自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~フロムの自発的活動をひも解く~

お世話になっている教授からちょっとした要求があったので、この場をかりて自分の考えを述べたいと思う。

この記事は、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んだことがない人にはわかりにくいと思うので留意していただきたい。この記事を真剣に考察する気がある読者はフロムの『自由からの逃走 第七章 自由とデモクラシー』と『愛するということ  第二章 愛の理論』を手元に置きながら読むと理解がはかどると思う。

また、今回のテーマが難題なのと夜中に書いているため非常にまとまりのない文章で粗削りになっている。しかし、それは後期の授業が始まる故、仕方がないのである。そのため、それも留意して読者には読んでいただきたい。

 

 

はじめに

積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する。(p.284)

引用:エーリッヒ・フロム『自由からの逃走第七章自由とデモクラシー』

最後の章である「第七章 自由とデモクラシー」でフロムの考える自発的活動の意味が分かるためそれをつかみ出すのが、教授のちょっとした欲求である。これは難しい問題らしく、教授が質問を切り分けてくれたので順次考えていく。

 

創造的活動においては何が創造されるのか?

われわれは活動ということを、「なにかをなすこと」とは考えず、人間の感情的、知的、感覚的な諸経験のうちに、また同じように人間の意志のうちに、働くことのできる創造的な活動と考える。(p.285)

引用:同上

「創造的な活動」においては何が創造されるのか?について考える。教授曰く、個別的な行動やそれによて生じる結果ではないそうだ。

創造的な活動において「自我が創造される」が私の考えだ。上手く説明できないが説明する。まず、活動と行動の違いは行動は体を動かして行動と認定されるが、フロムの言う活動は物事を認知し→感じ→考え→行動する(考えを表現する)という、認知し→感じ→考えることも含めて活動と言っていると思う。人は認知すると感じ、感じると考え、考えると行動するため、このどんどん発展していく過程をフロムは創造的な活動と表現しているのだと思う。

『愛するということ』から具体的に考えていく。

どんなタイプの創造的活動においても、働く者とその対象は一体となり、人間は創造の過程で世界と一体化する。ただし、このことがあてはまるのは、生産的な仕事、すなわち私が計画し、生産し、自分の眼で仕事の結果をみるような仕事のみである。(p.36)

引用:エーリッヒ・フロム『愛するということ第二章愛の理論』

ここから考えるに、創造的な活動とは漁師が良い例だと思う。まず、海や天気を確かめ諸経験から生み出された(感覚)から判断し、計画し、糸や網をたらし、魚という結果をみる、という漁師の仕事は一連の流れこそが創造的活動と言えよう。

つまり創造的な活動は「自我を創造する」というのは、子どもが様々なことを認知し、感じ、考え、行動するというのを何度も繰り返すことによって、予想したり望んだり学習していき、性格という行動に個性が表れ自我が形成されていくのだと思う。そして徐々に、何を重視するか興味関心があるかというので認知に偏りが表れていき、さらなる自我の発展につながっていくのだと思う。

以上のことと、フロムが自我を重視していることが文章から読み取れるので、創造的な活動は「自我を創造する」のだと、私は考えた。

(哲学の難題の一つにも関わらず自我を定義していないのに「自我を創造する」というのはよくないので、それは今後の課題とする)

 

自発的な活動は何を対象として、何をつかさどっているのか?

教授に切り分けてもらった問題の内容は先ほどの『自由からの逃走』p.285の続きにある、感情、知、感覚、意志などのどこか(どれか)を抑圧したり逆に暴走させたりするのではなく、「生活の様々な領域が根本的な統一に到達したときにのみ、自発的な活動は可能であるから。」(『自由からの逃走』p.285)というときの、自発的活動は何を対象として、何をつかさどっているのか?が次の問題である。

自分自身つかさどるという言葉をあまり使わないので、正直考えがこの問題に対して適切かどうかわからないが、それなりに考えた。

自発的活動とは何か?

自発的な活動とは、何かに駆り立てられることなく能動的に創造的活動で養った自我に基づいた活動である。つまり、自我の表現(または実現)である。

(眠いけど完成させたいのでこの項目はあとで修正するかもしれない)

自発的活動はなぜするのか?

自発的活動をしていないなら、自我がなく自動人形であり生物的に生きてはいても感情的、精神的には死を意味する。それは、「生きている」ということになるのであろうか、否、それは自分の人生は生きていないといえるだろう。つまり、自発的活動は自分の人生を生きる、要するに自分として人として生きるということの根幹だと思う。だから、人として自分として生きるために自発的活動をするのである。

教授が切り分けた問題である、自発的活動は何をつかさどっているのか?に対して私は、「自発的活動は人として生きることそのものをつかさどっている」というのが私の考えだ。前提として他人の人生というか、パッケージ化された人生、自分の人生ではないものを「人として生きる」とは言えないと思う。(フロムに言わされば自動人形であって人として生きたことにはならないだろう)

 

自発的活動の対象について

自発的な活動は自我の表現(または実現)がそれにあたると思う。

自発的な活動内容の善悪の問題については『自由からの逃走』のp.295の最後の方でフロムが述べているので自発的な活動内容の善悪の吟味は必要ない。以下の引用文よりそれがわかる。わからない場合は、p.295の全文を読めばフロムが善悪の自発的活動内容の善悪の問題についての見解がわかるはずだ。

もし人間の自由が・・・・・・への自由として確立されるならば、もし人間がその自我を十分に妥協なしに実現できるならば、かれの社会的な衝動の根本的な危険は消滅し、ただ病人と異常人だけが危険なものとなるであろう。(p.295)

