愚痴】読み飛ばしても構いません

 個人ではなくグループの場合、成果や評価は個人ではなくグループとしてだされる。ディベートの場合、四人でやると主張・質疑応答などに役割分担がされるので一人がどんなに頑張っても他の人がやる気がないと非常に足を引っ張られるはめになるのに、個人ではなくグループとして評価される。四人中三人がそれなりに参加して、一人が何も発言しない場合、何も発言しない人はフリーランダーというかずるい。なぜ、参加していないのにグループとして評価されて、貢献していないのにそれなりの評価を受けるのか理解できない。「発言できない人もいるんだよ、配慮してあげて」という発言がされるだろうが、おかしい。配慮してくださいと言われればするが、何度も質問しているのに何も発言しない、答えられない、分からないとも何も言わないのに察しろとはあまりにも傲慢だ。「発言の強要はしてはいけない、発言するもしないも個人の自由だ」と言われるかもしれないが、そういえばいいんだよ。どうやって参加して貢献するのか聞いたあとに言わないなら全面的に否定して排除といったそれ相応の対応をする。なぜなら、参加していない者が理由を言わずに恩恵を受けるのはおかしい。負担は平等にすべきで、その機会は与えた。グループワークは他者の意見を聞く、分担するから意味があるわけであって、誰も発言しない分担しないなら個人作業でいい。だから、参加・貢献しない人間には排除といったそれ相応の対応をする。というか、発言もしないといった一定の基準に達していない学生に単位・学位を与えるのはおかしい。先生に一人でやれと言われたら、費用損益分析をしたのちに一人でやる。今の大学の課題程度なら私は1人でできる。グループワークで何も発言しない、貢献しない人については共同著者で名を連ねることが可能な人の定義を参照して欲しいところだ。

以下参考、論文の著者順を決めるルールとその重要性 | ワードバイス (wordvice.jp)

 (注意:グループワークについて言及しているわけであって、社会の負担について言及しているわけではないと念を押しておく。)

大学でたくさんの人が同じことを勉強しているのに、一人で勉強しているみたい

 ただでさえグループワークは少ないのにグループワークをしても発言しない輩がいる。学校という場はルールさえ守っていれば意見を発表したとしてもソーシャルメディアと違って社会性のある場で対等な関係であるため叩かれにくい。学校の場合、記録はあまり残らないし、前提の共有もできるので、もっとも気兼ねなくアカデミックに議論できる場が学校であると私は思う。家庭も議論はできるが前提の共有はあまりされずに議論されるため、アカデミックな議論とは言えない。友達はなぜダメなのか、コミュニティーはどうなのかという考えは後程述べる。

 グループワークというか、学校機関における意見を発信する機会、他者の意見を知る機会は貴重だから重要でもある。学校機関ではアカデミック、啓蒙主義実証主義のもとタブーはないに等しい。日常会話における親しい関係であってもタブーな話題である政治・お金・性関連の話がそこそこオープンに批判的にできるのは学校機関ぐらいではなかろうか。

 だが、しかし、グループワークはコロナ禍も相まってほとんどない。前期は11コマとっていて、グループワークは1コマぐらいだ。他人のコメントシートやレポートも読む機会がないので、ほとんど他人の意見を聞く機会もなく、たくさんの人と同じことを勉強しているのに一人で勉強しているような気分だ。私は非常に他人の意見を知りたいという欲求があるため、他人の意見を見させてもらえるなら自分のコメントシートやレポートも公表してもいいという考えだ。読者の皆さんは過去に「人の意見を聞いたり、質疑応答を聞くのは非常にためになる」と言ったり、聞いたことはないだろうか。人の意見を聞くのはためになるにも関わらず、日本では学校機関であっても意見を発信する機会、他人の意見を聞く機会が乏しいように思う。

 ゼミに参加すればいいのだろうか。

社会性のある場で意見を発信したり、他人の意見を聞くのがなぜ重要なのか

他人の意見を聞く機会の重要性

 近代化に伴い活字メディアによって、人々の「内面」の経験がが増え、プライバシーが創出され、個人が生まれた。加えて共同体意識(国民意識)が形成された。さらに、現代ではソーシャルメディアSNSの発達により新たな共同体意識、同じ意見や意志を持つ者同士がお互いを認知し、関りやすくなった。学校機関では意見を発信する機会、他人の意見を聞く機会が乏しいなか、SNSといった社会性にかけた媒体により公の場で話さなくなったので閉鎖的になったといえる。(盗み聞きをしていた人々はおこぼれも盛らなくなった。)閉鎖的な媒体で同じ意見を持つ同士が話しても、そこに批判的な意見がはいる余地はなく軌道修正はされない。(また、短文明解が要求され説明は疎かになる)しかし、昔からあったではあろうが、タブーな話題(政治・金・性)をある程度しないといけない世の中になりつつある。日本社会は政治は衆愚政治っぽく、資産運用の重要性もわからない金融リテラシーのない国民が大半をしめ、ジェンダー平等の実現が望ましいからだ。性の話もある程度はした方がいいというにジェンダー平等は話をわざとずらしたと自分でも思ったので付け足しておく。先進国の中で性日本の教育が私は遅れいているように思う。男性への気遣いもそうだが女性への気遣いが不十分だ。緊急避妊薬(アフターピル)もまだ薬局では買えない。(参照:女性活躍万年「ビリ」組も当然?「ピル」後進国ニッポン:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

