自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~君たちはどう生きるか~

目次

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか』を読んだことがある人はご存じの通り、コペル君こと本田潤一くんが主人公である。叔父さんが「へんな経験」を忘れさせないため甥にコペルニクス君とあだ名を当初はつけたが、「いつの間にかつまって、コペル君となってしまったのである」。

コペル君という名前の由来は「ものの見方について(おじさんのノート)」に書いてある。子どもっぽい自分中心(自己中心的)の天動説的な世界観から、大人になると地動説のような考え方になることが叔父さんにとって重要なのだ。

この本を結構前に読んだときはよくわからなかったが、コペルニクス的転回のことを言っているのか、と今になってやっと気づいた。

自己に縛られることも不自由ではないか

積極的自由と不変的な自己

積極的自由の定義は今の問題が解決したらどうしたいか、つまり消極的自由が実現したら何を求めるのか、という風に大まかに定義する。

 人間はなんら従うべきものを持たず己の行為を一から自分で統制するのであって、自分の現在の行為を根拠付ける目的をも自分で設定する、つまり意味を自らつくりあげる、という認識に立つのがサルトル実存主義である。

宮徹 「フランクルにおける「自己超越」の概念について」

 この”己”は不確かで移ろいやすく証明できないために、懐疑心を抱いた瞬間に崩壊する、しかも嘘をつくことができない自己であろう。特に「本当の自分」、「誰も知らない私」、「自分のスキル」、「ありのままの自分」、「自分らしさ」を考え始めるときりがない。将来の夢が変わった回数が意志の弱さというか、意志の一貫性のなさの証明になると思う。何が言いたいかというと、変わらないことなどないということが絶対であるにも関わらず、自己を基準にするのは危険ではないだろうかという話だ。

積極的自由という自己実現は不変的な自己(意思)の存在が大前提になってくるだろうが、それは存在しないに近いだろう。(なぜなら、人はたいそうな夢を描き、長期計画でないと達成できないことを目標に設定するから不変的な自己(意思)が大前提なる。)

結局のところ、積極的自由を実現するためには不確かに自己に依拠するので長期計画であるほど実現しにくいと思う。

自分の行為に関して何の確証も得ることができないというサルトルの立場に立ち続ける限り、人間は常に反省し、決断し続けていかなければならないことになる。サルトルの立場は徹底して反省を貫くものであり、反省から離れることがない。そしてそのようなあり方こそが人間のあり方であると考えている。しかしある行為のさなかに反省が紛れ込むと、その行為が十全に機能することができなくなってしまう、とフランクルは指摘している。もちろん反省そのものの必要性は、フランクルも認めるところである。しかし一度行為に突入したならば、その行為の正当性を確認する作業は不必要である。不必要であるばかりか、むしろ行為を阻害する。フランクルは行為のただ中に反省が生じる事態を「過激反省(Hyperreflexion)」と呼び、それが大方の神経症の基本構造となっていると考えている。つまり「反省」の立場に立ち続ける限り、「自己」を問題にし続ける限り、人間の行為は十全に機能することができない、逆に言えば自己が問題にならず自己を忘れるときに、人間は十全な行為を成すことができる、というのがフランクルの主張するところである。このように意味との関係の中で非反省的に、反省以前に形成される自己の在り方をフランクルは「自己超越」と呼ぶのである。

引用 同上

フランクルの考えはフロー現象とつながる部分があったり、マズローの自己超越欲求とも通ずる部分がある。そして、内向的とか悲観的な人々の心を軽くするような考え方だ。

自己超越

個人主義自由主義という理念に行き詰った人々の心をフランクルの「人生の意味に関するコペルニクス的転回」が軽くしてくれるはずだ。

 彼の思想の中核とも言うべき「人生の意味に関するコペルニクス的転回」は次のように説明される。

「我々が世界体験の根源的な構造を熟慮するならば、我々は人生の意味に関する問いにコペルニクス的転回をなさなければならない。すなわち人生(Leben)自身が人間に問いを提出するのである。人間は問いを発するべきなのではなくて、むしろ人生から問われているもの、人生に答える(antworten)ものであり、人生に対して責任を有する(ver-antworten)のである。しかも人間が与える答えは具体的な『人生問題(Lebensproblem)』に対する具体的な答えでのみあらなければならない。実存の責任の中でその答えが生じ、実存の中に人間はその固有の問いへ答えを『行う』もである」

 ......。

 このとき、人間は自己を問題にしない。自分以外の何ものかから問われ、それに応答するとき、彼の関心は自己自身から、いかにその問に対して応答するかに移っている。自分以外の何ものかから提出される問題を解決しようとするとき、その問題に没頭すればするほど人間は自己を忘れる。「自己超越」の「超越」とは、自分以外の何ものかから発せれれた問いに返答に専念することによって、自己を顧慮するあり方から脱する事態を指し示している。

 さらに誤解してはならないのは、彼が用いる責任の概念は、日本語の責任ということばから連想される消極的なニュアンスを帯びてはいないということである。

引用 同上

括弧内[V. E. Frankl, Ärztliche Seelsorge, Wine, Franz Deuticke, 1952, S.48.]

