自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

大学の課題 ~自然観察を通してわかった地域の魅力と課題~

 久しぶりに、ネットにあげても良さそうなレポートができあがったので、編集しなおしたものをご紹介します。場所は、どっかの大学の近くです。

(今更ですが、大学の課題のほとんどは、具体的なテーマが決められていて文章を考えてくるとかではなくて、テーマも自分で考えています。誤解なきように。)

 

 

大学のレポート

 地域の魅力である「コンパクトに色んな環境、色んな生物がいる」ことと、魅力に気づいたきっかけを最初に述べます。次に、地域の課題を論じます。

 

「地域の魅力」 

 調査を実施して、地域の魅力は、「コンパクトに色んな環境があり、色んな生物がいる」ことだと思いました。この魅力に気づいたきっかけは、川での水生生物調査と地域の陸上生物を調査し把握することで、この魅力に気づきました。

 特に注目したのは、トンボの幼虫であるヤゴとマメコガネです。

 トンボとそのヤゴは川とそれ以外の場所で見つけることができました。トンボとそのヤゴは表1の通り場所(環境)によって種が違いました。川ではサナエヤンマとコオニヤンマの2種、田んぼでは5種、小川の近い山ではコオニヤンマの成虫が見つかりました。トンボとそのヤゴをきっかけに、環境によってトンボの種も違うことがわかりました。この点から、ある地域には色んな環境があることによって、色んな種がいることがわかり、トンボの幼虫が育つ水辺の環境も、トンボの成虫は肉食であることから、トンボの食料も十分にある環境も地域にあるということがわかりました。

場所(環境)

田んぼ

トンボの種

コオニヤンマ

(ヤゴ)

サナエヤンマ

(ヤゴ)

オオシオカラトンボ

オニヤンマ

ハラビロトンボ

シオヤトンボ

(ヤゴ)

ノシメトンボ

コオニヤンマ

(成虫)

表1:生息場所と見つかるトンボの違い[1]

 

 私が、地域の「コンパクトに色んな環境があって、色んな生物がいる」という魅力に気づけたきっかけは、生物の採集と川の生物調査でした。

 気づいたきっかけは、フィールドワークで実施した定点観測です。内容は、植物の採集か生物を捕獲してきて、とってきた生物をスケッチし、図鑑で種名を調べるというものです。ただ単に、最初に見つけた生物をスケッチするのではなく、派手だったり、興味深かったりするものをスケッチの対象をどれにするかこだわってスケッチする生物を選びました。その過程は、たくさん見た生物の中からスケッチする生物を取捨選択する過程は、広義に環境観察を行っていたといえるでしょう。

 観察する中で、生物がたかっている植物がいることを発見しました。ヤブミョウガにたかる昆虫の中で特に注目したのは、甲虫目のマメコガネです。理由は、ヤブミョウガで交尾をしていたからです。調べてみると、北米ではジャパニーズビートルズという名で害虫として名を馳せていましたが、日本では、マメコガネにはたくさんの天敵がいるため害虫扱いされていないことがわかりました。代表的なのは、マメコガネヤドリバエ、マメコガネコツチバチで、その他にもスズメバチなどが天敵にいます。欧米とは違い、日本では天敵がいるおかげでマメコガネによる農作物被害が深刻ではないのです。

 そのため、地域の農作物や農家にとっては、害虫の天敵がいる環境があることが地域の魅力といえます。もし地域から、こういったマメコガネの天敵がいなくなってしまったら、マメコガネは農作物を襲う害虫として扱われてしまうかもしれません。それに加え、殺虫剤の積極的な使用が検討されるかもしれません。農薬の被害の想定は完璧ということはありえませんので、害虫になり得るマメコガネの天敵の駆除も同時にしてしまうかもしれません。そういう可能性を考えると、農地の近くには、害虫の天敵が住めるような環境が必要と言えるため魅力といえるでしょう。少なくとも、マメコガネの天敵が住めるような環境がなくなると、マメコガネは害虫として猛威を振るうことが予想されます。

 

