自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~ミヒャエル・エンデ『モモ』part.2~

 たまに、「モモが持っているもの(能力)は何か?」というのを考えていました。2年越しではありますが、ようやく当てはまりそうなものが見つかったので、その内容を話したいと思います。

 

 ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場するメインキャラクターであるモモには、人の話が聞ける能力があると説明されています。

 小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

 でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこの点でモモは、それこそほかに例のないすばらしい才能をもっていたのです。

 モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅううにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、というわけではありません。彼女はただじっと注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、自分のどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。

・・・・・・。たとえば、こう考えているひとがいたとします。おれの人生は失敗で、なの意味もない、おれはなん千万もの人間の中のケチな一人で、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所ををふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところにでかけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことに自分がまちがっていたことがわかってくるのです。しや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中でたいせつな存在なんだ。

 こういうふうにモモは人の話がきけたのです!

 

引用:ミヒャエル・エンデ,『モモ 時間どろぼうと盗まれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語』(訳大島かおり),岩波書店.

 さて、長すぎる引用を読んでもらったところで、時間どろぼうが奪っていた時間とは何の時間であったのか考えてみましょう。

 時間どろぼうが奪っていった時間というのは、自分自身である時間でありますが、自分自身である時間というのは言い換えてみれば、私的な時間、つまりプライベートの時間であります。

 私的と公的を考えるのが上手くいかない年齢群がいると思いますね。例えば、

幼児、未就学児、小学生、中学生あたありは公的な場からかけはなれています。日本の大学進学までの人々を考えると、おそらく人によるものの22歳あたりまでは綺麗な公的と私的のスペクトラムが描けると考えられます。

 何が言いたいかというと、幼いほど私的しか知らず、22歳に近づくにつれて公的を意識することができるというわけです。

 公的な場というのはわかりやすく、プライベート以外と考えましょう。さて、公的な

場といのは、様々な慣例、マナー、暗黙の了解といったものが存在します。公的な場で求められるマナーとして話題選び、服装、口調、礼儀などがありますね。私的な場、自分自身しかいない場、家族、友人といった他人がはいってくるとどんどんマナーが求められてきます。

 公的な場と違い、自分自身でいることが許されるのは、プライベート(私的な場、時間)です。この対比ができてはじめて、自分自身であることができない人はプライベートがないことだという風にとらえられます。要するに、時間泥棒が奪っていったのは、寿命が短くなったとかいうそういう時間ではなく、プライベートな時間というわけです。

 それが分かった上で、いくつか比較できる文章を引用したいと思います。

 ・・・・・・、ジジはモモに言いました。「でもな、ちっとばかりいいくらしをするために、いのちもたましいも売りわたしちまったやつらを見ろよ!おれはいやだな、そんなやり方は。たとえば一ぱいのコーヒー代にことかくことがあっても——ジジはやっぱジジのままでいたよいよ!」

引用:同上.

 

「やりますとも!」とフージー氏はさけびました。「どうすればいいかおしえてください!」

 「おやおや、」と外交員は言って、まゆをつりあげました。「時間の倹約のしかたくらい、おわかりでしょうに!たとえばですよ、仕事はさっさとやって、よけいなことはすっかりyめちまうんですよ。ひとりのお客に半時間もかけないで、十五分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日にまる一時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!ダリア嬢の訪問はどうしてもというのなら、せめて二週間に一度にすればいい。寝るまえに十五分もそのひのことを考えるのもやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だちづきあいだのに、貴重な時間をこんなにつかうのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きいと経路かけろといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんでな。」

 ・・・・・・。

 「安心しておまかせください。」お言って、外交員は立ちあがりました。「これであなたは、時間貯蓄者組合の新しい会員になられたわけです。あなたはいまや、ほんとうに近代的、進歩的な人間のなかまに入られましたのです、フージーさん。おめでとう!」

※強調は原文にはない

引用:同上

 

