自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~フランクルと真の自由の片鱗~

 やらなくてはならないことが終わったので、自由研究に勤しみたいと思う。今回の内容はここ一カ月で考えたこと。

目次

 一カ月考えていたこと

 2月は経済学科に転科するために勉強していたのだが、転科するかどうか結構悩んだ。どれぐらい悩んでいたかというと、試験日が2021年2月26日なのに2月4日ぐらいに決断し志望動機を書き始めたり勉強しなおしたりするぐらい、ギリギリ悩んでいた。

 悩んでいたのは、大学では別の学部学科の授業が取れるため転科してもしなくてもさほど変わらないから。あと、哲学科に編入学するのもいいが、編入して本を読まされネタバレするのは嫌だし、やっぱり哲学難しいけど、やはり気になると思っていたから。

 だが、早くしないと必要書類が集められないので転科か編入学かを決める際に、フランクルに習って、人生にどのように応答するか、と自分に問いかけてみた。この問いに対して、公衆と公的とと公益と時間を意識できる自分としては大雑把に言って100年生きる自分よりも優先すべきことがあるという答えを出した。何を自分より優先するかというと特に日本の大学の持続可能な学問の自由である。財源をどこかに依存している限り干渉されても仕方がないので、干渉されないための財源の確保を大学基金で実現したいので経済学科に転科することにした。また、自由研究をするうえでは経済史が欠かせないので近代と現代の経済状況もついでに把握してこようという算段だ。

大学の学問の自由を四つの視点から吟味する

・時間から見る

大学は学問の継承の場であり学ぶ際は先人の研究を踏まえるため時間は感じられる。また、様々な分野で概論や歴史があるので必ず時間は感じられる。

・公益から見る

上に立つ人間は大学を出ている専門的知識を有する者がなるので大学の教育は柔軟性があり変えやすいため社会を変えるうえで適切なアプロ―チといえるはずだ

・公的から見る

学問において思慮が入るのは難しく、さらに実益を兼ねないため私的には入らない

・公衆から見る

公衆とは、討論することを好む開放性があり、読書といった啓蒙するための自己教育性を兼ね備えるものたちのことを指す。また、「社会を構成する民衆が自律的で能動的な市民から成り立っているとみるとき、その民衆を公衆と呼ぶ」ということである。

日本において大学は公衆を生み出す場といっても過言ではない。なぜなら、本を読み一様ゼミでは議論するからだ。

 あくなき学問的探求の場、学生と教員とによる新たな知の創造を伴う動的な学びの場としての大学像が、フンボルト以上の考え方の基礎にあります。そこにみられる、いわゆる「研究と教育の一体性」は、伝統的な知を保管し継承することに主眼を置いていた従来の大学像に対し、当時としては斬新でした。これが「学問の自由」および「大学の自治」とともに近代大学の核心的な理念となります。さらにフンボルトは、一方で大学における「支配的な原理は孤独と自由である」とし、各人が学問とじっくり向き合って自由に研究を深めることを大切にしつつも、その上で「しかしまた人類の精神的活動は共同作業としてのみ進展する」と述べ、「志を同じくする者たちおよび同年代の者たちとの親密な共同体」の意義を強調するなど、常に他社とのコミュニケーションあるいは関係性の中で学びが行われるべきであるとしています。つまり、一人ひとりが自ら自由に研究する主体者であり、この能動的・自律的な個々人よって形成される学問のための共同体が、フンボルトの大学像の基本的な部分であるといえます。ちなみに、このような学びの共同体を制度的に具現化することを試みたのが、19世紀に同じくドイツで誕生した「ゼミナール」に他なりません。これが現代の日本においても受け継がれ、「ゼミ」という略称で親しまれつつ、大学の正課における学びのコミュニティのうち最も重要なものとなっていることは周知の通りです。ちなみに身近なところにも、目に見える影響がこうして続いているのです。

高橋直人,「主体的に学ぶ、他者と学ぶ、学びのコミュニティを作る」、出典「N06_06.pdf (ritsumei.ac.jp)

応答を考えている際には思ったことが二つ

 まず、仕事は「事に仕える」というのを表していますが、私も課題を中心にし事に仕えようとしているなと思いました。仕事と労働の違いも感じ取れたと思う。

 もう一つは、真の自由の片鱗が感じられた。というのも、自分中心から課題中心になり自分がいなくなると思ったのだ。今まで自分に依拠していた人間からすれば、結構な自己犠牲である。知的探求心に身を任せ哲学科で自由研究を促進させるのではなく、公衆と公的と時間を意識し学問の自由のために経済学科に進学するということは、自分のための短い人生さえ自分に使えないからだ。地動説を知ったら、天動説に戻れないように、コペルニクス的転回を遂げたら欲求の充足が最良の選択と思うことも後戻りもできず。どうしょうもないので、自発的に自己犠牲をする自分に価値を見出すことにした。

自由の克服か同苦(Mitleid)か?