「地域の課題」

 最初に地域の課題のひとつとして「コンパクトに色んな環境があり、色んな生物がいることを人々が知らない」ことがあげられます。

魅力を知らない人が気づくためには

 地域の魅力である「コンパクトに色んな環境があり、色んな生物がいる」ことがあげられます。これに知らない人が気づくようにするためには、この魅力を気づけるような知らない人が参加したくなるプログラムを提案していけるかが、今後の課題といえます。

 私が地域の魅力に気づいたきっかけは、虫取りや川での生物の採集によってです。ただ、虫をとるのではなく、常に新しい生物を発見するとか、虫取り大会とかをやるとか、何か他の種はいないかと環境を観察するようなプログラムを組むことが大切と思われます。

 任天堂の「どうぶつの森」旗振りに自然保護や教育を実践すれば、子どもはもちろんのこと、30代の大人でも惹きつけられるプログラムになると考えます。都会で昆虫採集等ができない子どもであっても、任天堂の「どうぶつの森」というゲームソフトでアドんだ経験があれば、昆虫をはじめとした生物の名前や外観を覚えているだろうと想定されます。ゲームを通して養った生物種の把握という下地が自然保護や教育に活かせると考えたため、ゲームを旗振りにしたプログラムの実践を思いつきました。

 

 次に地域の魅力と限界について述べます。

 コンパクトに多様な環境があって、多様な生物がいるのが地域の魅力ではありますが、規模が小さいため個体生息域が広い生物を養える土地とは言い難いです。その他のコンパクトさのデメリットは、環境を多様にするにも、一種類の環境につき一定の規模が必要であるため、多様な環境を用意しようにもコンパクトという限界がつきまといます。

 最後に「都会の自然は陸の孤島」という課題について述べます。

 多くの種が気候変動によって移動が予想されますが、行動の機敏さは種によって異なり、また移動途中に障害が現れることも予想されています。生物が気候変動で物理的に移動できないであろう環境は、孤島、湖、高山地帯があげられます。植物に限定するなど、見方によっては住宅地に囲まれた都会の自然も陸の孤島と含めて良いでしょう。住宅地に囲まれた緑地を陸の孤島と表現した場合、谷戸にいる生物種や、川や道路に囲まれた公園の植物たちは気候変動があっても移動ができないため、管理移転も想定する必要があると考えます。 

 

 以上が、地域の魅力ときづいたきっかけ、そして地域の課題と限界です。

 

[1] 調査資料提供:学生

 

自然観察を活かして害虫を駆除する

 家の中に、ショウジョウバエ等の、いわゆるコバエが発生が続きました。原因と推定したものを何度も、何度も排除したがコバエが発生が続きました。コバエの嫌なところは、一匹のコバエが飛んでいると思いきや数匹いるところです。

 さて、罠(コバエホイホイ)をしかけるため、発生源を探すのではなく、コバエの観察を行い、コバエが集まっているところ探しました。コバエの観察を行った結果、室内にいる蝿が目線よりも高いところにいることに気づいたのです。そこから、室内ではクーラーをつけているため、コバエたちはより良い環境、つまり高い温度の環境を求めて、高いところにいると考えまして、舞い上がらせるために扇風機を移動させて冷たい空気が上にいくようにしました。

 コバエが集まるところに罠(コバエホイホイ)を設置するためにコバエの観察を続けていたら、交尾をしているコバエたちを発見しました。以前、交尾をしているマメコガネを発見できたことをふと思い出しました。恐らく、交尾中は二匹の生物がくっつくことで通常より対象が大きくなり、活動が活発ではないため見つけやすくなる。この二つの特徴が交尾に伴い現れるため、人間が見つけやすくなるのでしょう。

 交尾中の生物を見つけることは、一匹の生物を見つけるよりも容易です。気のせいかもしれないですが、交尾中の生物を見つけると、他にも交尾をしている同種の生物を見つけることができる。今回のコバエの場合は、すぐ真下にコバエが住み着いてることを発見し、駆除ができました。(やったね!)

