自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~ミヒャエル・エンデ『モモ』~

学期末課題がまだまだ残っているのですが、最近〆切だったミヒャエル・エンデの『モモ』第三部〈時間の花〉の読解がいい感じにできたので、それを載せたいと思います。レポート一つ一つが私の作品だと思うとレポートの完成度が上がる気がします。ブログに掲載できるというのも大きいかもしれません。

序論 モモの友だちから盗まれた時間とその時間

 このレポートでは、第一部と第三部を比較し、モモの友だちから時間が盗まれる以前と以後の変化を分析することで、灰色の男たちは時間という何を盗んだのかを考える。

本論 時間を存在させるための個々人の役割

三人のきょうだいのうち、いるのはひとりだけ、つまり現在だけだとも思えるし、そうでなくて、過去と未来のふたりだけとも思えるんですものね。それともうひとつ、三人のどれも、ほかのふたりがいなければなくなってしまうのだから、けっきょくだれもいないのとおなじだとも考えられるわけだわ!(p.208)

 時間は過去・現在・未来である。文字通り過去・現在・未来のどれか二つが欠けてしまうと時間ではなくなる。だが、モモが現在という役割を担うことで、ジジとベッポの時間が存在するための条件を満たす。
 ここで重要なのはジジ・ベッポ・子どもたちのそれぞれが自分の心で時間を感じることである。ジジは夢(未来)を見て生きているのでモモという現在がいることで時間を感じる。ベッポは過去を見て生きているのでモモという現在がいることで時間を感じる。モモは子どもであり、子どもたち自身でもあるため現在を見て生きており時間を感じることができる。時間において現在は欠かせない。なぜなら、「三番目がここにいないと、あとのふたりはなくなってしまうから。」(pp.203-204)この三番目は現在のことであり、過去と未来を区分するための基準でもあるから欠かせないのである。
 ジジとベッポはモモがいなくなると時間がなくなるので、それを作中では「時間をぬすまれた」と表現していると考えられる。

 まず、モモがいなくなったことでジジにどのような影響がでたのかを考察する。

もどりたくても、もうもどれない。ぼくはもうおしまいだ。おぼえているかい、〈ジジはいつまでもジジだ!〉、ぼくはそう言ってたね。でもジジはジジでなくなっちゃたんだ。モモ、ひとつだけきみに言っておくけどね、人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ。いずれにせよ、ぼくのような場合はそうなんだ。ぼくはもう夢がのこっていない。¹(p.276)

 ジジは未来(夢)を見て生きていたが、モモという現在がいなくなり時間が存在しなくなる。そして、ジジの夢は叶ってしまい、自分自身でもなくなり心を失い、モモが表れても時間を感じとれなくなる。なぜなら、彼という心がなくなってしまったからと考えられる。
 次に、モモがいなくなったことでベッポに与えた影響を考察する。

でもその掃除のしかたは、もういぜんのように、ひと足すすんではひと呼吸、ひと呼吸ついてはほうきではき、というのではありません。せかせかと、仕事への愛情などを持たずに、ただただ時間を節約するためだけに働いたのです。彼には、くるしいほどはっきりとわかっていました。こういう働き方をすることで、彼にはじぶんの心の中のそこからの信念を、いやこれまでの生き方ぜんぶを、否定し、裏切ったのです。²(p.243)

 ベッポは過去を見て生きてきたが、モモという現在がいなくなり時間が存在しなくなる。そして、ベッポという過去がなくなり、自分自身でもなくなり、時間を感じとることができなくなる。掃除の仕方がベッポという過去の特徴であったのにそれをなくしたため、モモに気づいてもらえなくなってしまう。
 最後に、モモの不在が子どもたちに与えた影響を考察する。

こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。³(p.247)

 子どもたちは大人に現在という時間をとられ未来に生きるよう強要されてしまい、現在を感じることも生きることもできなくなってしまう。
 子どもでもあるモモは自分の現在もなくそうとするが、モモが思いつく方法は試すことができなかった。そして、自分という現在であることしかできなかった。

結論 時間の花は心そのもの 

 以上をまとめると、灰色の男たちは彼らの心そのもの盗み、時間を感じられなくさせたと考えられる。
 モモは現在という時間を担っているジジ・ベッポ・子どもたちは個々人で見て生きている時間が違う。そして、何を見て、つまり感じて生きているかがその人の特徴であった。自分を否定するということは自分という心をなくしてしまうとも解釈できる。自分自身でなくなり、心がなくなった人々はモモという現在に会っても時間を感じることができない。
 つまり、時間の花は心そのものを表していると考えられる。そして、灰色の男たちは心そのものを盗むことで、同時に時間も盗んでいたと考えられる。

 

脚注

¹ 第一部では p.53 のジジの発言と比較可能である。
² 第一部では p.49 のベッポの発言と比較可能である。
³ 第一部では p.31,p.44 の子どもたちの様子と比較可能である。

引用文献

エンデ,ミヒャエル,2020(1976),『モモ』(大島かおり),岩波書店.

 

 

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