 ・・・・・・。個人の自由という「偉大なる物語」は、実は自己の欲求の充足のための手段に過ぎない。

 このように「個の自由」がひとつの神話であることが暴露されても、われわれは依然としてこの神話に固有の語法によって語り、考えることを止めることはできないし、骨の髄までしみ通った「体験至上主義」を簡単にふるい落とすこともできない。それらを克服したあとに到来する世界をわれわれの語法で語ることは難しく、また危険でもある。ショーペンハウアーも実際、意志の否定に関してはきわめて慎重である。真の自由は、そのような盲目な意志の構造を認識し、否定する瞬間にしか存在しない。そのあとのことについては語らない(「無」としてのみ語る)のである。近代市民は、自分の理解できないものを、そのまま理解できないものとして受け容れられない。行為によって支配できないもでも、すくなくとも知的にマスターしようとする。近代市民は自由という偉大なる物語を支えに、未来の(自己自身の死を含む)存在の不確かさまでをも克服するべく、自己自身と全存在の秩序をみずから企画・実現しよとしたのであった。その偉大なる物語を放棄することは、すべての価値あるものの放棄、おのれの死を意味する。かりにその死が新たな愛の共同体を指示しているとしても。

[鎌田康男,1999,「『自由』に代わる理念は現れるのか?」日本ショーペンハウアー協会機関誌『ショーペンハウアー研究』4号,120-127頁.]

※下線は原文にはなく筆者が引いた

フランクルと時間(過去・現在・未来)

フランクルの時間の考え方も踏まえて転科するかどうか考えていたので紹介します。

注意して欲しいのは引用の順番がばらばらです。

ロゴセラピーが(実存主義の「現在の悲観主義」とは対照的な)「過去の楽観主義」だけでなく、(静寂主義の「永遠の宿命論」とは対照的な)「未来の実践主義(アクティヴィズム)」おも提唱していることがわかっていただからだろう。もし、すべてが永久に過去に保存されるのならば、何を過去の一部にして永遠化したいのか、それを今現在において決定することが重要である。これが、創造性を生み出す秘訣である。つまり私たちは、何かを未来という無から「過去という有(being past)」に移しているのである。したがって人間の責任性は、未来から可能性を選択する「未来の実践主義」と、可能性を過去という避難所へ救い出すことによって揺るぎない現実にする「過去の楽観主義」に基礎をおいているのである。

【出典】V・E・フランクル,1999,「はかなさと、死すべき運命――存在論的エッセイ」『<生きる意味>を求めて』(諸富祥彦監訳、上島洋一・松岡世利子訳),春秋社,pp.167ー186.

 過去は永遠なのか、と思っている読者がいるはずなので補足をしておくと、過去は絶対に変えられない事実だ。刑事事件で証拠・アリバイが絶対的なのだから、その事実が永遠だという解釈ができると思う。歴史を変えられないというのも事実だからである。

 確かに偽善者の行動の動機をあとから考えてみると気に食わないかもしれないが、行動自体は紛れもない事実であり、その行動をなかったことにすることはできない。また、その人の味方が変わるようなこと、例えば不倫や犯罪をしようが、それ以前に行ってきた善い行いを否定することはできない。

 ところが、一方では、すべては永遠である。いや、それ以上である。すべてはひとりでに永遠になるのである。私たちはそれについて何もしなくてよい。私たちがいったん何かを成し遂げれば、後は永遠が世話をしてくれる。ただし、「何をなすか」「何を過去の一部にするか」「何を永遠になるようになるか」――それえあを選択してきたことについての責任は、私たちがとらなければならないが。

【出典】同上

 

永遠の記録は失われることがない。これは慰めであり、希望である。しかし、同時に、修正することもできない。これは戒めであり、暗示である。過去からは何も取り除くことができないからこそ、どのような可能性を選択し、過去に保存するのかは、私たち自身にかかっているのである。「修正することができない」というのは、「私たちに課せられた、この責任の重さを思い出しなさない」という暗示なのである。

