よく就活でコミュニケーション能力を求められたり、売りにしている人がいる。ただ、コミュニケーション能力といってもよくわからない。アバウトすぎる。
というわけで、今回の記事ではコミュニケーション能力について考えていく。
コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを成立させるものである。コミュニケーションというのは、二人以上の人同士で発生するものである。必ずしもずっと一緒にいる必要はないが、一人でいる時間が多ければ多いほどコミュニケーションはなく、つまりコミュニケーション能力も必要なくなってくる。
ちょっと脱線する。人は1人で生きてけないので、人には必ずコミュニケーション能力が必要となってくる。だとしたら、なぜ人は1人で生きていけない、いけなかったのだろうか。1人で生きていけない人が人類の大半なのだろうか。睡眠、食事というコンスタントに取らなければならない必然などを、食事がとれなかったり、病気や気象といった環境のリスクに対処するのは1人では難しいからだと考えられる。そもそも、生殖は二人がかりというのもあるが。
話を戻して、人は1人では生きてはいけないから、コミュニケーション能力が欠かせない。極端に言えば、文明が発達する以前は1人になったらコミュニケーション能力がない死を意味するに近いといっても過言ではないだろう。コミュニケーションは二人以上の中で生じる行為である。だから、何かしら人に接するときを線で説明できるのではなかろうか。
というわけで、図を作ってみた。休日の空想の4人家族で考えてみよう。図の見方は、1人につき一本の線を持っている。誰かと一緒にいた場合は線は交わり重なりあい一本の線になる。
図の説明をしたい。父は10時に起き、母が11時に起きてきたので二本の線は一本になる。12時から第一子も起きてきたので、交わる。しかし、12時からは、父と母は1人ずつになり一本ずつになる。第一子は自動的に一人になるが、ここでやっと第二子が起きてきて二本の線が一本に交わる。
この重なり合い(一緒にいる時間)は、一緒にいる時間がストレスと思い続ければ減る一方だし、何も思わなければ代わり映えしないだろう。(そして、誰とどの場に集まっているのかでその人の人間関係ともいえる。場所まで記載できれば、リフォームやマイホームときにどこに金をかけるのかの良い指標になるだろう)「家族との時間を大切にしたい」という人はこの線を交うように図が変わっていなければ、口だけの人となるのだ。コロナ禍で、みんなが在宅でみんながずっとリビングにいれば線は寝てたり、風呂やトイレ以外一本になるのだ。
一緒にいる時間、すなわち図において一本に交わっているときこそコミュニケーションがものをいうのである。ストレスか気にならないかはお互いの気遣い、意思疎通、合意形成、関係性や好き嫌い、常識など、コミュニケーションがものをいうのだ。一本の線、一緒にいる時間と言っても一緒にいるだけ、お話しするだけ、共同作業や映画、ご飯を食べるなど多種多様な活動内容があり、それに相応しいコミュニケーションが望ましいだろう。気になるが続き、指摘しないくせに、そして治らず永遠と気になるようならそれはストレスになっていき、できるだけ線が交わらない、つまり一緒にいる時間が減るようになるし、なっているはずだ。
したがって、誰かと一緒にいる時間が少なく、かつ容易に増やすことができない状態にいる人は、コミュニケーションが好きでなかったり、1人でいる時間が好きだったりすることによって誰かと一緒にいる時間が少なく、所属しているコミュニティーが少なかったり、人との関係性の気づき方が微妙で友人や知人といった容易に会える人がいなかったり、予定を組むのを億劫に感じる人はコミュニケーション能力が低いといって問題ないと私は考える。つまり、人との交流を忌避したり、人との交流を増やそうと思っても臨んだ結果が得られないことが続く人(人間関係を形成できない人、忌避される側)をコミュニケーション能力が低いといえそうである。
裏を返せば、人との交流を忌避はしていない人、人との交流を増やそうと思えば容易に増やせる人(人と交流するとき忌避されない人)がコミュニケーション能力が高い、もしくはいい具合に人間関係を形成できている、よいコミュニティーに所属できているといえる。
私がコミュニケーションをとれた、盛り上がったかの指標は、声を発し、応答がどうであったかによる。意志の疎通ができ、問題なくやりとりをしている中で、価値観や興味の合致がどこまでいったかや希少性、重要性で、やりとりの往復回数が左右される。事前情報があったりするとなおスムーズにいく。ただ、早口だとコミュニケーションの往復回数が上がる可能性が高いが、早口になれていないと相手がついてこれないことが多い。声が大きいのもあまりよくない。会話のテンポがかなり違うとコミュニケーションは続かない。交流を忌避している合図に捉えかねないのは、内容がわかっていないのに質問してないのがばれる、聞いてないのがばれる、会話を促進するわけでもない相槌や質問への「知らない」「わからない」のみの反応や、反応しない(いわゆる無視)があげられる。実はスマホや過度な聞き返しもあまりよくない。コミュニケーションを上手くやるにあたって自分ではどうしようもない要因としては、接着材の役割を果たす人がいるかどうか、時間的制限、環境的制限、運、相手の価値観、自分の無意識の価値観があげられる。
