自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

視点 ~「アキレスとカメ」で競争社会を考えよう~

 ゼノンのパラドックスのひとつ、「アキレスとカメ」はご存じだろうか。内容は以下の通りである。

 アキレスとカメが徒競走で勝負することになる。ハンデなしでは勝敗が明らかである。そのため、カメはハンデをもらうことになり、A地点からスタートすることとなった。一方で、アキレスはカメがスタートするA地点よりも後ろからスタートすることとなる。アキレスのスタート地点をA’地点としよう。「よーい、ドン」でスタートしてから、t時間経過した。カメは、A地点からB地点へ。アキレスは、A’地点からカメがいたA地点に。それから、またt時間経過すると、カメはB地点からC地点へ。アキレスは、A地点からカメがいたB地点へ。それから、また、t時間経過すると、カメはC地点からD地点へ。アキレスは、B地点からカメがいたC地点へ。と、アキレスは、ハンデをもらったカメに一向に追いつけない。

「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である」

ゼノンのパラドックス - Wikipedia

 「アキレスとカメ」の話を知り、当然の議論にも関わらず、極めて再考の余地のある議論だと思った。

 もし仮に、アキレスがカメに追いつくには、カメより早くないといけない。逆に言えば、カメがもしアキレスと同じ地点からスタートすれば絶対に追いつくことはないし、もしもアキレスの方が手前からスタートするのも同様に追いつくことはない。

 もっと、具体的にいえば、仮に東京マラソンに同じ実力の人が参加した場合、ゴールまで同じ距離であろうところからスタートしなければ、単純に考えて追い抜かすことはできない。始める以前から、勝敗が決まっているのだ。

 勉強でも、同じ能力の人がいて、さぼらなかった人がいた場合、さぼった人は成績は追いつくことはできない。

 生涯賃金があるが、浪人や留年をして機会損失を行うと、生涯賃金は、機会損失をしなかった者に比べて目減りする。転職が盛んではない時代ならば、生涯賃金は機会損失した場合、必ず追いつくことがないという例になったであろう。

 投資における複利でも同様で、先に投資を始めた人と同じ額を投資したところで、リスクが同じであれば追いつくことはできない。 

 新興国は、先進国の経済成長よりも成長率が高くなければキャッチアップすることができない。だが、先進国によっては着実に経済成長していくため、着実に進む分も含めた成長率がなくてはならず、かなりリスキーである。

 そもそも、ハンデがありスタート地点が後方であったり、スタートするタイミングが違かったりすると、追いつくぐらいの成長率や能力がなければ、スタート地点が前方のものやスタートするタイミングが先のものには追いつくことができない。だからこそ、明治維新新興国のモデルとなるのであろう。酷な話である。

 経済成長率での、諸外国の比較はよいだろうが、GDPでの比較は、追いつくことは稀であるため、目標にするのはやめたほうがいいかと。そう単純な話でもないというのも事実だが。

 競争社会というのは、実のところ結構前から勝敗が決まっていたり、キャッチアップする可能性は低いことが理論から思い浮かぶ。相手の怠惰やミスがなければ追いつくことはできないと予測する。

 追いつけ追い越せというのは、競争相手を見誤るとやばいことになりそうだ。

 競争というのは、アキレスとカメのように絶望が頭をよぎりかねないので、動かない目標をつくることが望ましいといえる。

 

以上になります。

 

付録

マイケル・サンデルの著書に『実力も運のうち 能力主義は正義か?』がある。正義じゃないかと思っていたが、アキレスとカメの観点から言えば、正義とは言い難い。もし仮に、ハンデがないカメが、アキレスに追いつくことを目標として競争しているのだとしたら、それは地平線を追っているようで可哀そうの一言である。動かない目標か、違う目標か、美とか違う方向性があった方がいい。

大学の課題 ~自然観察を通してわかった地域の魅力と課題~

 久しぶりに、ネットにあげても良さそうなレポートができあがったので、編集しなおしたものをご紹介します。場所は、どっかの大学の近くです。

(今更ですが、大学の課題のほとんどは、具体的なテーマが決められていて文章を考えてくるとかではなくて、テーマも自分で考えています。誤解なきように。)

 

 

大学のレポート

 地域の魅力である「コンパクトに色んな環境、色んな生物がいる」ことと、魅力に気づいたきっかけを最初に述べます。次に、地域の課題を論じます。

 

「地域の魅力」 

 調査を実施して、地域の魅力は、「コンパクトに色んな環境があり、色んな生物がいる」ことだと思いました。この魅力に気づいたきっかけは、川での水生生物調査と地域の陸上生物を調査し把握することで、この魅力に気づきました。

 特に注目したのは、トンボの幼虫であるヤゴとマメコガネです。

 トンボとそのヤゴは川とそれ以外の場所で見つけることができました。トンボとそのヤゴは表1の通り場所(環境)によって種が違いました。川ではサナエヤンマとコオニヤンマの2種、田んぼでは5種、小川の近い山ではコオニヤンマの成虫が見つかりました。トンボとそのヤゴをきっかけに、環境によってトンボの種も違うことがわかりました。この点から、ある地域には色んな環境があることによって、色んな種がいることがわかり、トンボの幼虫が育つ水辺の環境も、トンボの成虫は肉食であることから、トンボの食料も十分にある環境も地域にあるということがわかりました。

場所(環境)

田んぼ

トンボの種

コオニヤンマ

(ヤゴ)

サナエヤンマ

(ヤゴ)

オオシオカラトンボ

オニヤンマ

ハラビロトンボ

シオヤトンボ

(ヤゴ)

ノシメトンボ

コオニヤンマ

(成虫)

表1:生息場所と見つかるトンボの違い[1]

 

 私が、地域の「コンパクトに色んな環境があって、色んな生物がいる」という魅力に気づけたきっかけは、生物の採集と川の生物調査でした。

 気づいたきっかけは、フィールドワークで実施した定点観測です。内容は、植物の採集か生物を捕獲してきて、とってきた生物をスケッチし、図鑑で種名を調べるというものです。ただ単に、最初に見つけた生物をスケッチするのではなく、派手だったり、興味深かったりするものをスケッチの対象をどれにするかこだわってスケッチする生物を選びました。その過程は、たくさん見た生物の中からスケッチする生物を取捨選択する過程は、広義に環境観察を行っていたといえるでしょう。

