自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

視点 ~木造や石造りから見る文化と環境~

 ヨーロッパ系には永遠という概念がある。例えば、古代ギリシア人たちの永遠という概念、キリスト教に見られる復活の概念などがあげられる。浜本隆志の『窓の思想史――日本とヨーロッパの建築表象論――』によれば、石造りから永遠という概念が伺えると主張する。その背景の一つとして、建築資材がとくにイタリアの地中海では気が育たない環境のため豊富にある石材に目が向けられたことがあげられる。石材の永遠さというのは、数々の遺跡が物語っているのではないかと思う。また、石造りが可能であった理由はヨーロッパの地震がないこともある。

 日本というか、仏教には諸行無常の概念がある。これを変わらないものなどない、という意味では私は覚えている。前述のヨーロッパ系の永遠の概念とは真逆の概念だと思う。日本の建築の文化に背景にある、環境要因は、まず地震があげられる。地震で幾度となく建築物は破壊されてきた。永遠など信じられるはずもない。また、木材が豊富にあったこと、湿気との兼ね合いで木材が建築資材として主流だ。しかし、腐敗等は石材と違って免れない。そのため、ヨーロッパの石造りの建築物から永遠という概念を見いだすのは望みがあるかもしれないが、日本の木造りの建築物から永遠を見いだすのは困難であるが、諸行無常のという概念は実態に即しているため見出しやすければ、理解もしやすく、なじみやすい。

 

 衣食住といった生活は、環境の在り方に根差しているためこのような違いがあるのだろう。自然にはあらがえないため、対応してきた形跡が建築物には如実に現れていると思う。ちなみに、日本の建築が欧米化により対応してきた点としては、引き窓があげれるが、残念ながらこれは湿気で結露を起こすため日本の湿気という気候には完全に対応しきれていない。さらに、ヨーロッパでは恐らくいない蚊が日本にはいるのはご承知の通りだと思う。これに対応してきたのが、網戸であった。しかし、近年の新築の戸建て住宅に網戸が見られなくなってきている。とりわけ、ヨーロッパに見られるような窓の場合、その傾向が顕著だったりする。夏といえば、蚊や虫がいる。夜には明かりをつけるのだから、虫は住宅の明かりに集まってくる。ゴキブリも入ってくる。家族に聞いたところ、網戸はオプションだそうだ。お金がないからか、虫と蚊に対応できるのか知らないが、昨今、新築の戸建て住宅の窓には網戸がない。いつか、日本の建築から網戸がなくなり、退化すると思うとぞっとする話である。

 

 ヨーロッパに長く滞在したこともないので憶測の話しにはなるが、日本の家屋の高さは、少なくとも昔は床座が前提というのを意識しなくてはならない。欧米人は身長が高く、椅子やテーブルがあったためそれらを使用した上でも開放感を求めるならば、天井の高くなければ開放感はない。日本の家屋の高さは若干低いように思うが、床座であったことを考えて、床に座ってみると確かに椅子に座っているときよりも開放感がある。

 そんなことを言ったら、生活様式が欧米化して椅子に座るのだから、天井が高くないと圧迫感を感じるってことでしょ、なら天井を高くしたい、と思われた方々には申し訳ないが、残念ながら日本の建築基準は用途地域によって10m~12mと高さの上限が決まっているかつ、日照の妨げにならないよう注意せねばならないため、ことはそう簡単な話ではないことは申し添えておこう。

 

 とりわけ、建築物といった環境との対応が必要なものは、グローバル化とは相反するという自覚がなければ、不便、不快を自ら助長しかねない。注意すべき案件である。

 

窓から深める教養 ~「耳をすませば」のワンシーンより~

 本記事のエピグラフ

 知ることと楽しみの関係は一通りではない。知識が映画や小説の楽しみを深めるということはすでに指摘した。つまり、知識は楽しみをより大きくしてくれる。そればかりか、知ることそのものが楽しみでもある。知ることにより、これまでバラバラだったことがらがきれいにつながって「世界が晴れ上がる」感じがする。あるいは、日常の当たり前だと思っていたことがらの根底に、深い秘密が潜んでいることを知って、世界がまるっきり違う仕方で見えてくる。この楽しみ(アカデミック・ハイ)は捨てがたい。

戸田山和久,2020,『教養の書』,筑摩書房.

 

 窓について話したい事がたくさんある。今回は、スタジオジブリのアニメーション映画の「耳をすませば」の窓のワンシーンから教養が深まる話をしていきたい。

 

 「耳をすませば」というアニメ映画では、中学3年生の団地住まいの主人公の雫と、天沢聖司の2人の恋愛ドラマと自分に何が向ているのか試すという人間ドラマが描かれている。天沢聖司はバイオリンづくりの職人になるべく努力している。雫は彼から刺激を受け、小説を作った、というのが大まかな映画の流れである。

 

 今回とりあげるシーンは以下の静止画のちょい前のシーンであるが、せっかく無料なので出してみた。なお、以下の静止画は(URL:耳をすませば - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI)から拝借している。このシーンは映画の最後の方のシーンである。

