自由についての結論が出たのでその発表が今回の内容である。
自由とは
自分であること
自由な環境とは
自分であることを恐れない・妨害しない環境
自由な人とは
自分であること
自分であろうとする姿勢
自分であることをした結果を受け入れる姿勢(責任だが責任よりresponsibilityに近い)
この三つを併せ持つ人
だから、自由は持つものではない。あくまで、状態なのである。
自由=自分であること=自我の表現(実現)=自発的活動
「自由研究 ~フロムの自発的活動~」で述べた考えではなく、自発的活動こそが自由なのだと思う。
そうすれば、様々な問題に合点が行く。例えば、自由は"自"と"由"という漢字二文字で表現されるわけだが、"由"にはもとづくという意味があり、自分にもとづくことが自由だとすれば、それは正に自発的活動の意味することそのものだと思う。
フロムの本で「愛は自由の子」という言葉が出てくる。強制された愛なんて愛ではないと思う。だから、自発的活動の一環として愛が存在するのだから「愛は自由の子」だと解釈した。
もう自由の意味が分からなくて悩むことはない。自由であることは、法律やら何やら気にする前に難しいことだと思う。だけど、自分の人生を生きることを目的とするなら、自分でいることは絶対条件なので怠ることはできない。
かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、
人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであること
を認める。
引用:『自由からの逃走』p.289
ここまで考えて初めてフロムがなぜこの一文を強調したかが分かった。
もし、これが教授の解答と一致するなら、これは確かに思っていたより難しい問題だったし、フロムの言い方は回りくどすぎるように感じた。
自由の意味としての自由研究はこれにて終了である。
もし、私の思考経路を楽しんでくれた人がいたなら何よりだし、誰かの自由研究に役に立ったなら嬉しいかぎりだ。今後は、自分であることについて考えられたらなと思う。
思考源
過去の自由研究と題する記事全てとその思考源
私の感じ経験してきたこと
エーリッヒ・フロムの本
「自由からの逃走」
「愛するということ」
「生きるということ」