 観察する中で、生物がたかっている植物がいることを発見しました。ヤブミョウガにたかる昆虫の中で特に注目したのは、甲虫目のマメコガネです。理由は、ヤブミョウガで交尾をしていたからです。調べてみると、北米ではジャパニーズビートルズという名で害虫として名を馳せていましたが、日本では、マメコガネにはたくさんの天敵がいるため害虫扱いされていないことがわかりました。代表的なのは、マメコガネヤドリバエ、マメコガネコツチバチで、その他にもスズメバチなどが天敵にいます。欧米とは違い、日本では天敵がいるおかげでマメコガネによる農作物被害が深刻ではないのです。

 そのため、地域の農作物や農家にとっては、害虫の天敵がいる環境があることが地域の魅力といえます。もし地域から、こういったマメコガネの天敵がいなくなってしまったら、マメコガネは農作物を襲う害虫として扱われてしまうかもしれません。それに加え、殺虫剤の積極的な使用が検討されるかもしれません。農薬の被害の想定は完璧ということはありえませんので、害虫になり得るマメコガネの天敵の駆除も同時にしてしまうかもしれません。そういう可能性を考えると、農地の近くには、害虫の天敵が住めるような環境が必要と言えるため魅力といえるでしょう。少なくとも、マメコガネの天敵が住めるような環境がなくなると、マメコガネは害虫として猛威を振るうことが予想されます。

 

「地域の課題」

 最初に地域の課題のひとつとして「コンパクトに色んな環境があり、色んな生物がいることを人々が知らない」ことがあげられます。

魅力を知らない人が気づくためには

 地域の魅力である「コンパクトに色んな環境があり、色んな生物がいる」ことがあげられます。これに知らない人が気づくようにするためには、この魅力を気づけるような知らない人が参加したくなるプログラムを提案していけるかが、今後の課題といえます。

 私が地域の魅力に気づいたきっかけは、虫取りや川での生物の採集によってです。ただ、虫をとるのではなく、常に新しい生物を発見するとか、虫取り大会とかをやるとか、何か他の種はいないかと環境を観察するようなプログラムを組むことが大切と思われます。

 任天堂の「どうぶつの森」旗振りに自然保護や教育を実践すれば、子どもはもちろんのこと、30代の大人でも惹きつけられるプログラムになると考えます。都会で昆虫採集等ができない子どもであっても、任天堂の「どうぶつの森」というゲームソフトでアドんだ経験があれば、昆虫をはじめとした生物の名前や外観を覚えているだろうと想定されます。ゲームを通して養った生物種の把握という下地が自然保護や教育に活かせると考えたため、ゲームを旗振りにしたプログラムの実践を思いつきました。

 

 次に地域の魅力と限界について述べます。

 コンパクトに多様な環境があって、多様な生物がいるのが地域の魅力ではありますが、規模が小さいため個体生息域が広い生物を養える土地とは言い難いです。その他のコンパクトさのデメリットは、環境を多様にするにも、一種類の環境につき一定の規模が必要であるため、多様な環境を用意しようにもコンパクトという限界がつきまといます。

 最後に「都会の自然は陸の孤島」という課題について述べます。

 多くの種が気候変動によって移動が予想されますが、行動の機敏さは種によって異なり、また移動途中に障害が現れることも予想されています。生物が気候変動で物理的に移動できないであろう環境は、孤島、湖、高山地帯があげられます。植物に限定するなど、見方によっては住宅地に囲まれた都会の自然も陸の孤島と含めて良いでしょう。住宅地に囲まれた緑地を陸の孤島と表現した場合、谷戸にいる生物種や、川や道路に囲まれた公園の植物たちは気候変動があっても移動ができないため、管理移転も想定する必要があると考えます。 

 

 以上が、地域の魅力ときづいたきっかけ、そして地域の課題と限界です。

 

[1] 調査資料提供:学生

 

自然観察を活かして害虫を駆除する

 家の中に、ショウジョウバエ等の、いわゆるコバエが発生が続きました。原因と推定したものを何度も、何度も排除したがコバエが発生が続きました。コバエの嫌なところは、一匹のコバエが飛んでいると思いきや数匹いるところです。

 さて、罠(コバエホイホイ)をしかけるため、発生源を探すのではなく、コバエの観察を行い、コバエが集まっているところ探しました。コバエの観察を行った結果、室内にいる蝿が目線よりも高いところにいることに気づいたのです。そこから、室内ではクーラーをつけているため、コバエたちはより良い環境、つまり高い温度の環境を求めて、高いところにいると考えまして、舞い上がらせるために扇風機を移動させて冷たい空気が上にいくようにしました。

 コバエが集まるところに罠(コバエホイホイ)を設置するためにコバエの観察を続けていたら、交尾をしているコバエたちを発見しました。以前、交尾をしているマメコガネを発見できたことをふと思い出しました。恐らく、交尾中は二匹の生物がくっつくことで通常より対象が大きくなり、活動が活発ではないため見つけやすくなる。この二つの特徴が交尾に伴い現れるため、人間が見つけやすくなるのでしょう。

 交尾中の生物を見つけることは、一匹の生物を見つけるよりも容易です。気のせいかもしれないですが、交尾中の生物を見つけると、他にも交尾をしている同種の生物を見つけることができる。今回のコバエの場合は、すぐ真下にコバエが住み着いてることを発見し、駆除ができました。(やったね!)

