自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~他者の視点から自由研究を見てみる~

自分は過去の哲学者たちの疑問通り意図せず?考察してきました。久しぶりに教授の「『自由』に代わる理念は現れるのか?」を読んでいたら、案の定教授が過去に考えてきたところに私もいるようなので、教授の原稿を引用しながら考えを述べる。

この記事のもとは教授に当てたメールなのでところどころ文章構成が明らかに変なのと、付け加えた文がある。

(引用は思考源に明示している。)

 

「近代市民社会における自由の自己目的と神話化」以降から

「自己構築・存在構築としての意志の自由を確立するためには、その秩序の実現を正当化し、その実現にむけた基本的な戦略をしめし、同時に実現への障害を取り除く、いな、そもそも障害が発生しないための方策が求められる。存在構築の司令官としての自由意志は、それらすべての作戦に必要な方針を与える指令系の頂点を占めることになる。この体系を確固としたものとするために、1)自由の自己実現化(存在構築する自由から、自由を実現するための存在構築へ)、2)更にこの自己目的化を封印する神話化(「自由」をひとつの呪文と化し、原則的な問いを封じ込む)が行われることになる。

 現在私は「1)自由の自己実現化(存在構築する自由から、自由を実現するための存在構築へ)」をしている真っ最中だと思う。というのも、自由研究の主題は「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究しています。」というのだからだ。

また、自由とは自分であること、と意味付けしたため自分であるために何かを構築(定義?)または自覚している真っ最中である。例えば、自由研究をしている自分が自分だとか。

また、自由であるのは社会といった身近な人が許す範囲内のため、無意識にでも自由を実現しうる範囲内での存在構築を行っていると考えられる。

また、自分がどうありたいかという目的ではなく、自分が現実的にどうあれるか、どうあるのか(既存の自分)の考察をしているように感じる。

 

 以下は次の引用

「自由」自己目的化は、近代市民社会の生成と並行して進む。既存の秩序の支援を受けられず、むしろ妨害を受けるがゆえに、それらを否定して自己の企画力・企業力(自己構築・存在構築の意志)をよりどころとするほか活路のない近代市民は、自分たちの思考・行動様式自身をみずからの基盤とする。高められた主観性が実体性そのものとなるのであり(ヘーゲル)、それは自己強化としての力への意志ニーチェ)なのである。こうして、自由な意思主体によって構成される自由な社会という近代市民社会の「偉大なる物語」が形成されていった。その行動においては、個の自立と民族の自治との並列が見られるように、個と共同性への統一(道徳律に従う善意志)が要請されたが、実際には、欲求充足を目標に行動する独我論者・近代市民は、他の自律主体との対立・葛藤を生み出し、強化してゆくこととなった。その極限状態を示す地獄絵図としてのフランス革命の恐怖政治が当時の知識人に与えた衝撃は大きかった。

 「自由」を自己目的化しているであろう私だが、そう思う理由は自己の企画力・企業力(自己構築・存在構築の意志)をよりどころにしているからだ。というのも、地球温暖化対策に対し国家の動きが鈍いなら、企業が動きざるを得ない環境を作ればいいのでお金の動きをコントロールすれば机上の空論と言えど実質地球温暖化対策が実行可能なはずである、というこの思考力が私の売りだ。思考力と言えるほどでもないが、自信がある。つまり、これは実際に思考力を自らの基盤としているということになる。過去の自分の行動に誇れる節があるので、行動様式もまた基盤になっているだろう。まさに、ヘーゲルニーチェの言う通りだ。

多分そこが重要なのではなく、「高められた主観性」により自分の利益、本当の目的、本当の実力、本当の自分は、などなど考えすぎて他者や社会との対立が生まれ疲れ切るのではないのかなと思う。で、その他の自律主体との対立・葛藤を強化していき、また本当の自分は~はずなのにと考えていくのかなと思った。(本当の自分って、自分であることとは何なんでしょうかね)

 

引っ掛かったショーペンハウアーが考え

「自由の克服か、同苦か?」より引用 

ショーペンハウアーは、自己構築・存在構築としての意志の行使が真の自由であると認めない。人間が、生物の自己形成・自己保存する力(広い意味での生への意志)を認識によって補うようになっても、その知性は基本的に生への意志への奉仕するものにすぎない。経験的な認識は一定の時間空間に位置する個物を対象とするがゆえに、知性の発達とともに個別性を強く自覚するようになる。ことに近代市民は自己も他者も含むすべての存在を、それぞれ別々の「個」=意志の対象ととらえ、これに向って自己の欲求の充足のために合理的認識を駆使する。そのことによって人と人は衝突しあい、人と自然の壁に突き当たる。それが「苦」の根源である。個人の自由という「偉大なる物語」は、実は自己の欲求充足のための手段に過ぎない。

 ショーペンハウアーがすごく「生」を重要視していうのはわかる。

「個人の自由という「偉大なる物語」は、実は自己の欲求充足のための手段に過ぎない。」つまり、自由は個人の欲求充足のためなので自由が目的で人は動かず、その先の欲求充足が目的なのである、という風に解釈できる。それすなわち、人は欲求充足が果たされていれば自由は求めないはず、という風にも考えられる。これは大きな問の出現だ。

この問いの重要性とは、自由そのものが目的ではないということ、欲求が充足してさえいれば傍から見れば不自由な状態も受け入れるということ。つまり、理想の自由というものはなく、ただ欲求充足されていればいいという低俗な風に聞こえてしまう。多分、ジョージ・オーウェル動物農場1984年などを読めばある程度理解できるであろうが、、、理解できたところで受けりれられるかはまた別の話だ。

自分であることが自由なのか、自分であるための自由は欲求充足のための自由と置き換えることができるなら、それは考え直す必要がある。自由は素晴らしいものではなく、ただ単に欲求充足のための手段だったとしたら、考えていたのと違う。私の欲求充足が崇高なもので、例えば平等のための自由とか、私利私欲な欲求充足のための自由でなければ落ち込む必要はないのかもしれないが...。(自分が平等を求めている時点で欲求充足のための自由なんだよな。)

 

今回の内容は以上である。

 

謝辞を書き忘れていたので、追記する。

鎌田教授には、忙しい中、知は値段をつけられないものという理由で私の質問に自由研究とは関係ない質問も含め発展的に答えていただき感謝してます。また、大規模な引用にも関わらず引用の承諾していただきありがとうございます。

教授のメールの返信には感謝と自由研究の発表のみでしか今は恩返しできず、心苦しいですがそれを受け入れて今後も自由研究を励みたいと思います。

(この謝辞記するのここじゃないですね笑)

 

 

思考源

鎌田康男 教授 「『自由』に代わる理念は現れるのか?」より

http://dekansho.net/dekanshode/index-j.html