 コバエが住み着いてた場所は、汁がでるほど腐敗していると考えられる薩摩芋にたかっていたのです。人間には嗅ぎ分けられない匂いで、薩摩芋の腐敗に気づかず、コバエの繁殖に気づけなかったのだと考えられます。実は、コバエはコバエでもたかっている蝿が違いました。皆さんも、どうぞ、自分や家族が芋ほりで持って帰ってきた芋を放置しないようにお気をつけください。

 以上の経験から、生物の観察にあたっては、そもそも発生時期はいつで、発生時期といない時期の環境の違いを考え、生物の好む場所を推定するとよいことがわかりました。

 

終わりに

 さて、最近、社会学の本を1冊読み終え、2冊目を読んでいるところです。実のところ、「人間は複雑で難しいし、心なんて心理学の臨床研究とかしないといけないわけでしょ、昆虫の方が観察が楽でいいし、自分害虫の駆除に向いてる気がする。マメコガネの駆除の仕組みとか、つくればもうかるし」なんて、思ってしまったわけですが、二冊目に入って、社会を環境と読み替えて人間の行動変異を分析すれば、もう少し複雑な人間とその社会を捉えやすくなりそうだなとも思いました。

 ただ、捕まえた昆虫の食性を文献で調べた限り、全くと言っていいほど情報がありませんでした。そのため、仕方なく情報が豊富であろう害虫を調べてレポートにしたといういきさつです。悲しいことに、昆虫と疫学を比較してわかったのは、人間は人間自身と人間に関連することばかりに異常に詳しい。人間は、何を食べれば健康になるか、どの程度の運動が必要かとかある程度わかっていますが、昆虫は食性すら不明なものが恐らくほとんどです。驚くべき、興味関心の偏り。もし地球外生命体が人間を駆除したいと思って、英語なんて読めたら効率よくヒトを駆除できるでしょうね。

 今の小学生はネット万能説を抱いているでしょうが、ヒトと人間関連のことはネットに豊富に情報がありますが、ヒト以外のヒトと関連しないことは、自分で調査するしかないぐらい情報がないのが現実です。逆に言えば、分野によってはデータを探すよりも自分で一次情報を獲得する方が早いとという、急がば回れなりたつ分野も存在します。

 おまけですけど、グループワークで設定したテーマが変えられず、文献がなくてもデータを自分で集める必要があったため粘り強く調べたところ、図書館には強みと弱みがあることがわかりました。私の大学は、昆虫図鑑は確かにありますが、自分の市区町村の図書館には昆虫図鑑に加えて害虫図鑑もありました。大学の図書館の蔵書数は、市区町村の図書館に比べ倍近くあるにも関わらず、害虫図鑑すらなく落胆さえしました。新書で蔵書数を稼いでいるんじゃなかろうかと勘繰りたくなります。そう考えると蔵書数も大事ですが、どんな蔵書があるのかも重要ですね。今後は図書館の使い分けを検討してみます。

 今回、図書館司書の人に本を探すのを手伝ってもらうのは2回目でした。内容にもよりますが、枝豆の起源やマメコガネの食性に関して言えば、本や情報の検索技術に関しては頼る必要がないのかなと思いました。本を探している感覚からいえば、キーワードの関連付け、学問等の分類で形作られる知の体系化を伴う、図書館の蔵書のアクセスの熟達が、図書館司書に必要な資質の大部分を占めている考えます。

 そう考えてみると、人類が継承してきた知というのは、知の継承も大切であり、知の探究の技術(研究方法)も大切であり、過去の埋もれた知にいきつく技術も大切そうですね。図書館司書という資格取得のための講義にどのような内容が含まれているかは知りませんが、資格という枠組みも必要でしょうが、少なくとも蔵書にアクセスに熟達している人が、図書館カウンターにいて欲しいところではあります。

 厳しくなりますが、図書館カウンターにいる図書館司書は、日本みたいな単一言語が進んでいるかつ、邦訳を頑張っている国の図書館だから日本語でいいでしょうが、多分、カナダとか公用語2か国語とかになると、フランス語と英語を使いこなす国の図書館司書もおり、情報量が違うため、情報のアクセス能力もより求められるでしょうね。以上のことから、図書館司書の能力は、人によって実は雲泥の差ともいるような差があると予想できます。図書館に強みがあるように、図書館司書にも強みがあるでしょうから、蔵書が充実している図書館には、もしかしたら複数人の司書がいるのかもしれませんね。想像すると、ロマンが広がっています。

