自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~psycho-passの槙島聖護と御堂将剛~

今回の内容は、久しぶりにサイコパス槙島聖護だけのシーンの音声を聞いていたら「自分であること」を考えさせられる現代の風刺的な要素が数多く入っていたので今回は五話まで分析しようと思う。断っておくが、主人公である常森朱ではなく悪役である槙島聖護の視点で分析する。

 

psycho-pass一期・新編集版のあらすじ

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASSサイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。
その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた 。
そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた 。
本作品は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く[13]

引用 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/PSYCHO-PASS#%E7%AC%AC1%E6%9C%9F%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98

以上が物語の設定である。

内容は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーの中の新人監視官である常森朱と元監視官であり現在執行官である狡噛慎也を中心に物語が展開し、不可解な事件に遭遇していく。狡噛は過去に残酷に仲間を殺されており、犯人に復讐しようと企んでいたため、数々の不可解な事件が同じ黒幕によるものだと勘づき勘づきはじめついに黒幕である槙島聖護にたどり着くがドミネーターでは裁けなかった...。

この槙島聖護は黒幕でありながらよく登場するのでとても分析しやすい。

 

槙島聖護の目的

「どこかの誰かが、愚かな人類どもと言ったとして、その人類には、当然自分自身も含まれている。人間について知りたいと思ったら人間を見ているだけではいけない。人間が何を見ているのかに注目しなくては。君たちは何を見ている?僕は君たちを見ている。信じられないかもしれないが、ぼくは君たちが好きだ。昔からよくいうだろ、愛の反対は憎悪ではなく無関心だ。興味がないのならわざわざ殺したり痛めつけたりしないんだ。...」

第一話の冒頭のセリフがこれ。だから、槙島聖護を分析するとき彼が何を見ているかに注目すればいい。

 

槙島聖護とみどうまさたけ

「ああ、君ならすがわらしょうこより、完璧なスプーキーブーギーが務まるよ。はやまきみひこより完璧なタリスマンになれたようにね。」

補足:この世界では高機能アバターというのがある。みどうまさたけの犯罪は、アバターをただ乗っ取るのではなく、アバターの主を殺し乗っ取ってそのアバターを主が変わったかバレないレベルで代わりにアバターになりきる。はやまきみひこを殺してタリスマンになりきる。すがわらしょうこを殺してスプキーブーギーになりきるというもの。

【シーンが変わる】

槙島聖護「ところで、みどうまさたけをどう思う?」チェグソンに聞く

チェグソン「不安ですね。目立ちたがりは犯罪に向かない」

槙島聖護「そこが面白いんじゃないか。今回の事件を通して彼の真価が試される。人間の価値をはかるにはただ努力させるだけではだめだ。力を与えてみればいい。法や倫理を手に入れて自由を手に入れたとき、その人間の魂が見えることがある。弱者が強者になったとき、善良な市民が暴力をふるう自由を手に入れときも、そういう時に何が起きるのか、興味があるんだ。」

チェグソン「旦那はやるんですか、ネットや高機能アバターやら」

槙島聖護「たまにの覗くよ。情報収集さ。全体的にアバターをまとったほうが、人は本音に近いことを語りやすいと思う。さっきも言った通りある種の自由があるんだろう。しかし、安易な手段で手に入れた自由はすぐにチープな万能感に化ける。さて、みどうまさたけはどうなるかな。」

【シーンが変わる】五話

スプーキーブーギー「でもね、もうちょっと上手くできなかったかな、みどうくん、ね。」

みどうまさたけ「ちょっとまって」

タリスマン「僕はずっと探してしている。知りたいことがあるんだ。そのためにはどんなことでもやってきた。」

メランコリア「ねえ、君寺山修司を読んだことは?」

みどうまさたけ「寺山...」  (以下みどうまさたけ以外声は違うが槙島聖護

「読むといい、戯曲さらば映画よ。みんな誰かの代理人なんだそうだ。代理人たちがさらにアバターを使ってコミュニケーションを代理させている。」

みどうまさたけ「あんた、槙島」

「あらゆるアバターの個性を熟知し、完全に模倣する。なにものにもなりうる、君の個性とはどのようなものなのか。僕はとても興味があった。だから、人を貸した力を貸した」

「でもね、そろそろ底が見えてきた、最後の幕引きぐらい借り物ではなく君ならではの趣向を凝らしてみてはどうだろう」

みどうまさたけ「くそ...何を...」

「何者としてもふるまえることのできる君自身は結局のところ何物でもなかった。君の核となる個性は無だ。からっぽだ。君には君としての顔がない。のっぺらぼうだからこそどのような仮面でも被ることができたというだけだ。」