 コバエが住み着いてた場所は、汁がでるほど腐敗していると考えられる薩摩芋にたかっていたのです。人間には嗅ぎ分けられない匂いで、薩摩芋の腐敗に気づかず、コバエの繁殖に気づけなかったのだと考えられます。実は、コバエはコバエでもたかっている蝿が違いました。皆さんも、どうぞ、自分や家族が芋ほりで持って帰ってきた芋を放置しないようにお気をつけください。

 以上の経験から、生物の観察にあたっては、そもそも発生時期はいつで、発生時期といない時期の環境の違いを考え、生物の好む場所を推定するとよいことがわかりました。

 

終わりに

 さて、最近、社会学の本を1冊読み終え、2冊目を読んでいるところです。実のところ、「人間は複雑で難しいし、心なんて心理学の臨床研究とかしないといけないわけでしょ、昆虫の方が観察が楽でいいし、自分害虫の駆除に向いてる気がする。マメコガネの駆除の仕組みとか、つくればもうかるし」なんて、思ってしまったわけですが、二冊目に入って、社会を環境と読み替えて人間の行動変異を分析すれば、もう少し複雑な人間とその社会を捉えやすくなりそうだなとも思いました。

 ただ、捕まえた昆虫の食性を文献で調べた限り、全くと言っていいほど情報がありませんでした。そのため、仕方なく情報が豊富であろう害虫を調べてレポートにしたといういきさつです。悲しいことに、昆虫と疫学を比較してわかったのは、人間は人間自身と人間に関連することばかりに異常に詳しい。人間は、何を食べれば健康になるか、どの程度の運動が必要かとかある程度わかっていますが、昆虫は食性すら不明なものが恐らくほとんどです。驚くべき、興味関心の偏り。もし地球外生命体が人間を駆除したいと思って、英語なんて読めたら効率よくヒトを駆除できるでしょうね。

 今の小学生はネット万能説を抱いているでしょうが、ヒトと人間関連のことはネットに豊富に情報がありますが、ヒト以外のヒトと関連しないことは、自分で調査するしかないぐらい情報がないのが現実です。逆に言えば、分野によってはデータを探すよりも自分で一次情報を獲得する方が早いとという、急がば回れなりたつ分野も存在します。

 おまけですけど、グループワークで設定したテーマが変えられず、文献がなくてもデータを自分で集める必要があったため粘り強く調べたところ、図書館には強みと弱みがあることがわかりました。私の大学は、昆虫図鑑は確かにありますが、自分の市区町村の図書館には昆虫図鑑に加えて害虫図鑑もありました。大学の図書館の蔵書数は、市区町村の図書館に比べ倍近くあるにも関わらず、害虫図鑑すらなく落胆さえしました。新書で蔵書数を稼いでいるんじゃなかろうかと勘繰りたくなります。そう考えると蔵書数も大事ですが、どんな蔵書があるのかも重要ですね。今後は図書館の使い分けを検討してみます。

 今回、図書館司書の人に本を探すのを手伝ってもらうのは2回目でした。内容にもよりますが、枝豆の起源やマメコガネの食性に関して言えば、本や情報の検索技術に関しては頼る必要がないのかなと思いました。本を探している感覚からいえば、キーワードの関連付け、学問等の分類で形作られる知の体系化を伴う、図書館の蔵書のアクセスの熟達が、図書館司書に必要な資質の大部分を占めている考えます。

 そう考えてみると、人類が継承してきた知というのは、知の継承も大切であり、知の探究の技術(研究方法)も大切であり、過去の埋もれた知にいきつく技術も大切そうですね。図書館司書という資格取得のための講義にどのような内容が含まれているかは知りませんが、資格という枠組みも必要でしょうが、少なくとも蔵書にアクセスに熟達している人が、図書館カウンターにいて欲しいところではあります。

 厳しくなりますが、図書館カウンターにいる図書館司書は、日本みたいな単一言語が進んでいるかつ、邦訳を頑張っている国の図書館だから日本語でいいでしょうが、多分、カナダとか公用語2か国語とかになると、フランス語と英語を使いこなす国の図書館司書もおり、情報量が違うため、情報のアクセス能力もより求められるでしょうね。以上のことから、図書館司書の能力は、人によって実は雲泥の差ともいるような差があると予想できます。図書館に強みがあるように、図書館司書にも強みがあるでしょうから、蔵書が充実している図書館には、もしかしたら複数人の司書がいるのかもしれませんね。想像すると、ロマンが広がっています。

 

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。よかったら、付録もどうぞ。

 

付録1

 子どもとは言えない年齢になりまして、市区町村の情報誌で市区町村をはじめ団体などが主催する体験教室を見ていると、自分が興味関心を持つのは対象年齢が子どもばかりで、小さい頃に市区町村の情報誌とか見ていればなんて、切なく感じました。(実際のところは、参加ではなく、個人で行動すればいい話ですけどね。ただ、大人は金を出して自分で動けと公共団体が主張するのはお門違いだ。)

 なんで、あんまいない子どもを対象にしてばかりなんだ、大人の部門も欲しいなんて批判したところで「大人は自分の意思とお金で行ってください」と言われたらそれまでで。けれども、子どもに自然教育とかしたいなら、子どもと関わる大人へのアプローチも大切と思うわけですよ。

 そもそも、18歳ぐらいまでが大体対象で、18歳というのは時間が限られている。それでも、「多様な体験を子どもにさせたい」とするのは機会を限定し過ぎではないだろうか。子どもは確かに、可能性に満ち溢れているように見えるし、反応がいいから、機会を与えたくなるのもわからなくはない。だが、子どもにしか夢や可能性がないと思うのは違うんじゃないかな。大人でもいいじゃんか、日本社会は大人ばっかりなんだし。母数の少ない子ども、権力もない子どもにしか社会変革はできないとか思っていたり、子どもが社会を変えてくれていると期待していると痛い目あうぞと、言いたいところではある。子どもへの過度な期待という一辺倒になっている。社会を構成する子どもではない年齢への期待を怠るっているように思う。対象者の偏りに注目して欲しい。

 が、環境ともいえるような有形無像ともいえるような社会に、個人に言っているような感覚を求めて発言することはできないのもまた事実。

 教育しか、社会の在り方を変える手段はないという伝家の宝刀的な考え方ではなく、「社会の在り方を変えるのに教育は良いカードだが、少子化だし、年功序列で権力もない子どもの社会への影響は小さいとすれば、どうするか」と社会の状態に応じて発想を切り替えて欲しいところである。

 