本当は窓のシーンを見せたかったが持ってこれなかった。申し訳ない。

 寒い冬の夜明け前、団地の四階あたりに住んでいる雫は寝ていたが、なぜか起きて窓を開けてみる。すると、なぜだか自転車に乗った天沢聖司団地の下にいた。それに驚いた雫は、天沢のジェスチャーを受けて下に降りた。天沢の指示で自転車の後ろに乗ると、天沢はある場所に向けてペダルをこぎ始めた。天沢は雫を後ろに乗せ自転車をこぎながら、なぜ今日本いるのか、雫のことを心の中で呼んでいたら、窓から顔を出したので本当に驚いたという話をする。

雫が窓から天沢を見つけて団地から出てきたあとに自転車で二人乗りのシーン

丘にあがる坂を上っているシーン

朝日を見るシーン

 

告白するシーン

OKをもらえて天沢が喜ぶシーン

 

 「耳をすませば」のワンシーンを説明したところで、この「寒い冬の夜明け前、団地の四階あたりに住んでいる雫は寝ていたが、なぜか起きて窓を開けてみる。すると、なぜだか自転車に乗った天沢聖司団地の下にいた。それに驚いた雫は、天沢のジェスチャーを受けて下に降りた。…天沢は雫を後ろに乗せ自転車をこぎながら、…雫のことを心の中で呼んでいたら、窓から顔を出したので本当に驚いたという話をする。」というシーンの場面設定と意図から、教養を深まる話をしたい。

 

 なお、ここから浜本隆志の『「窓」の思想史――日本とヨーロッパの建築表象論』の内容が出典の話しである。

 窓から外を眺める女性と、外から言い寄る男性という構図はギリシャ神話から始まる。ミュケナイ王のアルクメネという身持ちの堅い美しい娘にはアムピトリュオンという婚約者(夫)がいる。ゼウスは彼女に度々言い寄るものの全て断られた。ある時、アムピトリュオンが出征中のとき、ゼウスは彼に変装して彼女の部屋に忍び込み、思いを遂げることに成功する。帰ってきたアムピトリュオンが窓から梯子でアルクメネのいる部屋に入ろうとしたとき、ゼウスと鉢合わせした。

 古代ギリシャ以降、「窓辺の女性と男性の構図がクローズアップされるのは、中世の騎士道精神が華やかな時代になってからである」。この時代の構図は、ディズニーのアニメーション映画の題材にもなった「塔の上のラプンツェル」の原作にあたるラプンツェルにも影響を与えた。その後も、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の「ロミオどうしてあなたはロミオなの?」のバルコニーのシーンも同様に窓辺の女性と男性の構図である。

 引用:浜本隆志,『「窓」の思想史――日本とヨーロッパの建築表象論』

 窓辺の女性と男性の構図に「耳をすませば」のシーンをあてはめてみる。

 「耳をすませば」の団地の4階あたりから顔を出す雫と、団地の下で天沢聖司が心の中で雫の名前を呼びながら待つシーンは、窓辺の女性と恋心のある男性の構図にあてはまるといえる。

 

 ちなみに、この窓辺の女性と男性の構図はヨーロッパの飾り窓のみならず、江戸の吉原でも見受けられる。

 

【補足】

 この窓辺の女性と男性という構図は日本の夜這い、あいびきでは一般的でなかった。理由は、第一に日本は地震大国であるため垂直に伸びた構造の建物はほぼない。第二に、窓はヨーロッパで発展したものであり、近代以前の日本の建築物に窓は用いられていなかった。以上の二つの理由から、窓辺の女性と男性という構図が一般的でなかった理由と考えられる。

 

 以上で「耳をすませば」のワンシーンの窓から教養が深まる話を終わります。

 スタジオジブリ耳をすませば」のアニメーション映画の故近藤喜文監督及び、その他スタッフに教養の高さを感じました。

 

 

 以上になります。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

自由研究 ~自己中心性(egocentrism)と自己中心的(selfishness)~

 近頃停滞気味であった自由研究にブレイクスルーが起こりました。今回の記事はブレイクスルーの発見となった言葉についてです。

 最大の発見は、自己中心性(egocentrism)と自己中心的(selfishness)という言葉が別物であること、及び前者の言葉が知れたことが最大の発見だった。

 自己中心的は大体の人が思い浮かべる通り、自分のことばかり考える利己的な人間のことである。

 一方で、自己中心性(egocentrism)とは以下のような意味がある。

事象を客観的に第三者の立場、あるいは複数の視点から分析・認識できず、主観的に、自分の立場、あるいは固定した一つの視点だけから分析・認識する認知・思考の仕方をいう。心理学者のJ・ピアジェは、児童の思考はこのような性格をもつと考え、自己中心的思考と名づけた。さらに、前述のほか、自己の行為や操作についての内省・反省や、相対的関係判断が不可能であること、知覚的に際だった特徴にこだわり総合的判断に欠けること、矛盾意識がないことなどの特徴を指摘した。統合失調症精神分裂病)、ヒステリーなどの病的状態の際も、このタイプの思考がしばしば生じる。道徳的な意味での利己主義とは異なる。 

