自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~個人の自由は個人の欲求充足の保障という解釈の危険性~

目次

はじめに

 三月にジョージ・オーウェルの『一九八四年』とセネカの『生の短さについてーー他二篇』を同時に買い、セネカから読み始めたら自由について少々触れられていたのでいつものように線を引いておきました。その後、三カ月くらい間を開けてオーウェルの『一九八四年』も読み終えたら、なんと自由についてオーウェルセネカから引用したのかと思うほど酷似した文章が見つかったので最後の方にご紹介したいと思います。

   今回のテーマは「個人の自由は個人の欲求充足の保障という解釈の危険性」について、最初に持論を展開したのち、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』、フロムの『自由からの逃走』で捕捉します。内容が重すぎて文章にまとまりがないとは思いますが、ご了承ください。(タイトルが微妙なので書き換える可能性があります。)

自由は個人の欲求充足のみに使っていいものなのか

 過去の記事で「自由研究〜自由研究を他人の視点から見てみる〜」を読んでいたら、この記事の柱となるような文章が出てきたので、引用しながら問題提起をしていく。

「個人の自由という「偉大なる物語」は、実は自己の欲求充足のための手段に過ぎない。」つまり、自由は個人の欲求充足のためなので自由が目的で人は動かず、その先の欲求充足が目的なのである、という風に解釈できる。それすなわち、人は欲求充足が果たされていれば自由は求めないはず、という風にも考えられる。これは大きな問の出現だ。

この問いの重要性とは、自由そのものが目的ではないということ、欲求が充足してさえいれば傍から見れば不自由な状態も受け入れるということ。つまり、理想の自由というものはなく、ただ欲求充足されていればいいという低俗な風に聞こえてしまう。多分、ジョージ・オーウェル動物農場1984年などを読めばある程度理解できるであろうが、、、理解できたところで受けりれられるかはまた別の話だ。

自分であることが自由なのか、自分であるための自由は欲求充足のための自由と置き換えることができるなら、それは考え直す必要がある。自由は素晴らしいものではなく、ただ単に欲求充足のための手段だったとしたら、考えていたのと違う。私の欲求充足が崇高なもので、例えば平等のための自由とか、私利私欲な欲求充足のための自由でなければ落ち込む必要はないのかもしれないが...。

【出典】自由研究 ~他者の視点から自由研究を見てみる~ - 自由研究 (hatenablog.com)

 「個人の自由が、なぜ個人の欲求充足のための自由ではいけないのか?」という問いには低俗以外の理由で答えなくてはならない。個人が最優先という概念を否定するのは、正直難しい。「自分を愛してる」と確信を持って言う相手に社会は重要でないのか問うてみたところで、その言葉には自分が最優先だというニュアンスが見え隠れし落胆するのが落なのだ。

 だがしかし、真剣に考えると社会運動のフリーライダーだと指摘するだけで案外簡単に肩がつくように思う。さらに皮肉なのはこのただのりを意味するフリーライダーは英訳すると「Free rider 」であり、個人の自由を個人の欲求充足のためにばかり使い、社会運動のフリーライダーになっている人に少々強引ではるがピッタリな表現に思う。 

現代「自由な野郎=ただのり野郎」

近代初期・以前「自由な野郎≠ただのり野郎」

 (ちなみに、フリーライダーは経済学で問題になっている。)

 社会運動のフリーライダーという視点をわかりやすく説明すると、キング牧師のバスボイコットの社会運動をしているときに自分が黒人で当事者にも関わらず平然とバスに乗り、社会運動が上手くいった暁にはその恩恵を享受する者を、私は社会運動のフリーライダーだと言っいる。この社会運動のフリーライダーが実在したかは知らないが、社会運動のフリーライダーが確実に存在するのは間違いない。なぜなら、近代の契機であるフランス革命という社会運動の恩恵を我々は享受している時点でフリーライダーだろう。もっと身近な例はストライキだ。

 しかし、社会運動に参加しない人を社会運動のフリーライダーだと揶揄するのは全体主義を思わせる。私が言いたいのは、個人の独創性に基づき社会の改善に貢献するのが全体主義に陥らない、新たな共同体意識なのではと思う。みんなが何かしらの社会運動に取り組みながら、社会に個人として生きる。社会運動の分業である。この概念はハンナ・アーレントのいう活動に相当すると予想している。