付録2

 ヨシタケシンスケという絵本作家の絵本は、子ども向けというよりは、子どもに読み聞かせる大人に向けたメッセージが多いように思う。分かり易く言えば、ヨシタケシンスケの絵本は大人ウケがいい、もしくは大人ウケもいい絵本が多いと表現できる。絵柄や内容が好きなので、大人である自分で買ったことすらある。だが、子どもには抽象的で内容が難しいのではないだろうかと思う。子ども向けの絵本は、大人が読んだら全然面白くないし、今思えばなんで昔は面白いと思ったのかも思い出せないぐらい、読み物としては内容がない。ヨシタケシンスケの絵本は、子ども向けなはずなのに、大人ウケもいいだろう内容が多く、読者層の人物像の射程に子どもに読み聞かせる側の大人も置いている感が透ける。買うのは大人なのだから仕方がない。だがしかし、親曰く、子どもに買ってあげる絵本が自分の趣向に偏らないように気をつけてたといっていたことを鑑みるて、ヨシタケシンスケの絵本の売れ行きを考えると今の親たちがどう考えているのはわからない。形成されるきっかけがわからずとも、子どもの好み、「これ読んで」が尊重もされた読み聞かせが実現されていることを望みたい。

 話を戻して、ヨシタケシンスケが意図的に子どもに読み聞かせる大人を想定して絵本の内容を考えているかは別として、マーケティング手法の一つには、子どもと一緒にいる大人も想定しているものもある。

 

付録3

 選択問題と論文試験の違いは、個人の論理的な意見の表明の余地があるかないかである。選択問題は選択肢を作った側の意図によるので、ここでは割愛する。個人の論理的な意見の表明というのは、説明責任を果たす上で大切だ。持論を論理的に述べる訓練にもなる。

 予備校と大学の違いは、予備校は試験に受かるか、わからないをなくすために教えてもらう場で問いが閉鎖的になりがちだ。それに対し、大学は好奇心に身を任せて関連する項目を質問してもよく、問いが開放的である。そこから個人が把握している情報、興味関心が伺え、中々面白かったりする。

自由研究~自由を考えるために支配という言葉を思い出そう~

 最近、また、自由について考えることがあった。自由とは、不自由でないことで思考停止になっていた。どちらかと言えば、内的側面にばかり思考が行っていた気がする。

 この前、中野信子とジェーンスーの2人の共著を読んだ時、「奢られたくないは支配されたくないのだよ」という文言を見て、自由と支配の関係を考えるにいたった。外的側面から言えば、「自由≒不自由でない状態≒支配されていない状態」という見方がようやく思考対象として形作られた。

  「おごられる」ことは相手の支配を受け入れること

スー 美人から離れて、「おごられ」問題に話をちょっと戻すね。「女はおごってもらって当然」という女性もいれば、「女はおごってもらえるからラッキーだよな」と見る男性もいる。でも、おごられるって、場合によっては自己決定権を手放すことですからね。

中野 ・・・・・・。でも、私自身はおごられることはそう好きなほうじゃない。ちょっと気が重い。

   それってなぜだろうとじっくり考えてみたんだけど、結局はさっきスーさんが言ってた「自己決定権を手放すことにつながりかねないから」なんだよね。おごられることと受け入れるのは相手の支配を受けてもよいというサインになることがある。

 

引用:ジェン・ス―,中野信子,2023,『女らしさは誰のため?』,小学館

 この話になんだか共感してしまった。おごられることを受け入れることは、なんだか対等な関係ではなくなる気がして、家族以外では、おごってもらった回数よりも、おごってもらうことを断った回数の方が多い気もしない。目上の人間を対等な関係として目下の人間が扱うのは、傍から見ればおかしいのかもしれないが、ものすごく対等な関係へのこだわりがある。それは、恐らく、支配への危機感があったのだと考えられる。

 自由を感じるときはないかもしれないが、自由を考えてしまうのは、支配を感じ取っているのだと思う。支配を感じるにあたって良い指標は、「尊重はどこにいった」である。こうやって問い始めると思考をある程度制御する必要があります。尊重されてると思っていいのかという行為認定を吹っ飛ばして「いつ尊重されたかと」とか、「自分は尊重しているはずなのに、相手はあまり尊重していない」とか考えはじめると心がすさむので気をつけた方がいい。(こういう相手の行為と自分の行為を反芻的に振り返ったり、将来予測をすることを過激適応といいます。)

 freedomを「~からの自由」と訳すならば、そもそも「何からの自由か」を問う必要があった。私としては、それは外的側面から言えば支配からの自由ではないかと思う。「自由≒不自由でない状態≒支配されていない状態」というので、出てくるのは、マックス・ウェバーの伝統的支配、合法的支配、カリスマ的支配である。ところで、支配を真っ向から否定しようとすると、良い支配の形態もあるだろう反論したくなる。その反論時に、どのような支配であれば正当化されるか、そもそもどのような支配があるのか、という問いに発展し、マックス・ウェバーの支配の形態までいきつくことができる。

 

 フランス革命による、近代への移行、近現代の理念、民主主義、資本主義、自由、平等を理解するにあたり、支配は欠かせないキーワードと推定される。(本当に今更だが)

 自由とは何かを考えるに至ったのは、もしかしたら、支配への危機感が働いていたからかもしれない。となれば、支配に敏感であることは、現代人に欠かせない素質な気すらしてくる。言論の自由表現の自由報道の自由等々、最低限憲法に定められた自由がなぜ重要なのかは、言論の自由を支配によって制限することは許さない、と解せばわかる気もしてくる。「なぜ支配によって言論の自由が制限されなければならないのか」と問い直してみると違和感がよくわかるのではなかろうか。

 ここまで来ると、支配、政治、自由権、自由までつながげられ、社会の成り立ちを理解するためのキーワードたちが大分導けてきた。

 

 さて、安心を実現するために秩序を維持する必要があり、秩序を維持するために支配という手段があるわけだ。安心のために秩序を維持には支配という手段があるわけだが、人には自由がある。支配があっても自由である状態とはどのようなものか、どのような支配が我々の自由を制限するのか考え、どのような支配なら納得し受け入れるのか、実のところ我々はどのような支配を受け入れたことになっているのか、既存、新規にしろなぜその支配を受け入れなくてはならないのか、を問いただす必要がある。

 支配に何があると危険なのかも考えなくてはならない。そこまで考えると、支配者と

軍が分かれていることの重要性がわかってくるし、軍の反乱がどれだけ危険なのかもわかる。

 

 近くしずらくなってはいるが、支配を知覚できなければ自由を侵食されかねない。日常会話で支配という言葉は、あまり使わない。しかし、自由なはずである我々現代人が自由であるためには、少なくとも支配という言葉を忘れず、知覚センサーを常に研ぎ澄ましておく必要がありそうだ。

 

 

以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。 

自由研究 ~ミヒャエル・エンデ『モモ』part.2~

 たまに、「モモが持っているもの(能力)は何か?」というのを考えていました。2年越しではありますが、ようやく当てはまりそうなものが見つかったので、その内容を話したいと思います。

 

 ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場するメインキャラクターであるモモには、人の話が聞ける能力があると説明されています。

 小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

 でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこの点でモモは、それこそほかに例のないすばらしい才能をもっていたのです。

 モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅううにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、というわけではありません。彼女はただじっと注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、自分のどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。

・・・・・・。たとえば、こう考えているひとがいたとします。おれの人生は失敗で、なの意味もない、おれはなん千万もの人間の中のケチな一人で、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所ををふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところにでかけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことに自分がまちがっていたことがわかってくるのです。しや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中でたいせつな存在なんだ。

 こういうふうにモモは人の話がきけたのです!

