自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~自己分析のその先、感情・欲求と行動の一致、不一致~

 「自己分析をしましょう」と言われたりする。そういわれるので、自己PRやら自己紹介で使う自分の”良さそうな”特徴を探す。本気で自己分析を掘り下げていくと、理由がない単にそうだから、そうした方がいいと思うからという感性のようなものが見えてくる。例えば、物事や事象の関係を知ったり、わかったりしたときに感じるinterestingが好きとか、家族の中では人を気にかける人間の方であることとか(物理的な人間の距離という意味での隣人なら隣人愛に当てはまるだろう)。人を気にかけることに理由はあまりない。強いて言えば、可哀そうと援助を一致させたのだ。ただ、可哀そうと思った全てを援助できないので、あまり目に耳に入らないように気をつけたりする。自己責任や建設的な議論、根本的解決を意識しながら。

 ただ、この自己分析した上での渾身の自己の自己PRや紹介をするわけだ。何で面接やエントリーシートを落とすのか知ることができないため、内定が出ない=否定という構図という決めつけから抜け出せない。自己分析をして自己PRして内定が出ないって、相当つらそうだ。だから、病は気からであり、心身の健康のためにも徹底的に自己分析をするのはやめた方がいい。もう少し適当に言えば、自己分析をした方がいいところとしなくてもいいところがある。

積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する

 自己分析のやりすぎがもたらしうる害悪はおといて、「感情と行動の一致」に注目していきたい。多分、かなりキーポイントだろう。

 負の感情をもたらすのは、感情と行動が一致していないときと考える。

【例】

食べたいーー食べられない、食べてはいけない

やりたくない・面倒くさいーーやらないといけない

欲しいーー買えない、与えられない

寝たいーーやらなくちゃいけないことがある

むかつくーー怒ってはいけない

誰かに会いたいーー会えない

帰りたくないーー帰らないといけない

帰りたいーー帰れない

 

 このようになる。理性で制御するならいいだろう。ただ、生命維持に係わる欲求を根源とした感情を行動と一致させないことが負の感情の発生源といえそうだ。では、試しに一致させてみよう。

【例】

食べたいーー食べれる

やりたいーーやることができる

誰かかわりにやっといて欲しいーー誰かが確実にやってくれる

欲しいーー買える、貰える

寝たいーー眠れる

むかつくーー回避できる

会いたいーー会える

帰りたいーー帰れる

いたいーーいれる

話したいーー話せる

 

 感情と行動が、欲求と行動が一致している人は健全に生きていそうだ。我儘、自己中心的にならないように気を付けなくてはならないが、少なくとも生命維持に係わる欲求や感情を一致させないとストレスだ。現代人のストレスや自殺も感情と行動を一致させればある程度は減少できるのではなかろうか。

 

 だとして、お金は、現在の感情・欲求を行動と一致させる機能があると仮定しよう。より現実に近づけるために、将来の予想される感情・欲求と行動を一致させるために貯金をしているとしよう。不摂生や収入を上回る支出はよくないが、日本人に対して、お金は現在や将来の感情・欲求を行動と一致させるために使えばいいと教えたら、少なくともお金のある人々の自殺率やストレスは低減しそうである。

 

物価が上昇しているのに、賃金が上昇しないと、時間がなくなっていく

 ちょっと、雑談を。小文字の部分は知っている人は読み飛ばしていいかと。

 結論から知りたい人が読まなくていいように先に述べれば、というか、自分が何を述べようと思っていたか忘れないためにも、ここでは人々は時間すらなくなっている話をしていきます。

 コロナ禍により、先進国諸国は市民に給付を行った。それにより、市場に出回るお金が増えたためインフレ状態となった。ここではアメリカに注目しよう。適切なインフレに戻すために、アメリカは金利をあげることにした。金利を上げる際に、まず不動産が注目されているはずだ。たいてい不動産は高い買い物なので、ローンで買わざるを得ない。そのとき、金利の高低が非常に重要になってくる。金利が高いと人々は不動産を買い渋り、不動産屋は不動産が売れなくて困る。不動産が売れないということは、不動産の価格が下がることを意味する。資産効果は通常、持っている資産、例えば株の株価があがっただけでお金持ちになった気分になり消費するという意味でつかわれるが、恐らく、資産効果は持っている株の株価が下がっただけで貧乏になった気分になり消費しなくなる側面もあるだろう。不動産の価格が下がり、売り抜けしようと思い投げ売りをし損をするれば、消費もしずらくなり、マクロでみれば不景気となっていく。別の方面では、企業は銀行から融資を受けるのを渋る。また、融資を受けてしまえばそれを返済するべく、商品の値段に価格転嫁する。(負債が返済できなくなった瞬間、企業は倒産し、貸借対照表はゲームオーバーしたことになる)それを実行してしまうと、消費者は値段が高いので買わなくなる。デフレ(デフレスパイラル)に突入だ。

