自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

視点 ~物語の読み方、物語から現実へ「数値化の世界」~

久しぶりに注意書きをしておくが、この記事は非常に読みにくいので結論が知りたい方は結論からどうぞお読みください。無論、読みにくいのは手紙のやり取りを公開していないからである。

 

物語の読み方

ナショナルカリキュラムの国語教育の賜物なのか、筆者が物語において何を表現したかったのかというのを気に入った物語があったら考えるのが私は好きである。大学で履修した講義では、ファンタジーと昔話2ではエンデの『モモ』、女と男の空間表現では『ヒメゴト~十九歳の制服~』という全八巻の漫画を自分で選んでを課題で分析した。

『モモ』

この物語において、エンデは児童文学なのだが社会への風刺をちりばめており、彼なりに物語を通じて子どもだけでなく大人にも何かを伝えようとしていた。

『ヒメゴト~十九歳の制服』

この漫画では記号的な象徴的要素が作中にちりばめられていた。わざわざ検索して読むのはお勧めしないが、20歳の成人式で主要な登場人物が着る振袖は真っ黒で喪服を思わせるシーンが最後の方にある。確かに成人式は子どもである自分が亡くなる葬式と考えると納得がいく。

この講義でならったのは知らず知らずのうちに「女性はこう」「男性はこう」という規範が物語にはたくさんちりばめられている。物語から汲み取った規範を私たちは無意識に受容しているので、それに気づいて人生をサバイバルしていこう、というテーマだった。様々な身近な作品を事例として取り上げて、こういう規則性がありますよと教えてくれた。だから、作品を通じて作者の女性のイメージや男性のイメージ、家族のイメージなどをある程度把握することができる。

そして、ジェンダー規範から逸脱した物語やキャラクターを前にしたとき良いか悪いか判断する自分がいたら、それはまさしく無意識のうちにジェンダー規範を身に着けていて、それを作品の登場人物に当てはめているに他ならない。

 

ただ物語を味わうだけでは、これらのことに気づけない。ただ読むだけでは物語の主人公になりきれたり感動はしたりはしても、作者が物語にどのような意味を込めたのか察することなどができないのである。作者の意図を読み取らなくていい、ただ鑑賞すればいいと思っているのは童話や聖書が教訓であると知らないように結構な問題だ。

 

物語から現実へ

アニメ「PSYCHO-PASS(サイコパス)

私は現在進行形でpsychopassの新編集版の内容の読解を2014年か2015年からずっとしている。読解を始めた理由は、槙島聖護に似た人物を現実で探すためであった。そのために、このキャラクターの思考を理解し真似るために作中で引用される本をかたっぱしから手にとった。(この過程が私の思考が哲学っぽくなった要因なのだが、この話はまた別の記事で。)

psychopassの内容はSFである。物語は読者が本当にそうなるかもと思ってしまいそうな感じに作り上げている。もし自分がこの世界に生きていたらどうなるだろうかとか、色々創造するわけだが、まず内容の紹介から。

舞台は、人間のあらゆる心理状態性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。

その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた [10]

そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省の内部部局の一つである警察組織「公安局」に属する刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた [11][12]

本作品は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く[13]

出典(2021年4月7日 PSYCHO-PASS - Wikipedia ストーリー設定)

 

 この世界において法律は存在せず全て犯罪係数が規定値を以内か以上かで隔離対象か判断される。変わっている設定は、現実世界で犯罪行為に該当する行為でも犯罪係数が規定値以内ならばシビュラシステムに裁かれないのである。殺人といった罪相当の行為をしても犯罪係数が上がらい人物を免罪体質者といい、槙島聖護はその一人である。作中では、免罪体質者が三人ぐらい出てくるのだが、私は彼らがなぜ犯罪係数が上がらないのかと問いを立て、この問いを長い間保留にしていたら最近答えがでた。

測るためには基準が必要である。それと同時に測られる対象が均一である必要がある。(スポーツにおいて男女混合にしないのと同じである。)そのため、この犯罪係数の測れない200万人に一人の確立で表れる免罪体質者たちは何かが違い測れないのである。私は免罪体質者の個性、とりわけ目的が異質だから犯罪係数が上手く測れないのではないかと思っている。そして、この免罪体質者たちは何かしらの共通点が見いだせると思っている。これについてはまた後日考える。

現実に戻る

基準があって均一でないと測れないというのは、学力テストなどと同じではないだろうか。学力テストは採点基準が明確なマルバツ形式で皆受ける内容がほとんど同じだからこそ学力が数値として出るのである。レポートといった自由記述は内容で測る場合には明確な基準を作ることはできない。

もう一つ、今年から大学では新入生がProgテストというのを受けるようだ。よく内容と結果の通知の仕方が分からないので何とも言えないが数値化かと思っている。何でも数値で測ろうとするのは看過できない。数値で表そうとした瞬間から抽象捨象するからだ。

これは能力の話ではないが参考になるのでどうぞ。

君たちに言っておきたいことがある。どんなことか説明しよう。

 

私たちは数値化の世界に住んでいる。

 

君たちはケネディースクールで学び、ありとあらゆる種類の数値化のツールを学ぶだろう。

数値化のツールは便利なものである。

会社や国家、組織、学校や家庭でさえも予算なしで経営することはできない。収入がこれだけで、支出がこれだけという数値がなければ経営は無理だ。しかし、数値化になれてしまうと私たちは数値化が真実を表していると思うようになりがちだ。

