自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

言葉の見方 ~言葉は観察者の見方が反映されている~

ちょっと面白い話をしてみよう。

 

 私は、アクティブな人に憧れがあり、そうなりたいなと思っている。しかしながら、別にアクティブな人のようにどこかに行ったり、計画を立てたりするわけでもなく、口だけな人間だったりする。アクティブな人への憧れは記憶の中では18歳あたりからはじまっている。この年になるまでこのことを話すと何度か「○○さんってアクティブじゃん」と言われたことがある。人から見れば私はアクティブな人に見えたらしい。それを言われたとき、内心、「こんなんじゃアクティブとは言わないだろ」とか、「こういう系でもアクティブな人のカテゴリーに入るんだ」と思った。ちなみに、私が考えるアクティブな人の例は、正月からスキーやウィーンフィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートに日本からわざわざ行く人はアクティブな部類に入ってくる。こういう人々を私はアクティブな人と表現する。

 そう、当事者ではない私がそう表現するのである。決して、「私はアクティブな人」といわない。言わないのである。言語は他者に表現されるようにできているいるのだ。言葉で表現する側というのは、見ている側なのである。

 

 「言葉で表現する側というのは、見ている側(観察者)なのである」というのを思いついた言葉を挙げてみよう。「マウントをとられた」という言葉は、悪口として用いられる。例えはこんな感じ。

【空想】

言葉で表現する側「自分の息子が慶応医学部に合格したんですよ」

言葉で表現される対象「私の息子も京都大学の医学部に合格したんですよ」

言葉で表現するする側「へえーすごいですね(マウントを取ってきやがったこいつ)」

 

【実例】

質問する人「チマチョゴリって私でも入りますか?、サイズが心配なんですけど」

質問を聞いている人「えっ、そんな質問するの?私、(入らないという意味で)そんなこと思ったことないから、ごめん笑っちゃって」

質問に答える人「そんな心配しなくて大丈夫だよ」

 

 二つ目の実例は言葉は若干違うが私が実際にやってしまったことである。相手に「うわ、マウントとってきたコイツ」と思わせ、不快に思われても仕方がないことを言ってしまったと反省している。ただし、これはあくまで相手がそう表現するかしないかによる。

 例を二つあげてみたが何を言っているのかよくわからない人もいいると思う。私自身もこの言葉を初めて聞いた時理解が追い付かなかったので、落ち込むまなくて大丈夫だ。何より、何を言っているのかよくわからなかったからこそ、観察者が対象を表現するのである、という言葉の原則に気づけたわけだが。私の最初の印象は、「そんなことで不幸、嫌な気分になるのか」というものだった。

 前述のようなかけあいを含めて、ここ最近このような受け答えを「マウント」と表現されるようになった。この掛け合いを、おそらく不快と感じたした人がそう呼称するようになったのである。不快、快に係わらず何かを感じた人の中で言葉を生み出す人がいるのである。ラジオで「マウント経験談」ならぬ特集を聞いたことがある。マウントと言語化を果たすことで、どれほど不快を認知できるようになり、不幸だと思う人が増えるのだろうかと聞いていて思った。私も、その他の人もマウントと言われるようなことを言ったり、言われたりしてきただろう。しかし、マウントをとられたと思って不快に思うかは人による。そもそも、言葉をそう受け取る、受取がち、受け取ってばかりという傾向のある人はマウント発見機能、不快を見いだす、自己保身的な人物といえるのではなかろうか。同じ言葉を言われても、受け取り方によって快、不快かも変わってくるからである。言論や行為をあまりにも不快に受け取る人を観察者として表現したであろうとして、「ひねくれている」、「気難しい」が挙げられるだろう。

 以上が、マウントという言葉は前述のような受け答えを不快に思った人(観察者側)が作った言葉ではないかと思い、言葉は観察者側がつくっているのではないかと思った経緯である。

 

 「いじめはいじめられた側がそう感じたらいじめなんだよ」という文字に起こしてみると読みにくい一連の表現があるが、いじめは行為をいじめと表現した者がつくった言葉であろうと考えると納得できる。だとすれば、多種多様なハラスメントも同様といえるのではなかろうか。この、行為者の意図が介在しない表現したもん勝ち、受け取ったものの表現が全てのような表現は極端である。不安になって考えを進めていけば、えん罪、故意等はどう証明、判断するのかという話になっていく。ハンナ・アーレントの『人間の条件』からすればそれはしょうがないことといえる。