 「やりたい人だけが社会運動をやればいい」という考えではダメなのかは経済学の均衡という言葉で説明できる。

 その前に、均衡という言葉を使わずに説明する。全てが個人の自由で自己責任の社会ならば時間と労力を費やして社会運動をするのは個人にとって損ではないだろうか。考えてみてほしい、人生は100年で、今何歳で、睡眠が大体毎日8時間、好きにできる時間はあと〜時間しか残されていない、と皆が自己中心的に考えたら、時間と労力のかかる社会運動は起こりにくくなるだろう。労力対して純益が少なすぎるからだ。

  均衡についてマクロ経済の教科書を引用しようと思ったら、同じようなことが書いてあったのでかなりわかりやすいはずだ。だが、まずは均衡の概念から。

2.均衡 経済学の第2の原理は、均衡である。経済システムは均衡に向かう傾向がある。均衡とは、そこから行動を変えることで便益を得る人は誰もいない、という状態のことである。各経済主体が、別の行動をとっても自分の状況は良くならないと信じているとき、経済システムは均衡にある。言い換えると、均衡とは、みなが同時に最適化している状態である。(p.10)

【出典】ダロン・アセモグル,デヴィッド・レイブソン,ジョン・リスト,2019,『アセモグル/レイブソン/リスト マクロ経済』「1章 経済学の原理と実践」(岩本千晴訳),東洋経済新報社.

 

人々の私的便益は、公共の利益とは一致しない場合が多い。地下鉄に無銭乗車をするのは、切符代を支払うよりも安上がりだ。YouTubeで動画を観るほうが昨晩のパーティの後片づけをするよりも楽しい。均衡分析は、集団の行動を予測するのに役立つだけでなく、なぜフリーライドが起きるのかを理解するのに役立つ。人は、個人的な利益を追求し、公的な利益には自主的に貢献しないこともある。残念ながら、戦場の英雄が見せるような無私の行動は例外なもので、一般に見られるのは、利己的な行動のほうだ。集団の中の個人は、集団全体の幸福を最適化するように行動するのではなく、自分にとって最善のことを行うのだ。(p.22)

【出典】同上

 社会運動をするとき個人の利益にはなりにくい。だが、社会運動の恩恵は社会にとって、個人にとって重要なことである。恩恵を生み出す社会運動をする人々が損をしている、馬鹿らしいと思ってしまうような社会風土だけは絶対に作ってはいけない。自己責任はその様な社会風土の土壌となると危惧している。

 個々人が自発的に、独創的に社会を改善する活動をやってくれればそれで済む話なのだが。なぜやらなければならないのかへの問いへの答えはフリーランダーだから、いつも悪いやつがいるからである。

注意:「社会運動」は社会を改善する活動と広義に捉え使用しています。

もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。

もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにでものであろうか。

もしいまを尊ばないならば――いつというときがあろうか。

「タムルード」 第一編「ミシュナ」より (『自由からの逃走』のエピグラフ

個人の欲求充足のための自由でしかないらば、『一九八四年』から考える

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は時間の概念、とりわけ過去を考えるうえでも、自由とは隷属であるを理解するためにも読むのを勧める。(何より興味深い点は主人公であるウィストンが第二章の「自由は隷属なり」を読み飛ばすところだと思う)

 『一九八四年』では、反発するよりも「ビックブラザー」に隷属した方が賢い選択でだ。なぜなら、自分が最優先だから。かなり気分を悪くする残酷な拷問の描写があるので肉体的苦痛よりも真理、もしくは自由を優先できるとは軽々しく言えないが。主人公であるウィストンは、拷問に耐えていたが恐怖と対面したとき彼の考える自由を捨てた、捨てざるを得なかった。「君は日記に書いた――『自由とは二足す二が四であると言える自由である」というのが彼の自由だった。しかし、終盤では「二足す二は五である。」と考えられるようになり、一時の自由を手にしたのであった。