 

引用:ミヒャエル・エンデ,『モモ 時間どろぼうと盗まれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語』(訳大島かおり),岩波書店.

 さて、長すぎる引用を読んでもらったところで、時間どろぼうが奪っていた時間とは何の時間であったのか考えてみましょう。

 時間どろぼうが奪っていった時間というのは、自分自身である時間でありますが、自分自身である時間というのは言い換えてみれば、私的な時間、つまりプライベートの時間であります。

 私的と公的を考えるのが上手くいかない年齢群がいると思いますね。例えば、

幼児、未就学児、小学生、中学生あたありは公的な場からかけはなれています。日本の大学進学までの人々を考えると、おそらく人によるものの22歳あたりまでは綺麗な公的と私的のスペクトラムが描けると考えられます。

 何が言いたいかというと、幼いほど私的しか知らず、22歳に近づくにつれて公的を意識することができるというわけです。

 公的な場というのはわかりやすく、プライベート以外と考えましょう。さて、公的な

場といのは、様々な慣例、マナー、暗黙の了解といったものが存在します。公的な場で求められるマナーとして話題選び、服装、口調、礼儀などがありますね。私的な場、自分自身しかいない場、家族、友人といった他人がはいってくるとどんどんマナーが求められてきます。

 公的な場と違い、自分自身でいることが許されるのは、プライベート(私的な場、時間)です。この対比ができてはじめて、自分自身であることができない人はプライベートがないことだという風にとらえられます。要するに、時間泥棒が奪っていったのは、寿命が短くなったとかいうそういう時間ではなく、プライベートな時間というわけです。

 それが分かった上で、いくつか比較できる文章を引用したいと思います。

 ・・・・・・、ジジはモモに言いました。「でもな、ちっとばかりいいくらしをするために、いのちもたましいも売りわたしちまったやつらを見ろよ!おれはいやだな、そんなやり方は。たとえば一ぱいのコーヒー代にことかくことがあっても——ジジはやっぱジジのままでいたよいよ!」

引用:同上.

 

「やりますとも!」とフージー氏はさけびました。「どうすればいいかおしえてください!」

 「おやおや、」と外交員は言って、まゆをつりあげました。「時間の倹約のしかたくらい、おわかりでしょうに!たとえばですよ、仕事はさっさとやって、よけいなことはすっかりyめちまうんですよ。ひとりのお客に半時間もかけないで、十五分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日にまる一時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!ダリア嬢の訪問はどうしてもというのなら、せめて二週間に一度にすればいい。寝るまえに十五分もそのひのことを考えるのもやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だちづきあいだのに、貴重な時間をこんなにつかうのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きいと経路かけろといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんでな。」

 ・・・・・・。

 「安心しておまかせください。」お言って、外交員は立ちあがりました。「これであなたは、時間貯蓄者組合の新しい会員になられたわけです。あなたはいまや、ほんとうに近代的、進歩的な人間のなかまに入られましたのです、フージーさん。おめでとう!」

※強調は原文にはない

引用:同上

 

 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気づいていないようでした。じぶんたちの生活がひごとにまずしくな、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。

 でも、それをはっきり感じはひめたのは、こどもたちでした。というのは、子どもと遊んでくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。

 けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。

 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。

引用:同上

 今回は、掃除夫ベッポの仕事へのこだわりに触れていないので、近代的労働と近代以前の労働の違いや、公的と私的の対比について説明できておらず論の整合性にほころびがあり申し訳ない。

 

 プライベートな時間がない人は自分自身でいることはできない。なぜなら、公的な場では様々なマナーが求められるため、場にふさわしくあることが求められるからだ。公的と私的は、表裏一体であり、この境界がはっきりしていればいるほど息抜きが必要となり、私的な面の重要性がおびる。公的と私的の境界があいまいになる、そもそも境界を意識することができなければ、プライベートに公的がじんわりとだが、侵食してくる。

 大変面白いのが、ドイツやフランスなどの学校の教員の労働を日本の学校教員の労働と比較するときに、明白に違うのは彼らのバケーションや放課後の違いである。ドイツやフランスだとバケーションも放課後も先生に連絡してもつながらないのに、日本の教員にはつながり、さらに言えば放課後は部活動の顧問もやっている。この違いは、プライベートと仕事の境界線がはっきりしているからではなかろうか。

 ドイツやフランスといったヨーロッパ系は、フランス革命により近代化を意識することが可能で、私的や公的という意識が埋め込まれ、さらには「労働は悪だ」的な概念を持っている。

 一方で、この公的と私的の意識、労働の概念は日本には根付いておらす、プライベートや公的の両方が侵食され境界が曖昧になっていってる。就活や新社会人たちが最近よく使う「ワークライフバランス」という言葉は、まさしく私的と公的のバランスをとろうとしているかのようだ。だが、今日の日本は、もう経済成長率は2%には到達せず、一人当たりGDPは低く、企業は副業まで推奨するようになってきた。副業とは、すなわち、労働時間を増やし、プライベートをより切り詰めるということである。彼らが使うワークライフバランスには、プライベートと公的の境界が見えないし、出生率が低いことを鑑みたり、東京一極集中を踏まえると一人暮らしが増えていること考えれば、彼らは本当に一人でいる時間を求めているのではないかという気さえする。一人でいたいと思うほどに、疲れ切っていることなのか。それなら、まだ、近代以前の日本的な勤労の価値観の方がよかったのではないのか。