【出典】同上

 

 現在とは、未来という非現実と、過去という永遠の現実との境界線である。その上さらに、この境界線は永遠というものの「境界線」でもある。言い換えれば、永遠というものも有限なのである。永遠は、現在の方にだけむかって延びている。何を永遠の世界に入れるべきかを選択するその現在の瞬間の方にだけ向かって延びている。つまり、永遠というものの境界線とは、私たちが人生のそれぞれの瞬間において、何を永遠化すべきか、すべきでないかを決定する場所なのである。

【出典】同上

 現在は可能性を現実化する場であるため、現在において何を現実化するかが重要だ。なぜなら、それが過去になるから。物理は時間を細かくしΔtとして連続であると考える。嘘でも、偶然でも、頑張っからでもいいので、普段とは違うあるべき自分に一時なろうとも紛れもない事実となる。

 そのため、自分が公衆・公的・公益・時間を意識する者であるため専攻を変えたのは紛れもない事実であるといえよう。確かに自分のためにはならない何かをするのはためらってしまうが、今回は公益のためという行動を何度も何度も繰り返かえしその事実を過去に何度も保存すれば、そういう人であったことになるので、やはり今どうするかという視点は重要だと思う。

学問の自由の財源確保に向けて仕事する自分は実現しようがしまいが事実であり、「である」だけでなく実現できればと思う。

終わりに

・学問の自由の財源確保の見込みが立ったら哲学科に行き自由研究をまとめたいのので、できるだけ早めに終わらしたいですね。やっぱり、私的と公的の配分が重要ですよ。

・ちなみに、経済学科の転科試験には合格できたので来年度からは経済学科所属となります。このまま上手く進めばアイデンティティの確立ができ、青年期(心理社会的モラトリアム)も終わりそうです。もうすぐ二十歳になるのでいい感じに成人期に移行できるのは嬉しいですね。

セネカの「生の短さについて」を読んでたら私的と公的がでてきたので、昔は結構一般的な考え方で現代が異常なんだなと思いました。なので、私的と公的について考えたいなと思っています。

・それから、リベラルアーツ(自由民として教養を深める教育)の重要性と役割が何となくわかりました。

フランクルのこの考え方死して自分をも過去とし永遠とするという考え方なのですが、イエスが存在したかどうかを復活して死体がないので確認するすべがないんですよね。

 

以上です。読んでいただきありがとうございました。

永遠に関する引用と付録で終わりたいと思います。

彼らは皆、(死ぬという)ほんの刹那の時間を犠牲にして、永遠の存在となる道を見出し、死ぬことによって不死に到達したのである。

【出典】セネカ,2021(2020),「心の平静について 十六」『生の短さについて――他二篇』(大西英文訳),岩波文庫岩波書店,p.124.

 

月はくろぐろとした松林のうえで大きく銀色にかがやき、廃墟の古い石段をあやしく光らせていました。モモとジジはしずかにならんで、長いあいだじっと月を見つめました。こうして月を見ているかぎり、ふたりは永遠に死ぬことはないと、つよく感じていたのです。

ミヒャエル・エンデ,2020(1976),「5章おおぜいのための物語と、ひとりのための物語」『モモ』(大島かおり訳),岩波書店,p.72.

 

²³イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。・・・・・・。」
【出典】新約聖書 ヨハネによる福音書12章 ギリシア人、イエスに会いに来る

 

付録

「One for all, All for one.」はご存じの通り、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。」という訳で知られている言葉である。これを公衆・公的・公益という言葉を意識しながら読み返せば、連帯責任感が払拭できるのではと考えた。

調べてみるとやはり、"One"というのは1人ではなく目的という意味の方が強く、「ひとりはみんなのために、みんなは目的のために」の方が適切というえよう。勝手に近代っぽく意訳するなら、「みんなのための目的であり、みんなは目的のために」という感じなる。

ちなみに、三銃士ではなくラテン語の「Unus pro omnibus, omnes pro uno」に由来するらしい。

 

思考源

V・E・フランクル

「はかなさと、死すべき運命――存在論的エッセイ」

「人生の意味におけるコペルニクス的転回」

鎌田康男,1999,「『自由』に代わる理念は現れるのか?」

高橋直人,「主体的に学ぶ、他者と学ぶ、学びのコミュニティを作る」、出典「N06_06.pdf (ritsumei.ac.jp)

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