近頃停滞気味であった自由研究にブレイクスルーが起こりました。今回の記事はブレイクスルーの発見となった言葉についてです。
最大の発見は、自己中心性(egocentrism)と自己中心的(selfishness)という言葉が別物であること、及び前者の言葉が知れたことが最大の発見だった。
自己中心的は大体の人が思い浮かべる通り、自分のことばかり考える利己的な人間のことである。
一方で、自己中心性(egocentrism)とは以下のような意味がある。
事象を客観的に第三者の立場、あるいは複数の視点から分析・認識できず、主観的に、自分の立場、あるいは固定した一つの視点だけから分析・認識する認知・思考の仕方をいう。心理学者のJ・ピアジェは、児童の思考はこのような性格をもつと考え、自己中心的思考と名づけた。さらに、前述のほか、自己の行為や操作についての内省・反省や、相対的関係判断が不可能であること、知覚的に際だった特徴にこだわり総合的判断に欠けること、矛盾意識がないことなどの特徴を指摘した。統合失調症(精神分裂病)、ヒステリーなどの病的状態の際も、このタイプの思考がしばしば生じる。道徳的な意味での利己主義とは異なる。
いかがだろうか。
私は、自分自身がまさしく自己中心性に固執しつつあったことにこの言葉のおかげで気づけた。思い当たる節としては、まず自分で気づくことに固執する点、自論ばかりである点があげられる。やばい、恥ずかしい、でも気づけて良かったとは思う。
また、自由になるための課題には自己中心的の他に自己中心性があることにも気づけた。そして、「万人の自由のために、万人の魂の自由のために―――」と帯にかいてある戸田山和久の『教養の書』がいいたかったのは、恐らく自己中心性からの自由ということにもようやく気づけた。そして、恐らく、リベラルアーツ、及び古代ギリシアで言われているlibertyも自己中心性からの脱却することが含まれていると思う。今まで、必然にばかり注目していたが、これも自己中心性からの脱却も自由の欠かせない要件である。
・まとめ
自由とは、不自由でない状態のことである。
不自由でない状態とは、自己中心的・自己中心性から脱却していると同時に必然に囚われていない状態のことである。
これだけでも十分に尊い状態ではあるが、自由を何かしらの目的のために従属させ、公的領域で言論と行為で自分が何ものかというWhoを暴露し、人の心に記憶に残り永遠を手にできたとしたら、それは古代ギリシア人からすると神と並んだことを意味する。
自由研究におけるブレイクスルー的発見の話は以上になります。