 人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。しかしその人の肉体的なアイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。その人が「なに」(”what”)であるか――その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥――の暴露とは対照的に、その人が「何者」("who")であるかというこの暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべて暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体(フー)」を扱うことはできないのである。それどころか、確実なのは、他人にはこれほどはっきりとまちがいなく現われる「正体(フー)」が本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシア宗教のダイモンの如きものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の肩を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。

 この言論と活動の暴露的性質は、人びとが他人の犠牲になったり、他人に敵意をもったりする場合ではなく、他人とともにある場合、つまり純粋に人間的共同性におかれている場合は、全面に出てくる。人が行為と言葉において自分自身を暴露するとき、その人はどんな正体を明らかにしているのか自分でもわからないけれども、ともかく暴露の危険を自ら進んで犯していることはまちがいない。

 ハンナ・アレント,2021(1994),『人間の条件』(訳志水速雄),筑摩書房,pp.291-292.

 しょうがないことなのである。ポリティカルコレクトネスやキャンセルカルチャーに裁かれないように、我々はリスク回避か適切に用いる努力か受難を受け入れるしかないのである。(キャンセルカルチャーは聖書の罪を犯したことがないものは石を投げなさい、という話を思い起こす)

 

 さて、最後にアイデンティティの確立の話をして終わりにしたい。

 エリクソンの発達段階説では、青年期の課題はアイデンティティの確立である。アイデンティティの確立というのは自我同一性とも表現する。自我同一性というのは、他者から見た自己、自己から見た自己の「正体(who)」が一致ていることを指す。つまり、アイデンティティの確立の達成は他者から見た自己、自己から見た自己の「正体(who)」を一致させれば課題達成となる。

 ハンナ・アーレントの言葉を使って読者をより混乱させていると思うが、他者から見た「正体(who)」を自分自身が認識することはできないとあるが、できるということにしよう。で、冒頭の表現する側の人は観察者であることの話を思い出せば、我思う故に我思う的に自分自身を客観的に見て表現した自己がある。自分を客観的に見た自己と他者から見た自己が一致すればいいのだ。アイデンティティの確立、自我同一性の実現のキーワードは自己を客観的に認識することである。決して、主観ではない。主観でやったら観察者側(客観)の視点には立てず、決して他者が考える自己認識してるっぽくもならない。

 こんなことを言ってはなんだか、こんなこと青年心理学の先生教えてくれなかった。私的に、最も重要なポイントであるにも関わらずだ。アイデンティティの確立にあたっては、自分自身というものを客観的に見ることが欠かせない、と教えてくれるともう少し青年期の課題を達成しやすくなるのではなかろうか。求めぬものに教えてもしょうがないのかもしれないが。(私は教えられてしまったら気持ち良くなる機会がなくなってしまうので何とも言えない。)

 

 自我同一性の要件は他者の存在であり、他者から見た自己の表現である。自我同一性は、他者との交流から生まれうる他者から見た素直表現を知らなければ、また自己と他者比較をしていなければ容易ではない。また、自己受容がないと捗らないと言い添えておく。

 

 最後にどうでもいい話を一つ。

 私は、クラスメイトや友人、面接官に、「○○さんはユニークな人だね(30分程度)」、「○○さんって変わってるね」、「○○さんが個性的なのはよくわかりました(15分間程度)」、「○○って珍獣だよね」などと言われたことがある。

 こう言われてきて気づいたのは、このように表現する人たちは「人と違う」ということ以上に何も言語化していないことだ。嘲笑するためにいっているのならば、優しいか言語化能力が乏しいのだろう。今度、そう言われたときは「どこが、なぜ」と問うてみよう。兎にも角にも、「変わっている」ということについて咎めはしないが、どういった人物なのかを「人と違う」レベルにしか言語化できていない、していないことには気づいて欲しい。それとも、ただそれだけを自覚させたいと受け取るべきか。

 お互い、自己がわかっていないようなので、信頼関係に応じて適切に表現し合おうか。(笑)

 

本文は以上になります。

 

最後になりましたが、

新年あけましておめでとうございます。

皆さんの2023年ウサギ年が

兎のごとく飛躍できる年であるよう

兎のごとく孤独死しないよう

脱兎のごとく危険回避できる年であるよう

保育園時代のマークがうさぎだった私が月に祈っておきます

遅くなりましたが、

引き続き、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

 

 

では、今回はこの辺で失礼いたします。最後まで読んでいただきありがとうございました。