自己中心性(じこちゅうしんせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 いかがだろうか。

 私は、自分自身がまさしく自己中心性に固執しつつあったことにこの言葉のおかげで気づけた。思い当たる節としては、まず自分で気づくことに固執する点、自論ばかりである点があげられる。やばい、恥ずかしい、でも気づけて良かったとは思う。

 

 また、自由になるための課題には自己中心的の他に自己中心性があることにも気づけた。そして、「万人の自由のために、万人の魂の自由のために―――」と帯にかいてある戸田山和久の『教養の書』がいいたかったのは、恐らく自己中心性からの自由ということにもようやく気づけた。そして、恐らく、リベラルアーツ、及び古代ギリシアで言われているlibertyも自己中心性からの脱却することが含まれていると思う。今まで、必然にばかり注目していたが、これも自己中心性からの脱却も自由の欠かせない要件である。

 

・まとめ

自由とは、不自由でない状態のことである。

不自由でない状態とは、自己中心的・自己中心性から脱却していると同時に必然に囚われていない状態のことである。

これだけでも十分に尊い状態ではあるが、自由を何かしらの目的のために従属させ、公的領域で言論と行為で自分が何ものかというWhoを暴露し、人の心に記憶に残り永遠を手にできたとしたら、それは古代ギリシア人からすると神と並んだことを意味する。

 

 

 

自由研究におけるブレイクスルー的発見の話は以上になります。

 

 

自由研究 〜古代ギリシア人の自由は何の条件〜

 ある試験を受けている時に、動機は忘れたが自由について考えていた。具体的には、ハンナ・アーレントの『人間の条件』における自由についてだ。

 

 

 自由とは、何者であるか暴露できる条件を満たしている場合をさす。
 古代ギリシアでは、必然にとらわれていない自由という状態が条件で、その条件を満たしてはじめて公的領域の一員として認められ、行為や言論を表すことができ、何者かが暴露でき、暴露され、そして、見られ、永遠の存在になる可能性が開けた。

 

 古代ギリシア人は、神に似た永遠の存在になることを目指した。そのためには、公的領域が欠かせず、そこに入る条件として、誰であるかに価値を置いていたから、自由を条件においた。その唯一無二である存在を永遠にするにあたり、完全なwhoが暴露されるのは、自由という、必然に囚われていない、何者であるが暴露できる状態だから条件においたのだ。

 

 

 古代ギリシア人の目的は、神に似た永遠の存在になることであった。私や多くの現代人が自由になることが目的にある。そのための、金銭的自由だったり、ストレスマネジメント等、政治等を自由の条件にあげる。

 

 だが、古代ギリシア人にとって、あくまで自由は永遠になる条件でしかない。近現代において、大衆はほぼ無目的で自由を求めて、賛美している節がある。無論、私にもある。また、近代革命あたりを振り返らないといけないが、そもそも何の目的で自由が理念となったのかを確認する必要がある。それと同時に、その目的を我々は批判しなくてはならない。でなければ、なんとなく「自由っていいよね」の域を越えられない。

 

 何を目的におき、目的のためにどのように言論と行為を用いるか、目的と過程で何者かが暴露される。何者かを暴露し、永遠の存在になることを望んだのが古代ギリシア人である。

 

 自由になることが目的かを批判し、自由が目的でないならば、何が目的で、それは何が条件なのか考えなければならない。価値観はみな違うのだから。

 

 

雑談 ~自分をコマだと思って動かす気持ちで~

 自分の望み通りのチームを組めず、そのままのチームで課題を達成しなくてはいけないときのリーダーに求められる立ち振る舞いとは何なのかが大体見えてきたので、それについて語っていきたい。目標は、そのままのチームでストレスを溜めることなく課題を達成することだ。

 

 

 この前、課長研修でやるグループワークというのを体験した。内容は、5人ひとグループとなり、4人は目隠し、目隠ししない1人がリーダーとなって指示を出して机においてあるものをリーダーの想像する通りにセッティングしていくというものだった。ちなみに、セッティングしたものはフォークやナイフといったテーブルセットである。最初はとてもスムーズに5分でテーブルセットを完成させた。振り返りののち、グループのメンバーを入れ替えて3分を目標に二回目を実施した。

 

 やってみた感想としては、「最初のリーダーの指示の方が良かった。みんなで(2グループ計10人)で行った振り返りを、二回目のリーダーは果たしてどれほど聞いていたのだろうかとさえ思った。信頼関係が重要なこともわかったし、リーダーの向く人、向かない人もいることがわかった。自分は遠慮しがちだったが、リーダーをやった方がストレスは溜まらなかった気がする。」といった感じである。付け足しつつ見解を述べていきたい。一応、勝ち負けがあり、私のチームは一回目は勝利し、二回目は負けた。

 

 

あるある、あっちの人の方がやりやすい。

 最初のリーダーの指示の方が良かったなと思った理由は、まず、他の人に向かってわかりにくい説明をしていたからである。例えば、「それを上に」といった曖昧で誤解を招くような表現がよくない。適切な表現は指示語を使うのではなくスプーンを手前においての方がよい。上にと言われた人は置かなくてはならないのに上にあげてしまったそうだ。ここで、上じゃなくて手前だろうと、脳内で訂正をするかしないかは、指示通り動くのではなくて意図をくみ取るか否かによってくるだろう。

 

 そして、動くなという命令もあったのでよくなかった。後の振り返りの時に、「手が動いてしまうと物も移動してしまって指示が出しにくいから動かないで欲しかった」といっていたが、それを言っていたら命令ではなく頼みになったとう思う。それから、一回目より二回目の方が時間がかかってしまったことはよくなかった。人間が光速より早く移動できないにしても、与えられた時間はテーブルセッティングをやるのに十分な時間である。

 

 

振り返りをしたんだったら、二回目をやろう!

