自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

私たちは『自由』という言葉にどのようなイメージをに思い浮かべるのか

 メッセージを伝える側と、受け取る側、それを見ている側、立場によって言葉の使い方、捉え方が違うため、言葉を受け取る側という立場でタイトルを考えた。

「私たちは、『自由』にどのようなイメージを思い浮かべるのか」である。

 

 仮に、メッセージを伝える側だとしたら、「人々は『自由』にどのような印象を持つか」といったようになる。

 

 さて、この前、数日間の間に家族と先生に、「あなたは、どんな時に喜びを感じる?」「あならは、どんな時に幸せを感じる?」と似た感じの質問をされた。そのときに、答えたのは開放的に感じるとき、と答えたように思う。

 確か、ちょっと前に不動産のことが頭によぎっていた。不動産は自然的特性として地理的位置の固定性という特性がある。そのため、また、浮いていないので、不動産は自然環境の影響を必ず受ける。だから、不動産のあり方を考えるときは、地盤、流域、気象、火山といった環境、地学を学ぶともっとよくわかる。地学と関連のある学問と言えば地理がある。地理を授業で学んだことがないので、何だが、地理は特産物等がわかるはずだろうから、それがわかればさらに経済、戦争、古代遺跡などがわかりはじめる。それがわかってくると、技術、例えば道、馬車、船、航海、航空、鉄道といった運搬技術、さらには物理学が生活に影響を与えてきことがわかる。また、農耕、家畜化等も相まって都市(不動産のあり方)の形成、維持、発展を後押しすることがわかる。

 

 啓蒙と若干似ている気がしなくもないが、こういったある視点が手に入った途端に情報が繋がり、何かが「ただそこにある」というのではなく、情報化し、予測が可能となり、可能であれば検証もできるというのを、開放的に感じる。視野が広がると一般的に表現するかもしれないが、視野が広がるも開放感と類似しているといって差し支えないだろう。

 また、開放感のあるときというのは、束縛がないこと、連想、選択肢にひろがりがあることとも言い換えられる。というか、実感がある。どうでもいいが、テラス席や窓が大きいこと、風の通り抜けがいいこと、などが開放感を感じられるときの例としてあげられたりもする。

 

 さて、話を戻して、「『自由』にどのようなイメージを思い浮かべるか」と問いかけれられれば、私は開放的・解放的に感じる時といえる。自由は束縛と対比が可能と考えるなら、開放・解放と閉鎖・束縛と言い換えるは強引とは言い難い。

 

 これまで、「自由とは不自由でないこと」といった、神を定義するようなことと同じことをやってきた。

 イメージは変容するとしても、自由と言われたとき、私たちはどのようなイメージを「自由」という言葉に思い浮かべるのかから考える、という視点に注目するのは悪くない。

 

 そうすることで、なぜ自由はキャッチ―なのか、人々を惹きつける言葉なのかというのが若干わかるのではないだろうか。

 「自由とは何か」と考えたときに、自分勝手ではないし、「不自由でない」ことも曖昧さと、言葉遊びのような妥協さえ感じられる。神を否定して定義を試みるような、曖昧さである。一方で、自由を開放的・解放的と捉えるならば、現状に当てはまっているといえるのではないだろうか。〇〇感に直すと体験至上主義と揶揄されかねないという側面もあるが。

 自分勝手にしたいのではなく、開放・解放を自由に期待しているだけであるなら、まだ、対立の可能性が薄まる。

 

 自由ときいていい印象、期待をもつか、もたないか。

 なんでもしていい、というならなぜ、なんでもしていいを歓迎するのか。

 

 人によっては、例えば、「自分の好きに車を選んでいい」と言われただけで喜ぶ人がいる。これは、実際は自分の好きに車を選ばず、家族の意見を結局はくみ取ろうとするにも関わらず、意志決定の権限を了承されただけで喜ぶのだ。 

 なんでもしていい、という意思決定の権限の了承が明示されたと思った瞬間になんだか喜ばしい気分になるというのは、少し不思議である。不満がなければ、実際に自分が選択してなかろうが、嬉しい気分のままであるのだ。

 ただし、「今日の夜ご飯、何食べたい?」と言われても、あまり嬉しくなく、意志決定の権限が与えられても常に歓迎しない人もいることも事実である。

 

 私は、「自由」という言葉があると、なんだか開放感がある。「なんでもして良さそうだぞ、ウキウキ」といった感じだ。一方で、実は、ルールがあるといわれただけで、気分が下がる。どんなにルールが緩くて、どんなに簡単なものであってもだ。(ゲームのルールは除く)

 

 自由という言葉にどのようなイメージを思い浮かべるのか、自分勝手、なんでもしていい、といったイメージを含めて抽象化していくと、自由か、不自由かといった二択ではなく、そこに内包されている欲求を垣間見ることができるのではなかろうか。

 

 

 私たちは「自由」という言葉にどのようなイメージを思い浮かべるのか。

 私たちは「自由」に何を期待しているのか。

 

 

では、今回はこの辺で失礼します。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録

もう少しだけ、不動産を自然の影響から必ず影響を受けていると考えると、どこまで連想が発展するのかについて話しましょう。

不動産は、気象の影響を受けているというのは触れました。気象の影響を受けているとしたら、赤道直下と北極と南極の気象が顕著に違います。また、気象は山脈の影響も受けます。赤道直下と北極、南極の気象の要因を考えると、地球の自転がどのようになっているのか(地球は真球なのか、真球ではないのなら、どう傾いているか)、太陽はどうなのか、と宇宙との関係まで発展していきます。じゃあ、海の近い不動産(ベネチア等)はどうなるのかと言えば、もちろん、潮の満ち引きまで関係してきますので、月と地球との関係にもぶち当たります)不動産と海との関係までいくならば、塩水と建築物の劣化までいきます。これを予測したいのであれば、化学までいきます。これらを厳密に知りたいなら数学を用いて計算するのもありかもしれませんね。また、気象から山脈を考えると地球の内部、マントルや地盤などについても考えを発展させることができます。

 

環境と人間と工作物、人間と人間という視点で考えると色々なことが見えて来そうですね。

 

ただ、グローバル化により文化が画一的になっていっています。画一的になると、こういった発展の軌跡を連想するのが困難になるため、開放感がなく、歓迎できません。

 

・自由についての考察

プライベートでは自由という言葉はあまり使いません。学校とかで自由時間がどうとか、色々、決まっていることと、そうでないことでわけられたりします。そういった、学校や決められたところでは、自由は、楽しみを見いだす、よいと思うことを見いだすといった、満足や納得のいくように自己決定をしていい余地がどれほどあるのかの指標になり得る。

 

自己の欲求充足でなければ、他者の欲求充足、社会の欲求の充足、かもしれない。だが、社会の欲求というのが何なのか。結局「〜したいから」という枠組みに帰結しない、欲求ではない動機を表す言葉を見つけたい。恐らく、そこで初めて自己中心性が減少に転じるのではないだろうか。