 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気づいていないようでした。じぶんたちの生活がひごとにまずしくな、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。

 でも、それをはっきり感じはひめたのは、こどもたちでした。というのは、子どもと遊んでくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。

 けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。

 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。

引用:同上

 今回は、掃除夫ベッポの仕事へのこだわりに触れていないので、近代的労働と近代以前の労働の違いや、公的と私的の対比について説明できておらず論の整合性にほころびがあり申し訳ない。

 

 プライベートな時間がない人は自分自身でいることはできない。なぜなら、公的な場では様々なマナーが求められるため、場にふさわしくあることが求められるからだ。公的と私的は、表裏一体であり、この境界がはっきりしていればいるほど息抜きが必要となり、私的な面の重要性がおびる。公的と私的の境界があいまいになる、そもそも境界を意識することができなければ、プライベートに公的がじんわりとだが、侵食してくる。

 大変面白いのが、ドイツやフランスなどの学校の教員の労働を日本の学校教員の労働と比較するときに、明白に違うのは彼らのバケーションや放課後の違いである。ドイツやフランスだとバケーションも放課後も先生に連絡してもつながらないのに、日本の教員にはつながり、さらに言えば放課後は部活動の顧問もやっている。この違いは、プライベートと仕事の境界線がはっきりしているからではなかろうか。

 ドイツやフランスといったヨーロッパ系は、フランス革命により近代化を意識することが可能で、私的や公的という意識が埋め込まれ、さらには「労働は悪だ」的な概念を持っている。

 一方で、この公的と私的の意識、労働の概念は日本には根付いておらす、プライベートや公的の両方が侵食され境界が曖昧になっていってる。就活や新社会人たちが最近よく使う「ワークライフバランス」という言葉は、まさしく私的と公的のバランスをとろうとしているかのようだ。だが、今日の日本は、もう経済成長率は2%には到達せず、一人当たりGDPは低く、企業は副業まで推奨するようになってきた。副業とは、すなわち、労働時間を増やし、プライベートをより切り詰めるということである。彼らが使うワークライフバランスには、プライベートと公的の境界が見えないし、出生率が低いことを鑑みたり、東京一極集中を踏まえると一人暮らしが増えていること考えれば、彼らは本当に一人でいる時間を求めているのではないかという気さえする。一人でいたいと思うほどに、疲れ切っていることなのか。それなら、まだ、近代以前の日本的な勤労の価値観の方がよかったのではないのか。

 過去日本に、私的と公的と労働の価値観を持ち込んだはいいものの、それを意識することができない日本人は、まさしく、時間泥棒にプライベートという時間を奪われ、公的な場を曖昧され、お互いが侵食しあっているのではないだろうか。

 

 最後に、モモのもっているもの(能力)、人に関心を示す能力、及びそれを意識できるプライベートな時間の確保といえよう。恥ずかしながら最近知ったことだが、人に関心をもつことができるのは、人をひきつける資質の一つだそうだ。

 確かにプライベートになれば、私たちは自分自身であれるのかもしれない。プライベートという意識に切り替えるためには、モモのようなプライベートに関心向けるような人がいたほうがよさそう。

 

※「自分自身である」というのをわかりやすく言うならば、目的や手段の意思決定、全てにおいて自分の価値観が尊重が前提とされるところであり、かつ自己中心的が問題視されないところ、と私なら表現する。逆に言えば、公的な場というのは目的や手段の意思決定において自分の価値観は尊重されず、かつ自己中心的は全く歓迎されていないところといえる。そう考えると、公的に私的を持ち込まないことを目指していた近代以前と、公的に私的が入り込むすきがある近代というのは、非常に対照的といえよう。

 

 

以上になります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

よかったらどうぞ。

 

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付録

神という概念がないと、絶対とか、完璧とかを諦められない人になりそうだなと思います。神ではないから完璧などありえない、という限界と妥協の意識って必要だと思いますね。