「われわれは権力の司祭だ」彼は言った。「神が権力なのだが、まだ今のところ、君とって権力は一つのことばに過ぎない。権力が何を意味するか、そろそろ君なりに考えをまとめてもいい頃だろう。最初に認識すべきは、権力が集団を前提とするということだ。個人が個人であることを止めたとき、はじめて権力を持つ。〈自由は隷属なり〉という党のスローガンを知っているだろう。この逆も言えると考えたことはないかね。つまり、隷属は自由なり、ということだ。一人でいる――自由でいる、このとき人は必ず打ち負かされる。それも必然というべきだろう、人は死ぬ運命にあり、死はあらゆる敗北のなかで最高の敗北だからね。しかし、もし完全な無条件の服従が出来れば、自分のアイデンティティを脱却することが出来れば、自分が即ち党になるまで党に没入できれば、その人物は全能で不滅の存在となる。二番目に認識すべきは、権力が人間を支配する力だということだ。肉体を支配する力もそうだが、何よりも、精神を支配する力だ。物質――君の言う外部の現実だな――を支配する力は重要ではない。すでに、物質に対するわれわれの支配は絶対のものになっているからね」(pp.409-410)

【出典】ジョージ・オーウェル,2020(2009),『一九八四年』[新訳版](高橋和久う訳),ハヤカワ epi 文庫,早川書房.

 「自由は隷属なり」の意味と重みは本を読まないと理解できないと思うので、物語以外で同じようなことを書いてあるフロムの『自由からの逃走』に立ち返って解説としましょう。

『自由からの逃走』

  物質的な欲求充足はもちろん重要だが、孤独感・無力感から逃避しようとする人間の性質も忘れてはいけない。個人が欲求充足すれば自由を捨てるならば、孤独感・無力感を手に入れば自由を捨てるということにもなる。極論を言えば、生理的欲求・安全欲求・孤独感・無力感から解放されない限り、人は自由を捨てるということである。

 『一九八四年』の要点は『自由からの逃走』でおさえられる。

心理的状況もこれらの権威の状況によってことなっている。最初のばあいには、愛情、賞賛、感謝などの要素が支配的である。権威は同時に、ひとが部分的あるいは全面的に自己同一化したいとのぞむ規範である。第二の状況では、搾取者にたいする反感や敵意がおきる。かれに服従することは自己の利益に反している。しかし、奴隷のばあいなどでは、憎悪はほとんど勝利の機会もなく、ただ苦痛に屈服するような矛盾を導くだけである。そのため憎悪の感情をおさえ、ときには盲目的な賞賛の感情におきかえようとする傾向がうまれる。これは二つの働きをする。第一には、憎悪という苦痛にみちた危険な感情をとりのぞき、第二には屈辱の感情をやわらげる。もし私を支配する人間がそれほど驚嘆すべき完全なものであるならば、私はかれに服従することを恥じる必要はない。かれが私よりもはるかに強く、賢く、よりすぐれている以上、私はかれと同等になることはできない。結局のところ、禁止的権威のばあいには、憎悪か、あるいは非合理的な過大評価や賞賛が増大する傾向にある。理性的な権威においては、権威に服従している人間が、いっそう強くなり、したがって権威にいっそう類似してくる度合いに比例して、権威は減少していくのである。

 理性的および禁止的権威の差異は相対的なものにすぎない。奴隷と主人の関係でも、奴隷にとって利益となる要素もある。かれはすくなくともかれの主人のために働くことができるだけの、最小限の食物と保護をあたえられる。(pp.183-184)

エーリッヒ・フロム,2019(1951),『自由からの逃走』(日高六郎訳),東京創元社.

ウェーバーが重点的に考察した権力の一形態が支配である。支配は服従する者自身の服従へ意志(服従意欲)によって支えられている。支配において、服従を自らよくするように服従者を動機づけるもの、また支配者が自発的な服従を引き出すために活用するものである。ウェーバーは伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配の三つの支配をあげた。『一九八四年』において、ビックブラザーは個人の欲求充足を人質にとり自発的な服従を引き出している。

個人の欲求充足が人質にとられたとき、人々は自ら自由を手放す。だから、個人の自由は個人の欲求充足の保障という解釈は危険なのだ。

 

何かを実現するための自由であり、自由そのものが目的になるのはおかしい。

あらゆる外的な束縛から個人を解放することによって、近代デモクラシーは真の個人主義を完成したという通念と対立するものである。われわれはどのような外的権威にも従属していないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてわれわれはこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保障するものであると考えている。しかし、思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。あるいは少なくともそれに近づきつつあるだろうか。(pp.266ー267)