 振り返りでは、どこを改善すれば3分以内にテーブルをセッティングできるかと話し合った。目隠しをしているから、何が机に置いてあるのか、どんな完成図を思い描いているのか、それを教えてもらえるとよかった、とコメントがあった。その他、評価された点としては受け渡しの時に相手がわかりやすいように音をならす、名前が覚えられないなら番号で呼ぶ、相手の右左にあった指示を行う、質問していいか確認する。他の工夫としては、並べるものを机から落とさないよう気を付けて落とした時は目隠ししていないリーダーが拾って慌てない、氷が冷たくない(おもちゃ)と教えてあげる(音で推測できるよと伝える)といったリーダーに対してのコメントがほとんどだった(ちなみに、記事を書いていて気づいた)。

 

 

では、チームを入れ替えて再挑戦!

 チームを入れ替えて、私のチームには、初体験が2人、さっきのグループで一緒にした人が1人、別のチームだった1人であった。リーダーは、最初と同じでジャン負け(じゃんけんが負けた人)がリーダーとなった。前述の通り、最初から何が置いてあるかわかっている上に、振り返りをして何をするといいか分かった上でやった二回目は、最初より時間のかった5分30秒程度という結果に終わった。

 これが終わった後、ハートに傷がつかないよう振り返りをした。振り返りでは、解釈の余地がありすぎる指示で困った、何が置いてあるかを把握するためだったとしても自由に動かれて困った、もうちょっと自由に動いて把握すると良かった、僕のところには何もなくて一回しか呼ばれなくて残念だった、段差が邪魔をした、みんなが手伝ってセッティングするというよりは1人がセッティングに専念すると感覚的に位置がわかっているからはやくできたかもね、時間を気にすると上手く指示ができなかった、さっきは名簿があったから名前を覚えなくても大丈夫だった等であった。

 

 

個人的な振り返り

 勝ち負け、改善があるならばベストなリーダーの決め方はジャン負けではないということを学んだ。ジャン負けでやると振り返りをまともに聞いていなかったり、「じゃあ、さっき振り返りのときに話していたとおり○○してください」と振り返りを活かすことができない人に当たる可能性があるからだ。すなわち、ジャン負けはリーダーに向いていない人がなる可能性があるためやめた方がいい。ちなみに、私はこのグループワークを通して、遠慮してストレスが溜まるグループワークを実施されるぐらいなら、自分がやった方が良かったと思った。なぜなら、自分がやってドギマギした方がまだましだし、振り返りの話ぐらいは確実に実行できるし、私の方が上手く指示が出せると思ったからだ。しかしながら、たまには一回目の通りストレスのたまらない指示に従う機会にも出会いたいので、リーダーに名乗りをあげてばかりはいたくないとは思う。それに、誰かのリーダーになる機会も奪いたくはなない。

 

 二回目をやっていて、これはすごい現実であがりやすい問題と思ったことがあった。それは、リーダーが適切な人材なのかである。時として、フォロワーの方が先を読めていたり、全体を把握していることがある。非合理的な指示、目的を果たす上で手段を決められるとストレスを溜めたりするし、リーダーに改善策の提案を繰り返すと実質的なリーダーがかわってしまい場の雰囲気を悪くするし、それによりさらに効率を悪くしかねない。リーダーにも種類はいると思う。ただ、グループが指示を出す人、指示に従う人という典型的なグループの場合、あまりにも非効率、非合理で、やり方を指定してきて、さらには繰り返し提案を受けたりする場合、実質的なリーダーがかわりにでてきてしまうので注意する必要がある。リーダーのメンツをつぶさないようにしつつ、チームが効率的で合理的に動くのは至難の業なのだから(私の場合はそう)。

 

 これを踏まて、良いリーダー、良いフォロワーというのは何なのだろうかと考えた。というより、あの時どう立ち回れれば上手くいったのか考えてみた。本当の話をすれば、自分がリーダーをやることへの遠慮を払拭するための都合のいい考えを見つけた。それ何かというと、ストレスフリーで最短、最高のできで課題を達成するために自分すらコマ扱いして、誰がどの役割を担うのが一番いいのかを考えればいいということだ。さきほどのグループワークの例だと、リーダーには自分が適任であったのでやった方がよかった。なぜなら、少なくとも振り返りの話は実行に移すからである。そして、相手の行動を分析してぐちぐち考えてストレスを溜めなくて済むような気がする。多分、相手が思ったように動かなくてイライラするのがおちだろうが。

 