 アメリカの金利の引き上げに伴い、ドル高・円安になった。さて、確かに円安により輸出が伸びそうという気分なるが、果たしてデフレという購買意欲のない国々に輸出が伸びるのだろうかと疑問が残る。日本は、企業が内部留保でお金を貯めこんでいるせいか、もしくは消費者が貯金しお金を貯めこんでいるせいか、お金を給付しようがインフレにはならない(お金は市場に出回らない)ので法定金利をあげようとはしないので円安になった。物価上昇しているのに、人々の賃金があがらなければ人々は長時間、働かなくてはならない。正直言えば、ぜひとも、賃金をあげるために生産性をあげればいいと言って欲しいところである。解雇がよかろうか。長時間働かないといけなくなった、しかし、我々の時間は1日24時間である。ここには、必然の時間、睡眠7~8時間以上、ご飯、風呂といったものに時間を絶対に割かざるを得ない。1日24時間であったとして、だいたい12時間は必然や移動時間に割かれる。残された時間は、12時間だ。ちなみに、12時間1社で働いた場合、8時間以上は残業なので12時間-8時間=4時間、4時間×20日として一ヶ月あたり80時間である。ちなみに、過労死ラインも2ヶ月以上6ヶ月あたりの場合、残業80時間以上が過労死ラインである。というわけなので、人が働く限度は12時間、と設定していいだろう。賃金の上昇、もしくは転職の検討をしなければならないのが、大体12時間働いても生活できなくなったときである。12時間働いた場合は、もはや生活に割く時間は最低限であり、土日しかない。土日も労働に回したらどうなるだろうか。子育て世代は、学び直しは?となる。また、労働時間が増えれば消費の時間がなくなって、経済成長はせず、豊かにもならない。お客は働いているので来ないというなんともおかしな状態だ。

 時間がないとはまるで、エンデの『モモ』の世界である。灰色の男たちは何の擬人化なのか考えたことがなかったが、資本主義社会で時間が増えた人々が灰色の男たちといえる。もう少し考えれば簡単に炙り出せるだろう。

 

ただし、生産性の向上の話は忘れてはならない。

 

お金を手放す目的でもっているかと聞かれれば。。。

コロナ禍で給付を行ったにも関わらず日本人がお金を使わないことの奇妙さを噛みしめてみよう。下線は著者が強調、文字の大小は私が強調したいところである。

しかし貨幣という概念は、何かある「鋳貨」によるよりも、それ自身は価値のない商品、例えば印刷されたによっての方が純粋に示される。したがって、このような紙の意義およびその価値は、ゲゼルシャフトによってのみ維持されるものであり、ゲゼルシャフト的な交換のために使用される以外には、いかなる使用方法も与えられていない。したがって、ただ所有するためだけの目的でそのような貨幣をもっている人はいないだろう。人々は皆、手ばなす目的でそれをもっているのである。貨幣以外の一切の具体的な物は、それが有用なあるいは快き影響を所有者に与えることによって自己のもつ理念を実現するかぎりにおいて、またその度合に応じて良きものであるのに対し、この貨幣という抽象物は、それを持たない人を刺戟して、それを持つことによって再び同様な勢力を外部に向かって行使したいという考えを胸にいだかせいうるかぎりにおいてのみ、またその度合い応じてのみ良きものであるにすぎない。他方、物はいずれも商品として、貨幣のもつこのような無性質性や無価値性を分有している。商品はすべてある程度貨幣である。そこで商品は、それが貨幣であればあるほど(流通すればするほど)、それだけ一そう良いものとなる。――ゲゼルシャフトは自己特有の概念を紙幣という形で再現し、その交換率を定めることによって、それを流通せしめる。このことは、価値の概念がゲゼルシャフトの概念にその意志の必然的な内容をなすものとして付着しているかぎり、妥当する。

テン二エス,『ゲマインシャフトゲゼルシャフト――純粋社会学の基本概念――上』(訳杉之原純一),岩波文庫.

 お金そのものに価値はなく、お金は交換に使用するためにある。10000万円札と違い、1円玉は物質としてみると額面以上の価値、つまり1円以上の価値がある。お金が価値を発揮するのは何かと交換できる際である。しかし、なぜだか日本人の多くが交換するのではなく将来に価値を繰り越す。(貨幣の機能は、価値交換の手段、価値尺度、価値貯蔵の三つである)

 将来に価値を繰り越したり、現在使う必要のない額まで働いたり私たちはする。自分にとって必要なものをイメージできない、想定できないから無暗に将来に価値を繰り越しているかもしれない。安心を金で買うというやつか。

 

 

 

以上になります。

読者の皆様のメンタルヘルスに役立てば幸いです。

 

付録

自己中心的にならないように反省しつつ、感情と行動、欲求と行動の一致が幸福の外観と私は考えたい。

 

 

自由も感情と行動が、欲求と行動が一致できるような状態を指すといえそうだ。表現の自由も、表現したいと思えば表現できる。報道したいと思えば報道できる。教授したいと思えば教授できるといったように。

 

 

ただ、ここまで考えると

古代ギリシアの自由「必然に縛られていない状態」

現代の自由「感情・欲求・欲望と行動が一致している状態」

という風に、自由という言葉が生まれた頃と3000年の時を経た後の自由という言葉の意味や実質的な捉え方があまりにも違いすぎて、なんでこうなったという気持ちです。確かに「freedom」が出てきちゃうよなとか思ってしまいます。環境の違い、経済や技術の発展、それから宗教やメディアの役割の変化などが要因と言われたと思いますが、見比べてみるとなんだか本当にHomo economics ならぬHomo animalと表現したくなる気持ちがわかる。動物や子どもみたいな性質を自由といい、重宝するのには同意しかねるし困惑するしかない。