今回のテーマは自由だが孤独ではない、というのを実現可能なのかというのをフロムをもとに考えた。(自分的にはわりかしよい。)
まず、考える元の文章。
われわれは一つの積極的な解答の存在すること、自由の成長する過程は悪循環とはならにこと、人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できることを信じている。・・・ われわれは自我の実現はたんに思考の行為によってばかりでなく、人間のパースナリティ全体の実現、かれの感情的知的な諸能力の積極的な表現によってなしとげられると信ずる。これらの能力はだれにでもそなわっている。それらは表現されてはじめて現実となる。いいかえれば、積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する。(p.284)
人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときのみ、また人間が積極的に社会家庭に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望――孤独と無力感――にかりたてているものを克服することができる。
(p.302)
引用 E・フロム,1951[2019], 『自由からの逃走』東京創元社.
フロムの積極的自由をひも解く前に孤独の条件をすこしまとめておく。まず、孤独とは共感・共同作業が存在しなことをいうとしておく。
「積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する。」
まず、全的統一的なパースナリティとは、理性と感情が共存しているパースナリティのことを指している。
この一文の注目すべき点は、「自発的な行為」という、自由は心の在り方ではなく「行為」と言及しているところである。なぜ積極的な自由は「自発的な行為のうちに存する」かという自己解釈は、全ての気持ちを共感するのは不可能だけれど、共同作業は孤独感を緩和させる効果があるはずだから、積極的な自由は「自発的な行為のうちに存する」のだと思う。(なぜ積極的な自由が”自発的”を重視するのかは過去の記事を参照)
経験至上主義は個々人の「感じる」ということを重要視し、過去の感情は他者とほぼ共有できない。そのため、同じ経験をしていたとしても孤独は味わうだろう。しかし、経験至上主義であっても経験を分かち合うという共同作業を通せば、自由であっても孤独にならずにすむのではないだろうか。
フロムのいう、「経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときのみ、また人間が積極的に社会家庭に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望――孤独と無力感――にかりたてているものを克服することができる。」を自己解釈するならば、社会をより良い方向にもっていこうという行為をしていれば、どこかに同志がいるわけであり決して自分一人ではないため、自由に行動しようとも孤独ではないといえると思う。
(そう考えると、SNSやメディアの発達のおかげで容易に他者とつながれるようになったのは、非常に喜ばしいことである。)
本来の目的
実は「自由だが孤独ではない」というテーマについての記事を書こうと思っていたのではなく、「選択のパラドックスのは感情に基づく優先順位をつければ問題は解消されるのではないだろうか。ならば、全的統一的なパースナリティのいう理性と感情の共存は重要だよね」という記事にしようと思っていたがまとめるためには端折るしかなかったので今回のテーマになってしまった。
今回の記事の内容は自分の解釈であり、必ずしもフロムの解釈を完璧に読み解いているわけではないので注意して欲しい。
最後に自由からの逃走から引用して終わろうと思う。
気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福をあたえるものはない。
引用 同著,『自由からの逃走』,p.288
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