やはり、考えごとをするときは人と話しながら考えたほうがはかどる。二人の友人と対話をしながら自由研究した成果を書き留めておく。
もう自由は個人規模・所属規模でしか考えられない
この友人の考えは社会においての自由をについて。
まず、共通認識として、大自然で自給自足している人を自由とは定義しないとした。
自由とは社会の中に存在するものである。つまり、統治下の法律のもとにある。なぜなら、法律といった基準がないと、自由を侵されても批判できないからだ。例えば、選択的夫婦別姓は夫婦は同性という枠をつくったがために出た問題である。
すでに法律で自由の枠組みを決められているならば自分たちは個人規模・所属規模でしか自由を決めることはできない。場合よっては、州レベル・都道府県レベル・国が与える統治のレベルで変わってくる。ちなみに、学校が生徒に与えるられる最大の自由は法律で規定された自由である。
社会規模でどこまで自由にするかという枠組みで考えるのではなく、個人規模・所属規模の自由しか、自分たちは決められないのかもしれない。
また、これ以上自由にならないのは当たり前と今の法律を鵜呑みにしてしまうのは、自分たちが義務教育やメディアによって自由の感覚が麻痺させられているからかもしれない。
今の時代、自由は定義するものではなく、自由の拡大・自由の維持するものである。
(友人R.M.の考えを覚えている限り解釈しまとめた)
自由は追い求めるものであって手に入るものではない
この友人の考えは個人レベルの自由について。
自由は理想と似て完成形はなく、どんどん自由が変わるのでゴールはない。だから、自由は追い求めるものであって手に入るものではない。
(友人A.I.の考えをできる限りそのまま載せた)
個人の自由について結論が出始めた
自由とは、「自由の夢物語」、他の人の表現を使うなら「自由の神話」というように実際には手に入らないものかもしれない。
自由を不自由でない状態と考えるなら、諦め・悟りが自由をもたらすはずだ。
「理想の実現といった風に自由を追い求めるものと考えれば自由な状態にはならず、何も求めなければ自由な状態になる。」
これが個人レベルの自由の仮の結論。
今後の課題
社会においての自由を定義するための課題として、自由と信用、自由と孤独については自由研究をしていく。できれば、なぜ自由という概念が生まれてのかについて、自由の宣伝効果、社会で使われている自由経済といった、自由という言葉は具体的にどのような状態を指しているのかを今後の課題とする。
最後になってしまったが三日前に今後の課題を示してくれた二人の友人R.M.とA.I.に重ね重ねお礼申し上げる。
思考源
2人の友人