 今回の振り返りの目玉は、グループワークをやるにあたって課題達成をするために自分すらコマのように扱える人材がリーダーになること、また、自分をコマとして扱えるような人材を味方につけて補える、もしくは相互補完的関係性を築ければ最高だと思った。まずは、自分をコマのように扱って課題達成のためにどう動けばいいかを考えたい。先ほどの例だと、まずはリーダーになってみることである。また、フォロワー同士でコミュニケーションをとり助け合えばよかったと反省しているし、声掛けがないのは奇妙である。リーダーという役職が生まれると指示を与える人、指示をもらう人という関係ができるが、責任の所在はおいておいて、そこが色々と問題かもしれない。確認してから手伝う、助け合うというのが打開策といえる。

 

 

 士農工商といった世襲などで自分の仕事や役割が決まっていたころと違い、現代は自分自身の役割というのを自分で選ぶことができる。有機的連帯で社会が成り立っている、人々が専門性に特化、つまり分業をして相互補完的に成り立っているこの社会は、微妙なところもあると思うが、自分が選びたい役割を担える可能性があるし、何よりも苦手な役割を担う必要がないことを念頭に置いておきたい。私は、現代を良く批判しているが、現代の一つの特徴である仕事を選んでいいところは歓迎する。確かに、日本は職業選択の自由が保障された国ではあったが、あまり意識したことがなかった。もしかしたら、最も容易に噛みしめられる自由かもしれない。ただ、安易に喜べない。自分と社会等を自己相対化する視点を持ち合わせない、行動に移さないならばデメリットがメリットを大きく上回るに違いない。

 

 

 最後におまけで悲しい前提を共有しておきたい。

 それは、振り返りをまともに聞いていない人がいるということを覚えておく必要があること(それから、話をしたとしても聞いてませんでしたという人間が現れるということは頭に入れておかなければならない)。

 

 

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

言葉の見方 ~言葉は観察者の見方が反映されている~

ちょっと面白い話をしてみよう。

 

 私は、アクティブな人に憧れがあり、そうなりたいなと思っている。しかしながら、別にアクティブな人のようにどこかに行ったり、計画を立てたりするわけでもなく、口だけな人間だったりする。アクティブな人への憧れは記憶の中では18歳あたりからはじまっている。この年になるまでこのことを話すと何度か「○○さんってアクティブじゃん」と言われたことがある。人から見れば私はアクティブな人に見えたらしい。それを言われたとき、内心、「こんなんじゃアクティブとは言わないだろ」とか、「こういう系でもアクティブな人のカテゴリーに入るんだ」と思った。ちなみに、私が考えるアクティブな人の例は、正月からスキーやウィーンフィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートに日本からわざわざ行く人はアクティブな部類に入ってくる。こういう人々を私はアクティブな人と表現する。

 そう、当事者ではない私がそう表現するのである。決して、「私はアクティブな人」といわない。言わないのである。言語は他者に表現されるようにできているいるのだ。言葉で表現する側というのは、見ている側なのである。

 

 「言葉で表現する側というのは、見ている側(観察者)なのである」というのを思いついた言葉を挙げてみよう。「マウントをとられた」という言葉は、悪口として用いられる。例えはこんな感じ。

【空想】

言葉で表現する側「自分の息子が慶応医学部に合格したんですよ」

言葉で表現される対象「私の息子も京都大学の医学部に合格したんですよ」

言葉で表現するする側「へえーすごいですね(マウントを取ってきやがったこいつ)」

 

【実例】

質問する人「チマチョゴリって私でも入りますか?、サイズが心配なんですけど」

質問を聞いている人「えっ、そんな質問するの?私、(入らないという意味で)そんなこと思ったことないから、ごめん笑っちゃって」

質問に答える人「そんな心配しなくて大丈夫だよ」

 

 二つ目の実例は言葉は若干違うが私が実際にやってしまったことである。相手に「うわ、マウントとってきたコイツ」と思わせ、不快に思われても仕方がないことを言ってしまったと反省している。ただし、これはあくまで相手がそう表現するかしないかによる。

 例を二つあげてみたが何を言っているのかよくわからない人もいいると思う。私自身もこの言葉を初めて聞いた時理解が追い付かなかったので、落ち込むまなくて大丈夫だ。何より、何を言っているのかよくわからなかったからこそ、観察者が対象を表現するのである、という言葉の原則に気づけたわけだが。私の最初の印象は、「そんなことで不幸、嫌な気分になるのか」というものだった。

 前述のようなかけあいを含めて、ここ最近このような受け答えを「マウント」と表現されるようになった。この掛け合いを、おそらく不快と感じたした人がそう呼称するようになったのである。不快、快に係わらず何かを感じた人の中で言葉を生み出す人がいるのである。ラジオで「マウント経験談」ならぬ特集を聞いたことがある。マウントと言語化を果たすことで、どれほど不快を認知できるようになり、不幸だと思う人が増えるのだろうかと聞いていて思った。私も、その他の人もマウントと言われるようなことを言ったり、言われたりしてきただろう。しかし、マウントをとられたと思って不快に思うかは人による。そもそも、言葉をそう受け取る、受取がち、受け取ってばかりという傾向のある人はマウント発見機能、不快を見いだす、自己保身的な人物といえるのではなかろうか。同じ言葉を言われても、受け取り方によって快、不快かも変わってくるからである。言論や行為をあまりにも不快に受け取る人を観察者として表現したであろうとして、「ひねくれている」、「気難しい」が挙げられるだろう。