 過去日本に、私的と公的と労働の価値観を持ち込んだはいいものの、それを意識することができない日本人は、まさしく、時間泥棒にプライベートという時間を奪われ、公的な場を曖昧され、お互いが侵食しあっているのではないだろうか。

 

 最後に、モモのもっているもの(能力)、人に関心を示す能力、及びそれを意識できるプライベートな時間の確保といえよう。恥ずかしながら最近知ったことだが、人に関心をもつことができるのは、人をひきつける資質の一つだそうだ。

 確かにプライベートになれば、私たちは自分自身であれるのかもしれない。プライベートという意識に切り替えるためには、モモのようなプライベートに関心向けるような人がいたほうがよさそう。

 

※「自分自身である」というのをわかりやすく言うならば、目的や手段の意思決定、全てにおいて自分の価値観が尊重が前提とされるところであり、かつ自己中心的が問題視されないところ、と私なら表現する。逆に言えば、公的な場というのは目的や手段の意思決定において自分の価値観は尊重されず、かつ自己中心的は全く歓迎されていないところといえる。そう考えると、公的に私的を持ち込まないことを目指していた近代以前と、公的に私的が入り込むすきがある近代というのは、非常に対照的といえよう。

 

 

以上になります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

よかったらどうぞ。

 

independent-research.hatenablog.com

 

 

 

付録

神という概念がないと、絶対とか、完璧とかを諦められない人になりそうだなと思います。神ではないから完璧などありえない、という限界と妥協の意識って必要だと思いますね。

私たちは『自由』という言葉にどのようなイメージをに思い浮かべるのか

 メッセージを伝える側と、受け取る側、それを見ている側、立場によって言葉の使い方、捉え方が違うため、言葉を受け取る側という立場でタイトルを考えた。

「私たちは、『自由』にどのようなイメージを思い浮かべるのか」である。

 

 仮に、メッセージを伝える側だとしたら、「人々は『自由』にどのような印象を持つか」といったようになる。

 

 さて、この前、数日間の間に家族と先生に、「あなたは、どんな時に喜びを感じる?」「あならは、どんな時に幸せを感じる?」と似た感じの質問をされた。そのときに、答えたのは開放的に感じるとき、と答えたように思う。

 確か、ちょっと前に不動産のことが頭によぎっていた。不動産は自然的特性として地理的位置の固定性という特性がある。そのため、また、浮いていないので、不動産は自然環境の影響を必ず受ける。だから、不動産のあり方を考えるときは、地盤、流域、気象、火山といった環境、地学を学ぶともっとよくわかる。地学と関連のある学問と言えば地理がある。地理を授業で学んだことがないので、何だが、地理は特産物等がわかるはずだろうから、それがわかればさらに経済、戦争、古代遺跡などがわかりはじめる。それがわかってくると、技術、例えば道、馬車、船、航海、航空、鉄道といった運搬技術、さらには物理学が生活に影響を与えてきことがわかる。また、農耕、家畜化等も相まって都市(不動産のあり方)の形成、維持、発展を後押しすることがわかる。

 

 啓蒙と若干似ている気がしなくもないが、こういったある視点が手に入った途端に情報が繋がり、何かが「ただそこにある」というのではなく、情報化し、予測が可能となり、可能であれば検証もできるというのを、開放的に感じる。視野が広がると一般的に表現するかもしれないが、視野が広がるも開放感と類似しているといって差し支えないだろう。

 また、開放感のあるときというのは、束縛がないこと、連想、選択肢にひろがりがあることとも言い換えられる。というか、実感がある。どうでもいいが、テラス席や窓が大きいこと、風の通り抜けがいいこと、などが開放感を感じられるときの例としてあげられたりもする。

 

 さて、話を戻して、「『自由』にどのようなイメージを思い浮かべるか」と問いかけれられれば、私は開放的・解放的に感じる時といえる。自由は束縛と対比が可能と考えるなら、開放・解放と閉鎖・束縛と言い換えるは強引とは言い難い。

 

 これまで、「自由とは不自由でないこと」といった、神を定義するようなことと同じことをやってきた。

 イメージは変容するとしても、自由と言われたとき、私たちはどのようなイメージを「自由」という言葉に思い浮かべるのかから考える、という視点に注目するのは悪くない。

 

 そうすることで、なぜ自由はキャッチ―なのか、人々を惹きつける言葉なのかというのが若干わかるのではないだろうか。

 「自由とは何か」と考えたときに、自分勝手ではないし、「不自由でない」ことも曖昧さと、言葉遊びのような妥協さえ感じられる。神を否定して定義を試みるような、曖昧さである。一方で、自由を開放的・解放的と捉えるならば、現状に当てはまっているといえるのではないだろうか。〇〇感に直すと体験至上主義と揶揄されかねないという側面もあるが。

 自分勝手にしたいのではなく、開放・解放を自由に期待しているだけであるなら、まだ、対立の可能性が薄まる。

 

 自由ときいていい印象、期待をもつか、もたないか。

 なんでもしていい、というならなぜ、なんでもしていいを歓迎するのか。

 

 人によっては、例えば、「自分の好きに車を選んでいい」と言われただけで喜ぶ人がいる。これは、実際は自分の好きに車を選ばず、家族の意見を結局はくみ取ろうとするにも関わらず、意志決定の権限を了承されただけで喜ぶのだ。 

 なんでもしていい、という意思決定の権限の了承が明示されたと思った瞬間になんだか喜ばしい気分になるというのは、少し不思議である。不満がなければ、実際に自分が選択してなかろうが、嬉しい気分のままであるのだ。

 ただし、「今日の夜ご飯、何食べたい?」と言われても、あまり嬉しくなく、意志決定の権限が与えられても常に歓迎しない人もいることも事実である。

 

 私は、「自由」という言葉があると、なんだか開放感がある。「なんでもして良さそうだぞ、ウキウキ」といった感じだ。一方で、実は、ルールがあるといわれただけで、気分が下がる。どんなにルールが緩くて、どんなに簡単なものであってもだ。(ゲームのルールは除く)

 

 自由という言葉にどのようなイメージを思い浮かべるのか、自分勝手、なんでもしていい、といったイメージを含めて抽象化していくと、自由か、不自由かといった二択ではなく、そこに内包されている欲求を垣間見ることができるのではなかろうか。