引用:自由からの逃走

自発的活動内容がフロムが信じるように善悪の問題が介在しないのならば、自発的活動は善悪の問題に関してなら法律を気にしなくていいと言いても過言ではないと思う。自発的な活動として夫婦別姓に関して言えるがこれは善悪の問題ではなく法律における定義の問題であるため法律は気になってくる。しかし、今回の趣旨は社会における自由の範囲ではないためこれ以上ここでは言及しない。

 

では、自発的な活動は何を対象としているかについて真摯に考えるとしよう。

p289の「自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに孤独の恐怖を克服する一つの道である。」孤独の恐怖を克服する道は『愛するということ』で明確に述べられているおり、p.37で「生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合化、すなわち愛である。」と述べており、この愛すること(配慮・責任・尊敬・知)こそが自発的な活動の対象とされていると思う。

 

自発的な活動

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人間が自我の統一を犠牲にすることなしに孤独の恐怖を克服する一つの道

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完全な答えである、人間どうしの一体化、他者との融合化、すなわち愛である。

 

(ちなみに、フロムの言う愛の対象は母性愛や恋人という限定されたものでない。愛の対象は全ての人間であることに注意して欲しい)

『愛するということ』p.25でフロムは「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。」のと述べていることから、その孤独を克服することの重要性がうかがえる。なぜそこまで重要視するのか、それは自我の実現をはたし人として(自分として)生きるためである。だから、孤立の克服は消極的でなく、人として生きるという積極的な理由のために解決する問題なのである。

フロムの考えは、

人として生きるために、自我の実現をし、自我の実現のために、孤独を克服し、孤独を克服するために、愛するのである

安定があるから孤独を恐れず積極的に自由に動けるのである

孤独を克服しないと自我が不安定になり創造的活動ができず、自我の実現という自発的活動もまともにできない。そのため、愛が自由を生かし、かつ成長させる存在なのだと思う。また、その自由を手にし自発的に活動し誰かを愛するのであろう。安定があるからこそ、積極的な自由に活動できるのである

「積極的な自由が全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」のは、自分のパーソナリティというのもあるが、自分ではない全的統一的なパースナリティを持った人の自発的な行為(または活動)という愛のうちに存するのではないだろうか。積極的な自由は愛によって生かされ成長させてもらい、また自分も愛によって相手の積極的な自由を愛することで生かして成長し、相互補完して一体化し孤独を克服するのだと思う。

だから、つまり自発的な活動は愛するということ(または活動)である配慮・責任・尊敬・知という活動で孤独を克服するのだと思う。

積極的な自由とは孤独を克服し安定した自我の自発的な行為の上に成り立つ。

 

活動ではなく行為である重要性について

そもそも、自由が行為のうちに存するのは当たり前である。なぜなら、思考が自由なのは当たり前だからだ。(誰が他人の思考を制限できるというのだろうか、そんなの無理な話である)誰も制限できないところに自由の問題は生まれない。だから、自由は活動ではなく行為のうちに存するのだと思う。

 また、誰かに何かを与える、つまり愛するとき行為せずどうやって与えられるのだろうか。人の心は行動や発言を通してしかわからない。だから、誰かに何かを伝えたり与えたりするとき行為しなければならないので、積極的な自由は行為のうちに存するのである。

 

以上が「積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」をひも解いた私の考えだ。

 

ひも解いて考えたこと

消極的自由は個人の方に目を向けており、積極的自由は自分以外の方に目を向けているような気がする。

個人が自分自身の所有しているもの(身体的特徴、性格や財産などすべてを含む)に目を向ければ向けるほど、自分と他人とを区別すること(個別化ともいえる)になるため孤独に向かうのは必然のように思える。

一方で、積極的自由は自発的活動は活動という動的なものに着眼点を置いており所有という問題ではないし、自発的活動が愛であり他者に目を向け、理解という配慮、責任(responsibility)という双方向の結びつき、尊敬という他者の違いを認めること、自分以外に起因する知という誰しもに共通し分かち合えるものを持つ。つまり、愛するということは他者を必要とするため孤独を克服する道へとなるのであろう。

自分に着目する個別化ではなく、他者に目を向け自分と他者との共通点を見出し結びつけることが愛するということの第一歩ではないだろうか。だが、自分と他者とを結びつけるために自己理解を怠ってはいけないように思う。

 

ひも解いた感想

正直、自発的な活動は何を対象とするのかが一番難しかった。また、考えがぼんやりとしているのは否めない。私はもともと本に線やら言葉を書き込む癖があり、それが今回ひも解くうえでとても役に立ったので過去の明瞭な私の頭に感謝する。

そして、教授の模範解答では必ずしもないとは思うが、教授に問いを小分けにしていただいたおかげで愛の習練はおいといて積極的な自由を得る条件がとても明確にわかった気がする。今は一時的な何かか誰かとの一体化による孤独の克服にすぎないが、いつか完全な一体化を実現する下準備を整えることができた。教授にはこの場をかりてもう一度感謝したいと思う。教授のちょっとした要求に私の考えが応えられたなら何よりだ。

 

終わりに

仮にもし辛抱ずよくここまで読んでくれた読者、手元に本をおきながら読んでくれた読者がいたのなら、その姿勢がこの上なく嬉しい。まとめる能力がないのは非常に申し訳ない。

今後の自由研究は今ある自由の社会的範囲はだいたい分かったので、自由はどあるべきかについて考察できればと思う。

                                   

                                    以上

 

 

 

 

思考源

エーリッヒ,フロム,1951[2019]『自由からの逃走 第七章 自由とデモクラシー』(日高六郎訳)東京創元社.

エーリッヒ,フロム,1991[2010]『愛するということ 第二章 愛の理論』(鈴木晶訳)紀伊国屋書店.

ちょっとした要求をし問題を小分けにしてくれた教授