(引用の最後の一文は、私が責任という言葉がよくわからなくて嫌いなのでそこまで引用した。私は、フランクルの責任をresponsibilityという返答という面を踏まえて考えた。) 

つまり、自分らしい自分の人生をという考え方ではなく、このセッティング・設定・条件、すなわち表象にどのように生きるのか問われているのである。例えば、先進国で治安が良い日本生まれで日本育ちの女性で、大学在学中で心身ともに健康で、社会問題を複数知ったうえで君はどのように生きるのか、と自分の場合人生に問われているのである。

私は自分の好きなこと・できること、そして他の人より得意なことで人生への問いかけに答える。それは「みずからの力で未成年の状態の〈くびき〉を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。」(カント『啓蒙とは何か』)ということでだ。慰安婦問題やら、北方領土問題、沖縄基地問題、所得・教育格差、貧困の問題もあるのは知っているが、そこに私は問題解決以外の意義を見出せない。だがしかし、人それぞれ趣味趣向・バックグラウンドが違うのだから人生への応答も変わってるので誰かが確実に貢献してくれるだろう。(近代市民の自覚があればの話だが。)

これがここ数年悩まされていた、社会問題に貢献していないために感じる罪悪感への私なりの答えだ。また、人生からの問いかけへの答えを行動に移し、歴史のフリーライダーという汚名返上ならびに、近代社会の担い手としての振舞いとしたいと思う。

自由の危うさ

もし仮に利己主義を貫徹したような人生を送りたい人々が社会に続出したら、近代社会維持は不可能であろう。自由主義個人主義は人々が利己的に生きれるようにするために掲げられた理念ではない。資本主義・民主主義も同じである。繰り返しにはなるが、人は生まれた瞬間、否、胎児のときから文明にお世話になっている。文明は一夜で作られたものではなく、様々なものの上に成り立っている。学校で教わったことも身の回りのものも、それを作る技術も家畜も地形も人が作ったものであり、歴史の中で社会の担い手たちがリレー形式で改良しながら受け継いできたものである。生まれる前から巨人の肩の上に乗って生活しているのだ。そして死ぬときに次の世代の人びとに譲るわけだが、何もしなければ進歩もしないし廃れるばかりである。抵抗しないと悪化の一途をたどる可能性すらある。縛られないという積極的自由も重要だが、長い歴史を持ち未来ある人類の公益に目を向ける必要があると思う。

結局のところ、自由には前提があるため何からも縛られない自由など理性的な人間からすれば厳密にはないに等しい。そして、積極的自由も自己に縛られることも不自由な面がある(自己に縛られるのは正当なのかもしれないが)。自由がいったいなんだかよくわからないが、人生の軸に置くのはやめておこうと思った。代わりにフランクルの「人生の意味に関するコペルニクス的転回」みたいな考え方を取り入れたいと思う。私の表象と限定されるが、たくさん選択肢がある。お金の使い方でその人が性格がなんとなく分かるように、この表象を踏まえて「なぜ今、なぜあなたが、何の目的で、何を取り組むのか、その理由は?」だけでも十分自分らしいと思う。

あとがき

自由という思想を持ったらコペルニクス的転回まで到達せず公益を考えない人が多いと近代社会の終焉がやってきちゃうよ、という記事を2020年以内に作ろうとずっと思っていたのですがまとまりがつかず、二本ぐらいお蔵入りにしてやっとこの記事を書きあげました。私の進路の悩みもなくなるかと思ったのですが、金銭的自由を望む限りコミュニティーづくりだけでは生きていけないのですよ。なので、早めにハンナ・アーレントの労働・仕事・活動についての本を読まないとなと思っています。

今回の記事は起承転結風に書いたのですがいかがでしたでしょうか。『君たちはどう生きるか』は高校時代に途中まで図書館で借りた本だったのですが、この前年末の大掃除で近隣のアパートの人が大量に本を捨てていたのでくすねてきました。そのおかげで、記事にまとまりができ、かつコペル君のあだ名の由来も明確にわかり、自分の成長も感じられ、巡りあわせに感謝しております。

それから、学生自主企画案にコペルニクス的転回まで盛り込まないと、自由をかさにして利己主義に走る人が出かねないので盛り込む予定です。

読者の方々がどれだけ人生について悩んでいるか存じ上げませんが、コロナ禍というのもありますし、私からも引用して質問させていただきます。

そこで最後にみなさんにおたずねしたいと思います。――

君たちは、どう生きるか。

 

以上です(今回の記事は良いできですね(笑))

 

追記2021年1月19日

この記事、自由からの逃走と捉えらてもおかしくないので...なんかやばいなと思っています。仮に、誰かが考えることやめて誰かが思う公益に吟味せず協力しようものなら全体主義につながりかねないですし、やはり、自分の価値基準で生きに抜くこと、つまり他人本位ではなく自己本位で生きる必要があると思います。しかし、これがなかなか難しい。フロムから言わせればそのための愛なのだろう。

 

*注意 他人本位と自己本位に関して

この言葉の出典は夏目漱石の「私の個人主義」である。勘違いしないで欲しいのは、他人本位は他者が主体で、自己本位は自分が主体ではない。「他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、あとからその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。」「たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受け売りすべきものではないのです。」というのが自己本位だと本書から考えられる。

 

思考源

吉野源三郎 『君たちはどう生きるか』 岩波文庫

宮徹 『フランクルにおける「自己超越」の概念について』

論文をネットで入手できるので興味のある方はどうぞ↓

『フランクルにおける「自己超越」の概念について』 - Bing

カント 「啓蒙とは何か」

過去の記事

 

independent-research.hatenablog.com

 

 

independent-research.hatenablog.com

 

 

independent-research.hatenablog.com