 

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。よかったら、付録もどうぞ。

 

付録1

 子どもとは言えない年齢になりまして、市区町村の情報誌で市区町村をはじめ団体などが主催する体験教室を見ていると、自分が興味関心を持つのは対象年齢が子どもばかりで、小さい頃に市区町村の情報誌とか見ていればなんて、切なく感じました。(実際のところは、参加ではなく、個人で行動すればいい話ですけどね。ただ、大人は金を出して自分で動けと公共団体が主張するのはお門違いだ。)

 なんで、あんまいない子どもを対象にしてばかりなんだ、大人の部門も欲しいなんて批判したところで「大人は自分の意思とお金で行ってください」と言われたらそれまでで。けれども、子どもに自然教育とかしたいなら、子どもと関わる大人へのアプローチも大切と思うわけですよ。

 そもそも、18歳ぐらいまでが大体対象で、18歳というのは時間が限られている。それでも、「多様な体験を子どもにさせたい」とするのは機会を限定し過ぎではないだろうか。子どもは確かに、可能性に満ち溢れているように見えるし、反応がいいから、機会を与えたくなるのもわからなくはない。だが、子どもにしか夢や可能性がないと思うのは違うんじゃないかな。大人でもいいじゃんか、日本社会は大人ばっかりなんだし。母数の少ない子ども、権力もない子どもにしか社会変革はできないとか思っていたり、子どもが社会を変えてくれていると期待していると痛い目あうぞと、言いたいところではある。子どもへの過度な期待という一辺倒になっている。社会を構成する子どもではない年齢への期待を怠るっているように思う。対象者の偏りに注目して欲しい。

 が、環境ともいえるような有形無像ともいえるような社会に、個人に言っているような感覚を求めて発言することはできないのもまた事実。

 教育しか、社会の在り方を変える手段はないという伝家の宝刀的な考え方ではなく、「社会の在り方を変えるのに教育は良いカードだが、少子化だし、年功序列で権力もない子どもの社会への影響は小さいとすれば、どうするか」と社会の状態に応じて発想を切り替えて欲しいところである。

 

付録2

 ヨシタケシンスケという絵本作家の絵本は、子ども向けというよりは、子どもに読み聞かせる大人に向けたメッセージが多いように思う。分かり易く言えば、ヨシタケシンスケの絵本は大人ウケがいい、もしくは大人ウケもいい絵本が多いと表現できる。絵柄や内容が好きなので、大人である自分で買ったことすらある。だが、子どもには抽象的で内容が難しいのではないだろうかと思う。子ども向けの絵本は、大人が読んだら全然面白くないし、今思えばなんで昔は面白いと思ったのかも思い出せないぐらい、読み物としては内容がない。ヨシタケシンスケの絵本は、子ども向けなはずなのに、大人ウケもいいだろう内容が多く、読者層の人物像の射程に子どもに読み聞かせる側の大人も置いている感が透ける。買うのは大人なのだから仕方がない。だがしかし、親曰く、子どもに買ってあげる絵本が自分の趣向に偏らないように気をつけてたといっていたことを鑑みるて、ヨシタケシンスケの絵本の売れ行きを考えると今の親たちがどう考えているのはわからない。形成されるきっかけがわからずとも、子どもの好み、「これ読んで」が尊重もされた読み聞かせが実現されていることを望みたい。

 話を戻して、ヨシタケシンスケが意図的に子どもに読み聞かせる大人を想定して絵本の内容を考えているかは別として、マーケティング手法の一つには、子どもと一緒にいる大人も想定しているものもある。

 

付録3

 選択問題と論文試験の違いは、個人の論理的な意見の表明の余地があるかないかである。選択問題は選択肢を作った側の意図によるので、ここでは割愛する。個人の論理的な意見の表明というのは、説明責任を果たす上で大切だ。持論を論理的に述べる訓練にもなる。

 予備校と大学の違いは、予備校は試験に受かるか、わからないをなくすために教えてもらう場で問いが閉鎖的になりがちだ。それに対し、大学は好奇心に身を任せて関連する項目を質問してもよく、問いが開放的である。そこから個人が把握している情報、興味関心が伺え、中々面白かったりする。