自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~諦められるのは何か、諦められないのは何か~

 洗い物をしていたら対等と平等のどちらが後か先か並みにいい考えが降ってまいりまして、意気揚々と書き留めたいと思います。荒削りではありますが、温かい目で読んでいただけると助かります。

 

 私の考える自由の枠は、「自由とは、個々人が必然にとらわれず歴史と未来と世界に配慮して見出した理念の実現を目指し、現在、動ける、動いている状態であり、また同時に常に理念と理念を実現する手段に固執せず、必要とあらば闊達に変えられる自己の精神状態も含む」というのが私の考える自由の枠組みだ。

 個々人の理念は、全てではなく何かである。トレードオフならぬ何かを諦めないと何かは手に入らないと私は考えており、理念の追求には必然的に諦めが生じる。期待は、目的とするか副産物に留めるかみたいな感じだ。大学に学位取得を目的とした場合、目的はあくまで学位であり単位になる。大学でできる友人はあくまで副産物に過ぎない。(ただし、‘’大学の友人‘’と限定した場合は目的になり得る)目的の実現には諦めが生じ、良い成績で単位を取るためには、よほどの天才でない限り何かを諦めざるを得ない。時間の有限、体力の有限、能力の限界などにより、全てを手に入れるのはできない。その他の副産物はあくまで期待に留まる。

 では、何だったら諦められるのだろうか。人間は必然というのがあるため生理的欲求は諦めることは不可能だ。人間である以上、不老不死は無理だ。必然は諦めることはできず、不老不死、すくなくとも不死は人間である以上あきらめてもらうとして、では何を諦められないものと位置づけようか。幸福はあまりにも要素を詰め込んだ言葉といえるので、全ての要素をあげて実現するのは欲求が明解でそれを実現しうる力がある人以外無理だろう。で、何を諦められないものと位置づけようか。

 私の感触としては、全てを諦めないが消極的な自由だと思う。全てを諦めないとは、逆説的に言えばすべて同価値といっていようなもので、何も選んじゃいない。積極的な自由は、必然以外に諦められる何かは後回しにし、諦められない何かを選択し注力している状態といえる。意味のわからない例で申し訳ないが、例えば、最後の晩餐を考えたときに何を食べたいだろうか。全ては胃の関係上からいって無理なわけだが、何を食べたいだろう。ありとあらゆる食材や料理の中から回答者は何かを選ばないといけない、諦められない何かはいったいなんなのだろうか。

 消極的自由は全てを諦められない、諦めない状態である。一方で、積極的自由は諦められない何かのために自ら自由を選ぶ(諦められる状態)、必然や不死以外に何かを諦められない何かのために諦められる、諦めている状態だと私は考える。何かを諦めてでも理念を追求しようとする状態って本当に積極的自由だ。

 何かを握っていたら何も握れないように、何も手放さない手はそれ以上掴めない。何が諦められないのか、そこに個々人の価値観の神髄がうかがえるだろう。

 

備考(2022年4月2日)

消極的自由・積極的自由のデフォルト

消極的自由:~からの自由

積極的自由:~への自由

 

自由研究における消極的自由・積極的自由

消極的自由:~ではない、~でなかったらいい、不満がない状態

積極的自由:何かを諦めてでも理念の追求を目指す、目指している状態

 

 

備忘録(2022年4月5日)

「自由とは、個々人が必然にとらわれず歴史(他者)と未来(他者)と現在の世界(他者を含む)を踏まえて見出した理念の実現を目指し、現在、動ける、動いている状態であり、それと同時に常に理念と理念を実現する手段を自己批判し、学び、論理に基づき必要とあれば軌道修正を厭わない闊達さを伴う状態である。」

 

備忘録(2022年5月22日)

「自由とは、個々人が必然にとらわれず歴史(他者)と未来(他者)と現在の世界(他者を含む)を踏まえて見出した理念を実現する意志を持ち、現在、動ける、動いている状態であり、それと同時に常に理念と理念を実現する手段を自己批判し、学び、時には表現し、必要とあらば論理に基づき軌道修正を厭わない闊達さを伴う状態である。」

人間のみに観察される状態であるが、必ずしもすべての人間で観察できる状態ではない。

 

 

思考源

・男女平等(非対称性)

・権力(司法・行政・立法・メディア・お金・医療)学問…宗教…必然…未来を握ること

・歴史において権利は与えられるものではなく勝ち取るもの

・勝ち取るためには…