 

 

 私たちは「自由」という言葉にどのようなイメージを思い浮かべるのか。

 私たちは「自由」に何を期待しているのか。

 

 

では、今回はこの辺で失礼します。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録

もう少しだけ、不動産を自然の影響から必ず影響を受けていると考えると、どこまで連想が発展するのかについて話しましょう。

不動産は、気象の影響を受けているというのは触れました。気象の影響を受けているとしたら、赤道直下と北極と南極の気象が顕著に違います。また、気象は山脈の影響も受けます。赤道直下と北極、南極の気象の要因を考えると、地球の自転がどのようになっているのか(地球は真球なのか、真球ではないのなら、どう傾いているか)、太陽はどうなのか、と宇宙との関係まで発展していきます。じゃあ、海の近い不動産(ベネチア等)はどうなるのかと言えば、もちろん、潮の満ち引きまで関係してきますので、月と地球との関係にもぶち当たります)不動産と海との関係までいくならば、塩水と建築物の劣化までいきます。これを予測したいのであれば、化学までいきます。これらを厳密に知りたいなら数学を用いて計算するのもありかもしれませんね。また、気象から山脈を考えると地球の内部、マントルや地盤などについても考えを発展させることができます。

 

環境と人間と工作物、人間と人間という視点で考えると色々なことが見えて来そうですね。

 

ただ、グローバル化により文化が画一的になっていっています。画一的になると、こういった発展の軌跡を連想するのが困難になるため、開放感がなく、歓迎できません。

 

・自由についての考察

プライベートでは自由という言葉はあまり使いません。学校とかで自由時間がどうとか、色々、決まっていることと、そうでないことでわけられたりします。そういった、学校や決められたところでは、自由は、楽しみを見いだす、よいと思うことを見いだすといった、満足や納得のいくように自己決定をしていい余地がどれほどあるのかの指標になり得る。

 

自己の欲求充足でなければ、他者の欲求充足、社会の欲求の充足、かもしれない。だが、社会の欲求というのが何なのか。結局「〜したいから」という枠組みに帰結しない、欲求ではない動機を表す言葉を見つけたい。恐らく、そこで初めて自己中心性が減少に転じるのではないだろうか。

問いの立てること

 暗記をしないといけないときに、まあ、上手く暗記できないわけです。中学、高校時代の私はいったい、期末試験当日にどうやって暗記をしてテストで80点以上とってたんだよと真面目にツッコミたくなるぐらい、暗記が上手くいかない。

 暗記をしていて気づいたのは、「なんで、こんなに穴ばっかりあるのに自分の意見を述べていたんだろうか」、となんだか急に恥ずかしくなります。知識が身についてないのにべらべらと。知識がなくてもべらべら話せるという事実は怖ろしいですね。

 全部の暗記が、同じようにできるかわかりませんが、自分が答えたくなるような問いをつくると、とても必死に考えて答えようとすることに気づきました。「これは絶対に答えねばならない」という使命感です。思い出せないし、わからないとも恥ずかしくて言えないし、正確な情報源かわからないからネットでぱぱっと検索もできない。そんな、「これは絶対に答えねばならない」という使命感を持っているシュチュエーション、そう、人に説明するときです。

 私は、人に説明するのが結構好きなので、このシュチュエ―ションで例えば、友だちがどう聞いてくるのか、想像してみるといい問ができました。ずばり、

「小学校がある地域(用途地域)ってどこの地域(用途地域)なの?」

です。この質問は、私にとって「これは絶対に答えねばらない」という案件であります。用途制限というのは、全部で18個ぐらいありますので、これを18個、友だちが聞いてきそうな質問にかえて答えるのです。ちなみに、答えは、工業専、工業以外の用途地域で建てられます(答え見ました)。もう一問、絶対忘れないであろうものもとりあげましょう。

「個室付浴場(ソープランド)があるけど、どこの’地域(用途地域)なの?」

これは、商業地域にあります。人々が法律を守っていて、取り締まりが徹底していれば、ソープランドがあったらそこは商業地域です。建蔽率容積率等の様々な限度が大きいので、収益性が高いため、恐らく家賃、価格共に高いです。なので、ソープランドに行きたければとても恐らく駅近の大きな繁華街に行けばいいでしょうね。

 といった感じで、不動産の資格の勉強というのは、街を歩けば、どこかわかるという現象が起きます。予測もなんならできるようになります。なので、覚えねばならない、ぜひ覚えたい、ぜひ説明したいですね。残念ながら興味関心は中々一致するものではありませんので、「小学校があるけどどこの地域?」なんて聞かれませんが。

 

 前述の話は、覚えるためには、絶対に答えなければならないシュチュエ―ションを考えて、そのシュチュエ―ションでされそうな問いを考えて、それと同じ問いを立てると暗記の意欲がわくという話でした。

 ブログの記事を書きたいと思った理由は、前述の話をしたいからではなく、こちらの話が中心です。不動産の資格の勉強をする必要があり、それのために時間を割く必要がるわけ。ただ、大学で取りたい科目も49単位以上あり、減らさないといけないなかでどうやって優先順位をつけて、時間を空けようかなと考えていました。

 YouTube大谷翔平と通訳の一平さんの動画のコメント欄を眺めていたら、「言葉はオプションでしかない」という言葉がでてきたんです。自分としましては、「あーそうか、オプションかと」。

 これを踏まえてできた、問いというのは「それオプションじゃね?」でして、これで理路整然と優先順位が立てられる気がしました。大学の科目もそうですけど、その他、色々と、批判をするにあたって便利な言葉であります。

「それオプションじゃね?」

 人に使うと気分を害しかねないので、あまり多用するのはよくなさそうな言葉ですが、便利そうです。

 「恋人は見ためか性格?」というありふれた質問も、オプションかオプションではないかというのを考えますと、性格が重要です。理由としましては、体重の増減、老化等で見た目は簡単にかわります。あるあるの昔は美人だった、イケメンだった等が必ず起こります。性格もライフイベント、幸・不幸で変わっていきます。しかし、超絶ネガティブやろうか、面倒な人間かというのは、あまり変わりません。一方、顔は見なければ、気にもとまりません。性格のというのは要所要所、常時、付き合わなければならないという点を鑑みますと、「恋人は、性格で選び、顔はオプション」といったところにおさまります。