LGBTかLGBTQかLGBTQ+なのかよくわからないが、これについては日本は他の先進国と比べ理解が遅れいているように思う。

 そして、指摘するべき発言を誰かがしても、「人の考え・そういう人だから」といって指摘しなくなった。裸の王様状態の人が野放しにされているのである。そして、彼らは他者の意見聞く機会がないので、自分を客観的に見ることができない。

 そう考えると、アカデミック・啓蒙主義実証主義を重要視し、前提の共有が可能な社会性のある学校機関での意見を発信する機会、他者の意見を知る機会は重要ではなかろうか。また、子ども同士の無垢さというか、さほど悪意は入り込まないのでいいだろう。家庭でも友人との間でもタブーな話題(政治・金・性)の話について触れないなら、せめて学校機関ではこういった話題に触れることは重要な意味を持つ。コミュニティーに頼りたいところだが、日本はコミュニティー(中間共同体)はあまり機能していないのが実情だ。

意見を発信する重要は情報の非対称にあり

 なぜ、意見を誰しもが意見を言う場が必要なのか。私たちは言葉を通して明確に分かり合い、互いの情報の非対称性をなくす。自分の権利を主張するためにも、権利を侵害されないためにも、他者の権利を主張するためにも、他者の権利を侵害されないようにするためには対話が欠かせない。議論においてみられているのは、個人ではなく視点、個人の趣向ではなく情報や論理性だ。誹謗中傷は理由とエビデンスといった説明責任が果たされれば批判になる。場があれば、意見の捕捉や質疑応答もしやすく勘違いされにくい。望ましい社会の実現のため、配慮するためには仕組みを作る者と当事者との情報の非対称性をできる限りなくさなければならない。そういった当事者の努力が見られず、他者も代弁せず権利だけ主張するのは私から見ればおかしい。

意見を発信する機会、他者の意見を知る機会がない社会で多様性は意味を持つのか

 また、新しい視点を自分に取り入れさせてもらうためにも他者の意見は重要な位置を占める。啓蒙は論理性のある対話からではなかろうか。自分考えをアップデートする気のない人間がいるときは、「意見を発信する機会、他者の意見を知る機会」というのは「意見を聞く気がない人、自分が常に正しいと思っている人」がいるときに非常に重要な役割を果たす。玉石混交な情報があふれかえり、全ての情報を見ることは不可能な現代において学校機関における半ば強制の「意見を発信する機会、他者の意見を知る機会」は今まで以上に重要な意味を持つ。特に社会移動があまりされていない社会においてである。意見を発信する機会、他者の意見を知る機会がない社会で多様性はあってもないに等しい。さらに言うなら、自分の情報の限界を見定め、他者との情報の非対称性をなくそうと励みその情報を意思決定に反映しない限り、意思決定権がある者や社会の仕組みを変える立場につくべきではない。個人の意志に任せるぐらいなら、男女平等を法律で打ち出すのもありだと私は思う。責任ある影響力のあるものはこうあるべきだみたいなね。(法律は規範ですので規範を変えられますよ)

   

 

 無知を自覚し、思想の軌道修正や改善のために社会性のある場での意見を発信する機会、他人の意見を聞く機会は重要だ、そのような場を私は求めている。

 

 

 

 

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事は、「なぜ、同じことをみんなで勉強しているのに、人の考えをきくのって勉強になるのに大学で他人の意見を聞く機会が乏しいのか」という疑問から書きあげました。

 

 

後書き

公衆に多くの人があてはまるのか検討してみよう。 

厚東洋輔によれ、公衆は次の3つの特徴を備えている(厚東2006:83-85)。

 1つは「開放性」である。公衆になるためには特別な資格は必要ない。公衆に求められるのは、本や新聞・雑誌を読み、議論することだけである。現実には、本を読み、議論することができるためには、読み書き能力、さらには私有財産や教義が必要であり、結果として公衆の中心はブルジョワジーたちであったが、原理上は誰にでも開かれているものであった。

 2番めは「討論への愛好性」である。公衆は1人本や新聞・雑誌を読んで満足したのではない。読んだことについて互いに意見を述べ、議論を戦わせたのである。

 3番めは「自己教育性」である。公衆は議論についていくために競って本や新聞を読み、それによって自らを啓蒙していった。

 まとめると、「公衆とは、討論することを好む・啓蒙された・開かれた読書人階級」(厚東2006:85) であった。

・・・・・・。

公共圏は、新聞・雑誌という活字メディアと、話し言葉を用いたコーヒー・ハウスでの討論とのインターフェースにおいて成立していたことである。「同一の討論が新しいメディア[新聞・雑誌]へ移されて続行され、読書を経てまたもとの会話のメディアへ立ち返っていくわけである」(Habermas[1962] 1990=1994:69, []は引用者)。・・・・・・。

 印刷された書物や新聞を読むことによって親密な共同体から切り離された「活字人間」が、一方で国民として編成されるとともに、他方でこれと対抗しつつ公共圏として編成されるような社会とは近代社会にほかならない。

【出典】長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志、(2007)、『社会学』、有斐閣、(第5章).

