自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~価値自由で暴力を広義に捉えてみよう~

 暴力とは抵抗できない相手に差異を見せつけるだけでも起こり得そうと思い、記事の付録にしたのですが、私が見返すときに便利なように記事にしました。

はじめに

 パワーハラスメントセクシャルハラスメント、マタニティーハラスメント、アカデミックハラスメント、ロジカルハラスメントなど、法律で定められているものかそうでないのも含めて様々なハラスメントと呼ばれるものがあるわけですが、正直ハラスメントって何だかよくわかりませんでした。たまたま、暴力の再定義を試みるきっかけがあり、以下のようなことを気付きました。(尚、以下での暴力という言葉は価値自由といたします。「暴力=悪い」となると、対策となりがちなので。)

暴力を広義に考えるとハラスメントも理解できそうだ 

 暴力とは、 物理的に殴る蹴るといった危害を加えることという説明は非常に部分的な説明だと気づいたのです。私が、説明しなおすなら、 暴力とは力関係に差があるもの同士が対峙し行為を通して関わった時点で発生するものであり、抵抗できない者に対して振るう行為はすべて暴力である、 と広義に説明します。

考えるきっかけ

 きっかけは、自惚れも甚だしいですが、 同じ授業を受けている学生と授業関連のことを話そうと思ったときに、私が繰り返し補足をしないといけない事態に大抵なると予測しています。「これ授業で言ってたんだけど~ 」というのを繰り返しかねないのです。「これ授業で言ってたんだけど~」 と繰り返し補足するのは不快に感じ、 知識の差を感じさせるのは暴力なのではなかろうかと思ったのです。私が、 どこまで説明したらいいのかわからずクドく説明するし、自分自身それが面倒だと思っているせいもあります。
 暴力とは力関係に差があるもの同士が対峙し行為を通して関わった時点で発生するものであり、抵抗できない者に対して振るう行為はすべて暴力であると考えた理由は、経済の先生と話すときは「わかっているよね」 という前提で話が進められるため、 話のメインが補足説明にならず目的である意見交換がスムーズにできるのです。 この知識量の差が意見交換に支障をきたさない程度のとき補足という暴力じみたことをしないので楽しんで会話ができます。

 まとめれば、私にとって「そんなこともわからないの?」 と思わせかねない関わり方は暴力を振っている気分になるのです。(なお、 私は暴力を振っている気分にはなりますが、 暴力を振られていると感じたことはありますが、すぐには認識できません。)

 

広義の暴力をハラスメントに当てはめる 

 最初の方に、 私なら暴力とは力関係に差があるもの同士が対峙し行為を通して関わった時点で発生するものであり、 抵抗できない者に対して振るう行為はすべて暴力である、と広義に説明しますと述べました。 知識の差以外の例としては、昨今聞き馴染みのある「マウントをとる」 というのが私の説明する広義の暴力の代表例です。他には、 大人と子どもの口論は明らかに言語能力の差があるので暴力ですし、 セクハラ行為だってなかなか抵抗できるものではないので暴力です。他にも、マタニティーハラスメント、 ロジックハラスメント(正論を振りかざす)、 モラルハラスメントももちろん暴力なのだとようやくこの考え方になって理解できました。 年長者から年少に対しての指摘も好ましいものでない限り抵抗しにくいですから、 暴力になり得ます。他の人が言うには「恥ずかしい」という感情を抱くとき、 何かしらの暴力を振るわれている場合があるそうです。「 頭が悪いと思われるのは恥ずかしい」みたいなのが例として言われた気がします。 当然を押し付け、押し付けられたら暴力が発生してしまうのかもしれません。