しかし、数値化できない真実はたくさんある。

このことはリーダーシップを実践するうえで重要だ。特に目標を達成できなかったという結果をつきつけられたとき重要になる。

達成したのが20%だったことを知れば、まだ80%も残っているという気持ちなる。ここには平和をもたらすことができたけれど、まだ多くの場所で平和をもたらすことができなかったから意味がないとか。

 

でも、私は善い行い、善を数値化することはできないと信じている。

 

私たちがいずれこの世を去るとき天使たちが迎えにきたとしよう。

天使はこう言って攻めるだろうか。

「なぜ、あなたが命を救ったのは27人で36人じゃないの?」

「なぜ、読み書きを教えた子どもたちは100人で200人じゃないの?」

「なぜ、こっちの家族にだけ綺麗な水を届けて、あっちの家族には届けなかったの?」

「なぜ、平和をもたらしたのは1つの地域だけで3つの地域じゃないの?」

いや、そんなこと聞くはずがない。

 

一人の子どもの目に明かりを灯すことができたのならば、君は数では表せない善を行ったことになる。

私が生まれ育った文化にはこういう言い方がある。

「一つの命を救うことは世界を救うことだ。」

 

リーダーシップを実践する人が絶望に落ちてしまうケースの一つは、まだ達成できていないことばかり見てしまうことだ。

あるいは、善は数値化できると思ってしまい、もっともっと数値を上げようと思ってしまうからだ。

あの人は小さな学校の一つを指導しているのか、それとも何校もなのか。

あの人の総資産は30億ドルなのか200億ドルなのか。

ありとあらゆるものが数値化され、数値が神話化し、幻想が生まれる。

人間の存在価値でさえ何らかの数値で表すことができると信じるようになってしまう。

 

でもそれは絶望を生むだけだ。

なぜなら、自分が達成したいと思うことを全て達成することはできないからだ。

一国の大統領を務めた人で誠実な人は誰でも絶望した状態で職を辞す。

なぜなら、成し遂げたかったことを成し遂げられなかったからだ。

リーダーシップの実践に必要なのは、人々に対して愛情を注ぐという行動の中になんとかして留まる能力で、ある意味、自分の成果を喜ぶことである。どこかの場所で行った善いことを祝うことである。あるいは、一人の子どもの瞳に明かりを灯したこと、誰かが立ち直れるように手を貸したこと。

小さな善を行えたことを嬉しく思うことである。

 

君たちがこれから地域社会において、家族の中において、自分の住む町・村・国において、人間性と正面から向き合い、もっとも困難な挑戦に立ち向かう際、

どうか数では表せない善を行うことを喜びに思ってくれることを祈る。

 

君たちに力あれ。

 

出典(ハーバード大学ケネディースクール教授 ロナルド・ハイフェンツ,リーダーシップ白熱教室最終回〔NHK白熱教室〕ハーバードリーダーシップ白熱教室 第6回 part 1/2 - Bing video、音声を筆者が文字起こしした )

 私は、psychopassというSFアニメは実現しそうな未来を突きつけて「よく考えるように」と説かれていると思った。実現しそうな未来なのだから現実と関連する部分がある。例えば、適職診断テストとかである。このアニメはシビュラシステムが適職を判断しその中からしか職業を選べないというのと似ていると思う。もう一つ作中ではシビュラ認定芸術家という制度もある。これについて、不健全図書を認定し公表するのを都が作ったのでちょっと違うが似ていると思っている。(これに関しては不健全指定図書類、不健全指定がん具類・刃物一覧|東京都都民安全推進本部

作品とかで極端な状態に接した時、自分ならどのように対処するかと考えることが肝心だと私は思っている。

終わりに

テーマだとか、意味だとか、彼女の言おうとしているのは何かなんてことばかり目をやっていると、せっかくそこに豊かなものがいっぱい描かれているのにそれが目に入ってこなくなって、損をしますね。文学はいろいろな方面から読めるから面白いのに

出典『ゲドを読む』

 私は一回何も考えずにとりあえず読んだり、鑑賞する。その後、印象に残ったところを考えたり、分析したりする。他の人も同じかどうかは知らいないが、印象に残ったシーンは一回見れば覚えている。だから、頭の中にたくさん保留したある。例えば、白熱教室の「一つの命を救うことは世界を救うことだ。」というのは、映画シンドラーのリストの最後の方のシーンでも登場する。だから、この教授は恐らくユダヤ系の人だと推測できる。

何が言いたいかというと、描かれている豊かなものをみるのは大切だと思う。私には美しい文章は書けないし、美しい文章だから本に線を引くというのはした覚えがない。美しいシーンを覚えておくのも同じだ。

だが、本質はそこではないと私は思う。

なぜこの本を書き、何を読者に伝えたいのかを物語として表現するのが作者の使命の一つだ。そのメッセージ性をセンスよく伝えるのが彼らの腕の見せどころでもある。そんな彼らの伝えたいことを汲み取ろうとしないのは作者たちが惨めで可哀想だ。

 

私の自由研究のテーマは「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究しています」である。このテーマには暗に「自由とか言っているけど何か知ってんの?」と読者に問いかけているのである。私がただの自由という真理を探究している人にしか見えないのなら惨めというか残念だ。わからないこと、ただそれが残念…。

 

以上です。分かりにくい感じで申し訳ないですが、最後まで読んでくれてありがとうございました。

 

追記2021年5月3日

童話は教訓、聖書は寓意を用いた教訓を示している。物語を正しく理解するためにはこの物語では何を表したいのか、という視点が欠けていると娯楽としての役割しか果たさない。寓意を読み解くためには一定の教養が必要で、知識がないと物語は読み解くことができない。記号や象徴を読み解く知識が必要なのだ。