 

 公衆の特徴である一つ目の開放性は多様性とも言い換えられる。二つ目は討論への愛好性で、三つ目は自ら学ぼうとすること「自己教育性」である。

 だが、私はこの順番を入れ替える。まず、欠かせないのは「討論への愛好性」だ。そして、「自己教育性」と「多様性」は同程度に重要だと私は思う。そう考えると、日本社会・教育機関というのは討論への愛好性は育ちにくい環境で、自己教育性は微妙で人によるし限界がある。(知を愛していないと無理そう)少なくとも自己教育性を育もとして結果がでている教員・学校は少ないと思う。指摘すべきなのは、実学に偏っている点だ。満足に稼げるようになったら勉強しなくていいなんてよもや言うまい。多様性は意見をは発信する、聞く機会がないので意識・把握できない。悲観的にいって、公衆の特徴を子どもたち、大衆たちが兼ね備えられる教育は実現していない。

 教育に頼りすぎるのはよろしくないので、家庭環境で公衆の特徴を育む必要がありそうだ。私は他の家庭を知らないので何とも言えないが、兄弟の方が親の方が批判的で、言語能力が高い・低いと思うほど皆が対話をしているのか気になる。全ての家庭で公衆の特徴を育むことを期待することはできない。

 議論は何のためにあるのか、皆が共によりよく生きるためにする必要があると私は思う。議論が乏しい社会でより良い社会は作れないだろう。まずは、自分に懐疑心をもち、無知の自覚をして、他者に質問をするというところから始めてみてはいかがだろうか。

 

 

 こちらもご参照ください ↓

自由研究 ~Ver.2 カントの『啓蒙とは何か』を読む~ - 自由研究 (hatenablog.com)

 

 今後の自由研究の記事の予定

ハンナ・アーレントの『人間の条件』の影響を受けた記事シリーズです。

・ 後日、ハンナ・アーレントの著作『人間の条件』用いて「多様性というけれど、他人の意見を聞く機会の乏しさに気づいているだろうか」という考えのフォローと「発言は何をもたらすのか」についての記事を書こうと思います。

・やっぱり「永遠」という感覚はこのブログや人が行動するうえでかなりはずせないので、ジョージ・オーウェルの『1984年』と『人間の条件』と合わせて記事を書く予定です。

・それから、「個人の自由は個人の欲求の充足の保障という解釈の危険性」という非常に微妙なタイトルの記事も『人間の条件』も合わせて再度考えをまとめなおす予定です。『1984年』にも触れます。古代ギリシアの視点からみると現代日本は「一億総奴隷化社会」なんて皮肉った記事になる予定です。(笑)

 

通常課題と期末課題に追われる身なので『人間の条件』をもろに受けたシリーズは8月後半になる予定です。お楽しみに。(もし、その前に上がってたら現実逃避で今やらなくていいことに真剣になっていると察してください。)

 

付録

付録1:ファシリテーター

過去、グループワークにおいて発言が積極的ではない人々のおかげ、自己PRに学校でファシリテーターやっていたので仕事場でもできますって言えそうですよ。「もっとよくするためにはどうすればいい?」なんて対等な関係であるはずの他の学生に聞く自分はいったい進化しているけれど…という気分です。

 ファシリテーターとは、効率的かつスムーズな会議を実現するための進行役のこと。中立的な立ち位置から意見の対立を調整したり、積極的な意見交換を促したりするなど、有意義な会議を行ううえで重要な役割を果たします。多様な人材雇用が進む近年では、組織運営にそのスキルを応用している企業も増えています。

出典:ファシリテーターとは - コトバンク (kotobank.jp)

 「ファシリテーターとは~ですよ。そして、注目して欲しいのは議論が活発なはずの英語圏ファシリテーターという言葉が生まれたことです。英語圏でさえファシリテーターなしには議論がしにくいというわけです。だから、私はファシリテーター役を引き受ける必要のがります。いいですかね。」と二回目のグループワークで言って、かつ自己紹介もしてグループワークを開始しました。

 

付録2:問題

啓蒙の対義語を自分なりに考えてみてください。

 

追記2024/02/12

現代社会は多様性というけれど、他人の意見を聞く機会の乏しさに気づた私であった。それに加えて、プライバシーとかあなたに情報を共有する関係じゃないと言葉の想定が容易な現代、多様性を隠すひともいるわけで、配慮や想定することが困難だということは指摘しておきたい。多様性はあったとしても、認知できない、隠して認知させない場合もある。想像は、現実からかけ離れている可能性が絶対にあるわけだが、どこまで相手を想像しようといえるか。