ただ、一番重要なのは、交流することがストレスならない、一緒にいることが気にならない人間関係やコミュニティーはお互いの気遣い、意思疎通、合意形成、実行といったそれこそコミュニケーションによって成立し、維持されるということである。それには勇気や寛容さといった心理的安全性(たまには意見を飲むとか改善されるとか)、合意を実行する誠実性、失敗や猶予といった一定の忍耐力や妥協と余白が必要だろう。多分、公平さも重要になってくる。ルールとして掲げると場の雰囲気が壊しかねない、厳重なルールという息苦しさ生むため、どこまで明示するかはその人やコミュニティーに所属する人の常識に相当左右されるの言うまでもない。
まとめとしては、コミュニケーション能力の日本語訳は人間関係形成維持能力といえる。私は、そう捉えたい。
終わりに
私は、コミュニケーションという行為そのものを好み、興味関心があるため、関係を維持するためにある程度の柔軟性は持ち合わせている。それすなわち、どんなに経済的に自立していようと、能力的にも自立していようと他者と関わるということでもある。だが、人と関わる上で個人由来の情報取得は欠かせないものではない。だから、「私自身に興味関心があって欲しい」というのが、交流する条件にある人には、もしくは無意識にある人とは交流が続かない、途絶えやすいように思う。そして、かなりの人が無意識にそうだと私は想定しているため、人間関係の形成は難航しそうだ。
代替え案は、自己紹介の際は交流がはずみそうなこと(関連性を見いだせそうなこと)を自己紹介に盛り込む(だから、最初は避けたい)。もしくは、相手が情報提供できそうな「○○に興味関心があるので、知っている方は教えてください」とかいう。そうすると、自分の情報を提供することが可能だ。
コミュニケーション能力高い人の話を聞いたところ、抽象化と具体化、経験を適切にやっていくとのことだ。
「趣味はダンスです」と言われたら、「ダンス好きなんですね。どんなダンスが好きなんですか?」、「K-popが好きです」と言われたら「韓国アイドルの影響でダンス始めたんですか?」
と言った感じで、場にいる人が話にはいれるように話を具体的ではなく、抽象的ではなく拡大方向で話を広げるとよいらしい。もちろん、同じものが好きというメンバーが集まったら具体的なことを話すと言っていた。私も無意識にそういった話の運び方をしたことはあるだろうが自覚しておらず、だいたい自己紹介をされたら無反応か詳細、理由を聞くという選択肢しかなかったのでぜひ取り入れたい。
まとめると、ジャンル、きっかけ(いつから)、頻度、最近は何がいいのか、団体競技なら誰と、時事ニュースに関連させて、ご意見をもらうと良さそう。
そして、周りを見習いたいですね。ちなみに、「ダンス好きです」「ダンス好きなんですね」と一回同じことを繰り返すというのは、見習ったことである。
最後に、現代の論点としては、どのようなチャンネルで伝えるかである。SNSか手書か、電話か、直接か、誰かを挟むか、匿名か記名といった選択肢があげられる。しかし、今回は、というか、コミュニケーションをとるといったら対面であるため触れなかった。そのため、人間関係形成維持能力における適切なチャンネルの使い方については今後の課題といえる。
以上が今回の記事となります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
付録 「面白い話をしたい」
間にあるという意味を持つinterestというのは、
interesting 興味深い、面白い
interest 金利、利子
interested in 興味関心がある
という風になる。
自分自身、interestingな話が好きだったり、interestといった金利、利子
に興味があったりとこの関連性が面白い。
私は間が好きなのかと。
人間というのは「人〇人」人と人の間に存在するからというのが
人間という語彙の語源と聞いたことがある。
ここにも何だか面白さを感じた。
さらに言えば、私は家の窓の数やの大きさに興味関心が最近あるが、
これも間取りかと一人であまりの間に関心に笑ってしまった。
時間も時と時の間にあるから時間と実に面白い。
知識の関連付けして面白がるinterestingも感覚としては、
間を探すといった、知識と知識の間(あいだ)に入っている感じで、
ここでも間かと思っている。
間に興味がある今日この頃である。
間に関連して一つ、間というのは長さを表す単位だったそうだ。
はじめてできた日本地図は飯野忠孝が江戸時代につくったものである。
人工衛星がないなか、その正確さは驚くほどである。
確か足を使って測られたものだ。
一尺など尺貫法は体由来が多いが、その正確さは度肝を抜く。
グレゴリオ暦の太陽年よりも誤差がないそうだ。
測るということにおいて、日本は優れているようである。
ちなみに、キーエンスという現在日本を代表する企業は
測定機器が主要な製品である。