【出典】同上

自由研究

  仮に自由を縛られないことと定義するならば、外的要因からの縛られないと同時に自分という内的要因から縛られない状態も含めなければ自由とは言えない。したがって、自己の欲求充足のために自由を使うのは矛盾が生じることは頭に入れておくべきだ。また、自由は与えられるものではなく、自らがなんとかして自由でい続けようとする意志と能力がなければならない。自己の欲求充足以外に何かないだろうか。自由は、誰にも隷属しない状態でかつ、自分より高い価値のあるものを見出し、それに関与しない限り実現はされない。

 

 

 

 

 

以上になります。最後まで読んでくださりありがとうございました。読者の皆さんが自由について再度考え直すきっかけになれば嬉しい限りです。

 

追加2021/07/29

マルクスが、資本主義を批判したのは富が増加、拡大した社会の結果が人間の精神をゆがめ、人間を肉体的生存へと貶めてしまうと考えたからだった。搾取や疎外によって、食べる、飲む、といった生命活動が唯一の最終目的になってきまうことは、人間が本来有する権限が著しく侵害されていることになる。

【出典】二川早苗, 2017, 「ヌスバウムの思想:社会契約論からのケイパビリティ・アプローチへ」『倫理学』33:81.

 

思考源

出典参照

過去の全ての自由研究

 

付録

セネカ「自由とは従属なり」

オーウェル「自由とは隷属なり」

徳と快楽を結合させ、しかも決して対等関係にはないものを結合させようとする者は、一方の善きものの脆弱さによって他方の善きものの活力を萎えさせ、唯一、自分より価値の高いものを見出さないかぎり、敗北することを知らぬあの自由を隷属へ追いやることになる。なぜなら、自由は最悪の隷属にほかならないもの、すなわち、運を必要とし始めるからである。それに続く制覇、不安や疑心暗鬼、怯えや不慮の災難へのおののき、刻一刻と変化する時の流れの中での覚束なさに満ち満ちた生となるであろう。君のやっていることは、頑固不動な礎を徳に与えず、不安定なところに立つように徳に命じることにほかならない。一方、運に左右されるものへの期待ほど、また肉体や、肉体に作用するものの変点ほど不安定なものがあろうか。そのような人間が、快楽や苦痛の些細な刺激に動揺していながら、いかにして神に従い、出来するいかなる事態をも善意で受け止め、みずからにふりかかる災厄を寛大な心で解して宿命をかこたずにいられよう。いや、それどころか、そのような人間は、堕落して快楽に走るならば、祖国の善き守護者にも復讐者にもなれず、友人の善き援護者にもなれないのである。だから、最高善は、いかなる力も引きずり下ろすことのできない高みへ、苦痛や希望や恐怖が近づけず、最高善の特権をいささかでも損なうものが近づけない高みへと登らせなければならない。そようのや高みへ登れるのは唯一、徳んみである。その徳の驥尾に付し、その歩みとともにわれわれはこの上り坂を踏破しなければならにのである。徳は雄々しく立ち、出来することごとくの事態を、忍耐強く耐えるのはもちろんのこと、進んで耐えさえするのであろうし、移ろう時がもたらすあらゆる苦難を自然の法則と弁え、あたかも勇敢な兵士のように、傷に耐え、傷あとを数え、槍に貫かれて今まさに死なんとするときにも、その人のために戦って斃れた指揮官をなおも愛し続けていることであろう。そのとき、徳は古の金言を心に銘記しているはずである、「神に従え」と。一方、かこち、嘆き、呻く者は皆、命じられたことを実行するよう力づくで強制され、否応なく命令遂行のために引きずられていく。だが、従うよりも引きずられていくほうを選ぶとはなんという愚挙であろう。何かが欠けている、あるいは、ふりかかった事態が人より過酷であるといって悲観し単利、同様に、善人にも悪人にも等しく降りかかるもの、つまり、病や死や身体の障害、その他、人間の生に思いがけず襲いかかる災厄に驚愕したり、憤慨したりするのは愚行であり、己の置かれた立場を弁えぬ愚行であるが、誓って、それと何ら変わるところがないのである。何にせよ、宇宙の成り立ちからして甘受しなければならにものは、大度をもって受けとめねばならない。われわれはこのような誓いを立てる義務を負っているのである、すなわち、死すべき人間の生起することごとく忍受し、われわれの力では避けえぬことに動揺はしない、と。われわれは(神の)王国に生きているのである。神に従うこと、それこそが自由にほかならない。 (pp.162-165)

【出典】セネカ,2021(2010),『生の短さについて――他二篇』「幸福な生について一六」(大西英文訳),岩波文庫岩波書店.