 能力の差異だけで暴力になりお互いが萎縮してしまうのは問題だと私は考えますが解決策が思いつきません。ただ、抵抗できたにも関わらず抵抗せず暴力を振るわれたと被害者側になろうとするのは、客観的に判別がつくつかないにせよ、自ら害を被る側に立ったことは酌量の余地ありと考えます。また、抵抗できない相手に力の差異を見せつけるのも暴力であり、誰しも容易に暴力という名の加害者側になることを自覚してやるとき咎められても仕方ありません。立場によって選択肢の有無は人それぞれではありますが、能力といった何かの差異を顕在化するだけで暴力になるならば、暴力を振るわざるを得ない人への選択肢と免責、暴力に抵抗できない人への断る自由といった権利の説明は必要そうです。

終わりに

 そして一つだけ忠告として、このように広義に暴力を定義する場合、暴力は時・場合・場によっては常に変化しうることを誰しも忘れない方がよいかと思います。意図せずとも常にマイノリティとマジョリティという立場は入れ替わるのですから。あと、この記事では暴力を価値自由とし広義に捉えましたが、社会でいうハラスメントの類は価値自由ではなく、能力といった何かを顕在化しただけでも悪になり得ますので、気を引き締めた方が良いでしょう。

 最後に、ここまで暴力とは力関係に差があるもの同士が対峙し行為を通して関わった時点で発生するものであり、 抵抗できない者に対して振るう行為はすべて暴力である、と広義に考えると、古代ギリシアの公的な場における自由人たちの平等のありがたみがわかる気がします。

 今後合わせてルサンチマンハンナ・アーレントの『暴力について』の記事も出せればと思います。

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録 会話の量を均等ではなく、均衡に(3/9)

 現在に至るまで、会話の量は相手の人数に応じて平等にしないといけないと自らにルールを課しておりました。二人なら1人:50%、三人なら1人:1/3%、四人なら1人:25%といった具合にです。会話の量は均等にするというルールを自分に課していたのは、家族からマシンガントークと揶揄されていたためです。会話量が均等になるように意識すると、相手が話すようなら会話に不満を感じなていないという空気を読む良い指標になります。ただ、これには必ずしもみんなが話したいわけではない、聞き専という言われる人々は自分がターンが回ってきても困るというのも聞いたことがあり、完璧な指標というわけではないと薄々感じていました。また、誰かから「平等というのは神の下の平等とか、法の下の平等とか言う風に使う」みたいなことを言われて、どうにも私は平等の使い方を少々間違えているという実感がありました。

 そんな中、遂に、会話の量はどうだったら適切なのかやっと思いついたんです。ずばり、会話の量は均等が適切なのではなく、「会話量の均衡」を目指す必要があるんだと。相手には話したい量と聞きたい量がある、私にも話したい量と聞きたい量がある、この需要と供給が均衡にいたるところを目指して会話量をコントロールすればいいんだとバイト中に気づいたんです。自分が無理して会話を埋める必要もなければ、相手に頑張って話をしてもらおうと努力する必要もない。だって、私は聞きたいと思っているが相手は話したいと思っていないのですし。

 今日からは、会話が均等にできている状態を目指すのではなく、お互いの聞きたい・話したいの欲求の需要と供給を均衡状態を目指します。相手を選ぶことも忘れないように気をつけたいです。まあ、最初はとりあえず均等からはじめて、需要と供給に合わせていきたいです。

 以上、私のおかしなルールと気づきでした。均衡は他にも当てはめられそうなので試したいと思います。

 

着想は2021年下旬に読んだ論文より

6. 親密な関係におけるバランスのとれた交換

 対人関係の満足度は、多くの手がかりを基にして形成される関係を結ぶことによる満足感が報酬となり、その報酬価と自分が投入したコストとの均衡の程度によって左右される。われわれ個人の報酬増大を目指すものの、衡平理論の見解にしたがえば、一方的に利益を得ることは心理的な満足感を最大にするとは限らない。特に、親密な関係においては、他者との均衡が重要なテーマとなる。

 大坊郁夫,2004,「親密な関係を映す対人コミュニケーション」『対人社会心理学研究』(4):1-10,(取得日2022年3月9日 URL:jjisp_04_001.pdf (osaka-u.ac.jp) ).