 以上が、マウントという言葉は前述のような受け答えを不快に思った人(観察者側)が作った言葉ではないかと思い、言葉は観察者側がつくっているのではないかと思った経緯である。

 

 「いじめはいじめられた側がそう感じたらいじめなんだよ」という文字に起こしてみると読みにくい一連の表現があるが、いじめは行為をいじめと表現した者がつくった言葉であろうと考えると納得できる。だとすれば、多種多様なハラスメントも同様といえるのではなかろうか。この、行為者の意図が介在しない表現したもん勝ち、受け取ったものの表現が全てのような表現は極端である。不安になって考えを進めていけば、えん罪、故意等はどう証明、判断するのかという話になっていく。ハンナ・アーレントの『人間の条件』からすればそれはしょうがないことといえる。

 人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。しかしその人の肉体的なアイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。その人が「なに」(”what”)であるか――その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥――の暴露とは対照的に、その人が「何者」("who")であるかというこの暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべて暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体(フー)」を扱うことはできないのである。それどころか、確実なのは、他人にはこれほどはっきりとまちがいなく現われる「正体(フー)」が本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシア宗教のダイモンの如きものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の肩を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。

 この言論と活動の暴露的性質は、人びとが他人の犠牲になったり、他人に敵意をもったりする場合ではなく、他人とともにある場合、つまり純粋に人間的共同性におかれている場合は、全面に出てくる。人が行為と言葉において自分自身を暴露するとき、その人はどんな正体を明らかにしているのか自分でもわからないけれども、ともかく暴露の危険を自ら進んで犯していることはまちがいない。

 ハンナ・アレント,2021(1994),『人間の条件』(訳志水速雄),筑摩書房,pp.291-292.

 しょうがないことなのである。ポリティカルコレクトネスやキャンセルカルチャーに裁かれないように、我々はリスク回避か適切に用いる努力か受難を受け入れるしかないのである。(キャンセルカルチャーは聖書の罪を犯したことがないものは石を投げなさい、という話を思い起こす)

 

 さて、最後にアイデンティティの確立の話をして終わりにしたい。

 エリクソンの発達段階説では、青年期の課題はアイデンティティの確立である。アイデンティティの確立というのは自我同一性とも表現する。自我同一性というのは、他者から見た自己、自己から見た自己の「正体(who)」が一致ていることを指す。つまり、アイデンティティの確立の達成は他者から見た自己、自己から見た自己の「正体(who)」を一致させれば課題達成となる。

 ハンナ・アーレントの言葉を使って読者をより混乱させていると思うが、他者から見た「正体(who)」を自分自身が認識することはできないとあるが、できるということにしよう。で、冒頭の表現する側の人は観察者であることの話を思い出せば、我思う故に我思う的に自分自身を客観的に見て表現した自己がある。自分を客観的に見た自己と他者から見た自己が一致すればいいのだ。アイデンティティの確立、自我同一性の実現のキーワードは自己を客観的に認識することである。決して、主観ではない。主観でやったら観察者側(客観)の視点には立てず、決して他者が考える自己認識してるっぽくもならない。

 こんなことを言ってはなんだか、こんなこと青年心理学の先生教えてくれなかった。私的に、最も重要なポイントであるにも関わらずだ。アイデンティティの確立にあたっては、自分自身というものを客観的に見ることが欠かせない、と教えてくれるともう少し青年期の課題を達成しやすくなるのではなかろうか。求めぬものに教えてもしょうがないのかもしれないが。(私は教えられてしまったら気持ち良くなる機会がなくなってしまうので何とも言えない。)

 

 自我同一性の要件は他者の存在であり、他者から見た自己の表現である。自我同一性は、他者との交流から生まれうる他者から見た素直表現を知らなければ、また自己と他者比較をしていなければ容易ではない。また、自己受容がないと捗らないと言い添えておく。

 

 最後にどうでもいい話を一つ。

 私は、クラスメイトや友人、面接官に、「○○さんはユニークな人だね(30分程度)」、「○○さんって変わってるね」、「○○さんが個性的なのはよくわかりました(15分間程度)」、「○○って珍獣だよね」などと言われたことがある。

 こう言われてきて気づいたのは、このように表現する人たちは「人と違う」ということ以上に何も言語化していないことだ。嘲笑するためにいっているのならば、優しいか言語化能力が乏しいのだろう。今度、そう言われたときは「どこが、なぜ」と問うてみよう。兎にも角にも、「変わっている」ということについて咎めはしないが、どういった人物なのかを「人と違う」レベルにしか言語化できていない、していないことには気づいて欲しい。それとも、ただそれだけを自覚させたいと受け取るべきか。

 お互い、自己がわかっていないようなので、信頼関係に応じて適切に表現し合おうか。(笑)

 

本文は以上になります。

 

