ゼノンのパラドックスのひとつ、「アキレスとカメ」はご存じだろうか。内容は以下の通りである。
アキレスとカメが徒競走で勝負することになる。ハンデなしでは勝敗が明らかである。そのため、カメはハンデをもらうことになり、A地点からスタートすることとなった。一方で、アキレスはカメがスタートするA地点よりも後ろからスタートすることとなる。アキレスのスタート地点をA’地点としよう。「よーい、ドン」でスタートしてから、t時間経過した。カメは、A地点からB地点へ。アキレスは、A’地点からカメがいたA地点に。それから、またt時間経過すると、カメはB地点からC地点へ。アキレスは、A地点からカメがいたB地点へ。それから、また、t時間経過すると、カメはC地点からD地点へ。アキレスは、B地点からカメがいたC地点へ。と、アキレスは、ハンデをもらったカメに一向に追いつけない。
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である」
「アキレスとカメ」の話を知り、当然の議論にも関わらず、極めて再考の余地のある議論だと思った。
もし仮に、アキレスがカメに追いつくには、カメより早くないといけない。逆に言えば、カメがもしアキレスと同じ地点からスタートすれば絶対に追いつくことはないし、もしもアキレスの方が手前からスタートするのも同様に追いつくことはない。
もっと、具体的にいえば、仮に東京マラソンに同じ実力の人が参加した場合、ゴールまで同じ距離であろうところからスタートしなければ、単純に考えて追い抜かすことはできない。始める以前から、勝敗が決まっているのだ。
勉強でも、同じ能力の人がいて、さぼらなかった人がいた場合、さぼった人は成績は追いつくことはできない。
生涯賃金があるが、浪人や留年をして機会損失を行うと、生涯賃金は、機会損失をしなかった者に比べて目減りする。転職が盛んではない時代ならば、生涯賃金は機会損失した場合、必ず追いつくことがないという例になったであろう。
投資における複利でも同様で、先に投資を始めた人と同じ額を投資したところで、リスクが同じであれば追いつくことはできない。
新興国は、先進国の経済成長よりも成長率が高くなければキャッチアップすることができない。だが、先進国によっては着実に経済成長していくため、着実に進む分も含めた成長率がなくてはならず、かなりリスキーである。
そもそも、ハンデがありスタート地点が後方であったり、スタートするタイミングが違かったりすると、追いつくぐらいの成長率や能力がなければ、スタート地点が前方のものやスタートするタイミングが先のものには追いつくことができない。だからこそ、明治維新が新興国のモデルとなるのであろう。酷な話である。
経済成長率での、諸外国の比較はよいだろうが、GDPでの比較は、追いつくことは稀であるため、目標にするのはやめたほうがいいかと。そう単純な話でもないというのも事実だが。
競争社会というのは、実のところ結構前から勝敗が決まっていたり、キャッチアップする可能性は低いことが理論から思い浮かぶ。相手の怠惰やミスがなければ追いつくことはできないと予測する。
追いつけ追い越せというのは、競争相手を見誤るとやばいことになりそうだ。
競争というのは、アキレスとカメのように絶望が頭をよぎりかねないので、動かない目標をつくることが望ましいといえる。
以上になります。
付録
マイケル・サンデルの著書に『実力も運のうち 能力主義は正義か?』がある。正義じゃないかと思っていたが、アキレスとカメの観点から言えば、正義とは言い難い。もし仮に、ハンデがないカメが、アキレスに追いつくことを目標として競争しているのだとしたら、それは地平線を追っているようで可哀そうの一言である。動かない目標か、違う目標か、美とか違う方向性があった方がいい。