 オプションか、否かでものごとを決めればなんとかりそうですが、そうものごとは単純ではないのも、また事実です。どんなに遊園地に生きたくても、天気が悪ければ行きたくなくなります。行く相手もやはり重要です。

 「それオプションじゃね?」でという問いで絶対必要条件を導き、リスクの把握、完璧なチャンスは訪れないと心にとめて優先順位を決めたり意思決定をしていく、というのが現時点でできることですかね。

 

 「それオプションじゃね?」って中々辛辣な言葉です。

 

 

 問いの立て方を変えれば、覚えやすくなる気がします。もしかしたら、決めにくいことも決められるようになるかもしれません。

 

 

以上です。

 

 

 

付録(これは完全にオプションです。)

ベトナムの建物には、蚊がいるにも関わらず、網戸がありません。

 

 

楽しみの源泉を

 現在は、不動産の勉強をしています(まぎれもない金融の分野です)。たまに、「なんで、不動産なのか?」と聞かれることがあります。簡潔にいうと、人は浮いていることができないので、必ず自分の立つ分だけ、寝る分だけ、座る分だけは土地が必要です。しかしながら、土地というのは、借りるか、買うか、公共か、居候させてもらうか、不法侵入かのどれかしかできません。人は浮けないので絶対に土地が必要ですし、なくならないものです。といった感じで答えるわけですが、面白いのが「浮けない」という言葉を使うと聞いた人は「・・・」といったフリーズ状態になってしまいます。反応が面白いので、他の言葉を使うのに乗り気にはなれませんが、変えた方がよさそうです。

 それは、さておき、不動産の勉強の面白さについて語りたいと思います。不動産は、言わずとも資産の一つでありまして、一般的な家庭にとって最も高い買い物といって間違いないでしょう。税制、立地、資産価値、町並み等、色々見る点があります。

 これの面白いところは、町並みというのは法律の影響が色濃く反映されている思われます。そのため、ある程度法律を知っていれば、銀座や足立区、大阪の梅田、東京の新宿、京都の京都市の町並みが、なぜあのようになっているのかわかったりします。この点は、勉強したくなる理由の一つです。

 そもそも、不動産でできる町並みは自然の影響を必ず受けています。そのため、現在は、不動産、町並み、家をつくろうと思う背景にある環境を学びたいなと思っているところであります。

 

 なんと言いますか、私は、手に取ったものを考察する癖があります。例えば、ピスタチオとマカデミアナッツを殻をむきながら食べていて、どうやってこの実はなっているのだろう、と考えはじめ、ピーナッツは豆類なのに、なぜ、ナッツ(木の実)という名称が用いられているのか考えを膨らませます。この発見する時もいい気分になれるポイントでありますが、これを人に説明するというのもいい気分になれるポイントです。

 不動産は手に取れるわけではありませんが、十分に観察し、考察できるほど街にあふれかえっております。私は、都市に住んでいるため、自然は豊かではありませんが、不動産は豊かにあります。そう考えると、目に入るものに興味関心を示す私の性質を踏まえれば、不動産に興味を示すのは、全然ありえたことといえましょう。

 

 不動産と都市を考えていて面白い点というのは、この農地から離れても人々の生活を成り立たせるために、この運搬の発達、家畜、農業の生産を思い出し、ありがたみを噛みしめたくなります。非常によくできている。ですから、都市というのが機能するためには、ある程度の運搬が可能になり、食料が十分に生産できなければならないのです。いつだ、いつから都市があるんだと歴史に思いをはせたくなりますが、まあ、結構前からあります。

 これだけでも、十分に面白いのですが、さらに面白いのが不動産はその名の通り、不動ですから、写真や動画で今まで見てきた数々の町並みというのは自分で足を運んで見に行かなければなりません。ヨーロッパの町並みには憧れがあります。なんといったて、空襲されなかったし、古い街並みを大切にしているから、古い町並みが残っているんですよ。いかねば見れない。いかねばと思います。

 何が言いたいかといいますと、不動産は非常に環境や法律に影響されて形作られているため、比較が容易にできる点が非常に面白いです。それを見つけて、説明できればいい気分になります。世界は広いですので色々なところにいきたいですね。

 不動産の勉強というのは、すればするほど、色々わかり、色々な見方を持つことができ、さらに環境や法律、地学、地理を勉強すればもっとよくわかるところが面白いです。また、前に勉強したことをつなぎ合わせて網目のようにすることができます。もっと勉強すれば、もっとよくわかり、もっとよくわかれば、もっとよくわかる、もっとよくわかるようになったら違う地域がどうなっているのか見に行こう、というプラスな循環がなんとも芳醇な気持ちにさせます。そのせいで、大学の単位の上限と資格の勉強の優先順位がこんがらがってくるというのの対応が何ともつらいですが。

 

 勉強して、不動産見て、不動産説明できるようになって、誰かのために不動産を英語で説明して、別の地域にいったときに誰かに不動産の説明をしてもらい、意図的にinterestingを何度も連発できるように勉強したいと思います。

 

付録 FIREを達成した人々のその後を古代ギリシア人がどう思うのか想像しよう

 テレビを見ていたら面白い特集がされていた。その内容は、FIREを達成した人々のその後、という内容である。FIREとは、ある程度の不労所得が死ぬまで見込まれ、働く必要がなくなった人をFIREと捉えられる(定義は知らない)。

 何が面白かったかたというと、死ぬまで不労所得が見込まれ、一定の経済的自由を達成し、古代ギリシャでいうなら自由人(必然に囚われていない人)の要件を満たすにも関わらず、精神面で不調をきたしカウンセリングに行ったり、再就職した。自由人になったときに、労働を望むというのは中々である。ちなみに、その労働の種類というのは金融関係だそうだ。34歳でFIREを達成できるぐらいですから、軍資金があるか、相当リスクをとって上手くいかないと中々できることではないので、それやあ、金融の素質があるでしょうね、と思いましたが。

 必然に囚われなくなったFIREを遂げた人々のその後は、芸術、音楽等でもなく、工作でもなく、政治家に携わるわけでもない。古代ギリシャ人が彼らをどう見るのか考えると実に面白い。