最後になりましたが、

新年あけましておめでとうございます。

皆さんの2023年ウサギ年が

兎のごとく飛躍できる年であるよう

兎のごとく孤独死しないよう

脱兎のごとく危険回避できる年であるよう

保育園時代のマークがうさぎだった私が月に祈っておきます

遅くなりましたが、

引き続き、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

 

 

では、今回はこの辺で失礼いたします。最後まで読んでいただきありがとうございました。

雑談 ~人間関係形成維持能力~

 よく就活でコミュニケーション能力を求められたり、売りにしている人がいる。ただ、コミュニケーション能力といってもよくわからない。アバウトすぎる。

 というわけで、今回の記事ではコミュニケーション能力について考えていく。

 

 コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを成立させるものである。コミュニケーションというのは、二人以上の人同士で発生するものである。必ずしもずっと一緒にいる必要はないが、一人でいる時間が多ければ多いほどコミュニケーションはなく、つまりコミュニケーション能力も必要なくなってくる。

 ちょっと脱線する。人は1人で生きてけないので、人には必ずコミュニケーション能力が必要となってくる。だとしたら、なぜ人は1人で生きていけない、いけなかったのだろうか。1人で生きていけない人が人類の大半なのだろうか。睡眠、食事というコンスタントに取らなければならない必然などを、食事がとれなかったり、病気や気象といった環境のリスクに対処するのは1人では難しいからだと考えられる。そもそも、生殖は二人がかりというのもあるが。

 話を戻して、人は1人では生きてはいけないから、コミュニケーション能力が欠かせない。極端に言えば、文明が発達する以前は1人になったらコミュニケーション能力がない死を意味するに近いといっても過言ではないだろう。コミュニケーションは二人以上の中で生じる行為である。だから、何かしら人に接するときを線で説明できるのではなかろうか。

 というわけで、図を作ってみた。休日の空想の4人家族で考えてみよう。図の見方は、1人につき一本の線を持っている。誰かと一緒にいた場合は線は交わり重なりあい一本の線になる。

誰かと一緒にいた、いなかった時間の図

 図の説明をしたい。父は10時に起き、母が11時に起きてきたので二本の線は一本になる。12時から第一子も起きてきたので、交わる。しかし、12時からは、父と母は1人ずつになり一本ずつになる。第一子は自動的に一人になるが、ここでやっと第二子が起きてきて二本の線が一本に交わる。

 この重なり合い(一緒にいる時間)は、一緒にいる時間がストレスと思い続ければ減る一方だし、何も思わなければ代わり映えしないだろう。(そして、誰とどの場に集まっているのかでその人の人間関係ともいえる。場所まで記載できれば、リフォームやマイホームときにどこに金をかけるのかの良い指標になるだろう)「家族との時間を大切にしたい」という人はこの線を交うように図が変わっていなければ、口だけの人となるのだ。コロナ禍で、みんなが在宅でみんながずっとリビングにいれば線は寝てたり、風呂やトイレ以外一本になるのだ。

 一緒にいる時間、すなわち図において一本に交わっているときこそコミュニケーションがものをいうのである。ストレスか気にならないかはお互いの気遣い、意思疎通、合意形成、関係性や好き嫌い、常識など、コミュニケーションがものをいうのだ。一本の線、一緒にいる時間と言っても一緒にいるだけ、お話しするだけ、共同作業や映画、ご飯を食べるなど多種多様な活動内容があり、それに相応しいコミュニケーションが望ましいだろう。気になるが続き、指摘しないくせに、そして治らず永遠と気になるようならそれはストレスになっていき、できるだけ線が交わらない、つまり一緒にいる時間が減るようになるし、なっているはずだ。

 したがって、誰かと一緒にいる時間が少なく、かつ容易に増やすことができない状態にいる人は、コミュニケーションが好きでなかったり、1人でいる時間が好きだったりすることによって誰かと一緒にいる時間が少なく、所属しているコミュニティーが少なかったり、人との関係性の気づき方が微妙で友人や知人といった容易に会える人がいなかったり、予定を組むのを億劫に感じる人はコミュニケーション能力が低いといって問題ないと私は考える。つまり、人との交流を忌避したり、人との交流を増やそうと思っても臨んだ結果が得られないことが続く人(人間関係を形成できない人、忌避される側)をコミュニケーション能力が低いといえそうである。

 裏を返せば、人との交流を忌避はしていない人、人との交流を増やそうと思えば容易に増やせる人(人と交流するとき忌避されない人)がコミュニケーション能力が高い、もしくはいい具合に人間関係を形成できている、よいコミュニティーに所属できているといえる。

 私がコミュニケーションをとれた、盛り上がったかの指標は、声を発し、応答がどうであったかによる。意志の疎通ができ、問題なくやりとりをしている中で、価値観や興味の合致がどこまでいったかや希少性、重要性で、やりとりの往復回数が左右される。事前情報があったりするとなおスムーズにいく。ただ、早口だとコミュニケーションの往復回数が上がる可能性が高いが、早口になれていないと相手がついてこれないことが多い。声が大きいのもあまりよくない。会話のテンポがかなり違うとコミュニケーションは続かない。交流を忌避している合図に捉えかねないのは、内容がわかっていないのに質問してないのがばれる、聞いてないのがばれる、会話を促進するわけでもない相槌や質問への「知らない」「わからない」のみの反応や、反応しない(いわゆる無視)があげられる。実はスマホや過度な聞き返しもあまりよくない。コミュニケーションを上手くやるにあたって自分ではどうしようもない要因としては、接着材の役割を果たす人がいるかどうか、時間的制限、環境的制限、運、相手の価値観、自分の無意識の価値観があげられる。

 ただ、一番重要なのは、交流することがストレスならない、一緒にいることが気にならない人間関係やコミュニティーはお互いの気遣い、意思疎通、合意形成、実行といったそれこそコミュニケーションによって成立し、維持されるということである。それには勇気や寛容さといった心理的安全性(たまには意見を飲むとか改善されるとか)、合意を実行する誠実性、失敗や猶予といった一定の忍耐力や妥協と余白が必要だろう。多分、公平さも重要になってくる。ルールとして掲げると場の雰囲気が壊しかねない、厳重なルールという息苦しさ生むため、どこまで明示するかはその人やコミュニティーに所属する人の常識に相当左右されるの言うまでもない。

 まとめとしては、コミュニケーション能力の日本語訳は人間関係形成維持能力といえる。私は、そう捉えたい。

 

終わりに

 私は、コミュニケーションという行為そのものを好み、興味関心があるため、関係を維持するためにある程度の柔軟性は持ち合わせている。それすなわち、どんなに経済的に自立していようと、能力的にも自立していようと他者と関わるということでもある。だが、人と関わる上で個人由来の情報取得は欠かせないものではない。だから、「私自身に興味関心があって欲しい」というのが、交流する条件にある人には、もしくは無意識にある人とは交流が続かない、途絶えやすいように思う。そして、かなりの人が無意識にそうだと私は想定しているため、人間関係の形成は難航しそうだ。

 代替え案は、自己紹介の際は交流がはずみそうなこと(関連性を見いだせそうなこと)を自己紹介に盛り込む(だから、最初は避けたい)。もしくは、相手が情報提供できそうな「○○に興味関心があるので、知っている方は教えてください」とかいう。そうすると、自分の情報を提供することが可能だ。

 コミュニケーション能力高い人の話を聞いたところ、抽象化と具体化、経験を適切にやっていくとのことだ。

 「趣味はダンスです」と言われたら、「ダンス好きなんですね。どんなダンスが好きなんですか?」、「K-popが好きです」と言われたら「韓国アイドルの影響でダンス始めたんですか?」

 と言った感じで、場にいる人が話にはいれるように話を具体的ではなく、抽象的ではなく拡大方向で話を広げるとよいらしい。もちろん、同じものが好きというメンバーが集まったら具体的なことを話すと言っていた。私も無意識にそういった話の運び方をしたことはあるだろうが自覚しておらず、だいたい自己紹介をされたら無反応か詳細、理由を聞くという選択肢しかなかったのでぜひ取り入れたい。

 まとめると、ジャンル、きっかけ(いつから)、頻度、最近は何がいいのか、団体競技なら誰と、時事ニュースに関連させて、ご意見をもらうと良さそう。

 そして、周りを見習いたいですね。ちなみに、「ダンス好きです」「ダンス好きなんですね」と一回同じことを繰り返すというのは、見習ったことである。

 最後に、現代の論点としては、どのようなチャンネルで伝えるかである。SNSか手書か、電話か、直接か、誰かを挟むか、匿名か記名といった選択肢があげられる。しかし、今回は、というか、コミュニケーションをとるといったら対面であるため触れなかった。そのため、人間関係形成維持能力における適切なチャンネルの使い方については今後の課題といえる。

 

 

 

以上が今回の記事となります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録 「面白い話をしたい」

間にあるという意味を持つinterestというのは、

interesting 興味深い、面白い

interest 金利、利子

interested in 興味関心がある

という風になる。

自分自身、interestingな話が好きだったり、interestといった金利、利子

に興味があったりとこの関連性が面白い。

私は間が好きなのかと。

人間というのは「人〇人」人と人の間に存在するからというのが

人間という語彙の語源と聞いたことがある。

ここにも何だか面白さを感じた。

さらに言えば、私は家の窓の数やの大きさに興味関心が最近あるが、

これも間取りかと一人であまりの間に関心に笑ってしまった。

時間も時と時の間にあるから時間と実に面白い。

知識の関連付けして面白がるinterestingも感覚としては、

間を探すといった、知識と知識の間(あいだ)に入っている感じで、

ここでも間かと思っている。

間に興味がある今日この頃である。

 

間に関連して一つ、間というのは長さを表す単位だったそうだ。

はじめてできた日本地図は飯野忠孝が江戸時代につくったものである。

人工衛星がないなか、その正確さは驚くほどである。

確か足を使って測られたものだ。

一尺など尺貫法は体由来が多いが、その正確さは度肝を抜く。

ちなみに、天保時代に完成した太陰太陽暦というのは

グレゴリオ暦の太陽年よりも誤差がないそうだ。

測るということにおいて、日本は優れているようである。

ちなみに、キーエンスという現在日本を代表する企業は

測定機器が主要な製品である。