みどうまさたけ「うるさい、黙れ」

「そろそお別れだ、みどうまさたけ。」

「死を運ぶ猟犬たちのお出ましだ。」

以上がみどうまさたけについて槙島聖護が言った内容。

考察

複数のアカウントとアイデンティティ

この槙島聖護とみどうまさたけの関わりの面白いところは、現代のSNSの現状と似ているところだ。SNSはある種なにものにでもなれるわけだが、どうだろうか。本アカ(本アカウントの略。リアルな人間関係でつながっている場合が多数)、「SNSどに同一人物が持つ複数アカウントうち実際の自分として書き込みなどをするアカウント本アカ。→捨てアカウント →偽アカウント →別アカウント」(出典は思考源参照)。このように、人は内容によってSNSのアカウントを使い分けているので、なりたい自分・見せたい自分をコントロールしているといえるし、実際そうだ。

槙島聖護的に考えると、SNSである種の自由を手に入れ、その人はどのような自分になるのかが重要なわけだが自分自身であるのか振り返ったほうがいい。

まあ、アカウントを使い分けるのはこれはこれでアイデンティティの観点から考えると「自我アイデンティティの感覚は<自分自身の内部の斉一性と連続性(心理学的な意味における自我)を持続する能力>が<他人にとってその人がもつ意味の斉一性と連続性>と調和するという確信から発生する」というアイデンティティの定義からは反れるわけだが、どのように読者はお考えだろうか。

アイデンティティ(Ego-Identity;自我同一性)の説明は青年心理学通りに説明すると以下の通り

・斉一性≒同じであること

様々な役割・立場があっても全体として「私は私である」という感覚

特に日本は立場によって自分の呼び名がかわるが、それでも「私は私である」という感覚。筆者を例えに出したいが社会的地位が少ないので定番を。母親である私、娘である私、姉である私、先生である私、妻である私みたいな感じでも「私は私である」という感覚が斉一性である。

・連続性

過去の自分も現在の自分も未来の自分もすべてつながっているひとりの「私は私である」という感覚

→どのような状況にあっても「自分は自分である」という感覚を維持できる

⇒自我の機能

つまり、黒歴史で過去の自分を葬ろうとするのは連続性が欠如しているのでアイデンティティの確立には遠い

・「自分自身の斉一性と連続性」と「他人にとってその人がもつ意味の斉一性と連続性」と調和するという確信から発生する

これは、私は私であるし、他者の考える私も同じ私であることを確信していること。つまり、A→A←Bという視点である。言葉で説明すると自分が定義している自分と他者が定義する自分の差がなくなっていく。

以上がなりたっている状態のことをアイデンティティの感覚というそうだ。

話を戻すと、SNS複数アカウントをあたかも別人かのように使い分けるのは、アイデンティティを確立しにくい状態なのではないかと思う、というのが言いたいこと。

SNSの面白いところは、自分であることが非常にバレにくいところだ。最後のシーンの槙島聖護の発言は最少はアバターチックに最後は槙島聖護自身が言っているように口調がかわっている。言動でも個性が表れるわけだが、SNSの自分であっても一貫しているだろうか。

誰かを誹謗中傷したとして周りにばれても「そういう人じゃん」で終わり、失わないくらいの人間関係を持っているだろうか。それなら投稿内容を統一しなくていいならアカウントを複数持つ必要もないわけで、他者から見た自分の定義と自分自身の定義と差がなくなっていきアイデンティティの確立がしやすくなる。アイデンティティの確立の重要性は「自由とは自分であること」であるから自分の人生を生きたい場合に非常に重要なのである。

 

終わりに

何者にもなれるSNSで読者は何になっていますか。自分自身でしょうか。ブログはSNSの部類かわかりませんが、ブログには私が考えていることで説明が長くなる系の対面で話すには需要のない話を書いています。一番話題にしたいことなんですが、盛り上がらないのでしません。それに聞かれません。やっぱり、「何か話したいことはないのか?」が少なくとも私とコミュニケーションを取るうえで重要な質問かもしれませんね。

槙島聖護はみどうまさたけが何者かであるということを見ていましたが、個性がないので束縛のない自由を与えられても模倣することしかできませんでした。これは自由からの逃走と通ずる面があります。学ぶことは模倣することから始まりますが、なんというか自発的とは難しい気がしてきます。過去の囚人ですね。

自分は自由になったとしてもこのままですので自由は実感できなさそうです。だって、自由になったとしても責任というか社会的損失がでるのなら致し方ないのですよ。例えば、就職の面接時に化粧がマナーらしいですが面倒を理由に自由にあらがったところでね。それなりの対応を受けるわけですしね。難しい問題ですね。

実はこのアニメの脚本家が私の大学の卒業生みたいなんですが、なんか嬉しいです。

気が向いたら、一期全部の槙島聖護の視点を分析したいと思います。

Amazonプライムpsycho-passの一期が見れるのでよかったらどうぞ。それと、一期と新編集版まではお勧めできますが、それ以外のシリーズは...。

やっぱり、ちゃんとアニメ見たほうがいいです。

言いたいことはアイデンティティの話ではなくてカメレオン・アーミーの話だったんですがね。それは、また今度にします。

以上です。

 

付録の答え

問題 

”きょうせい”に入る漢字はなんでしょう?真ん中の二つの”きょうせい”は同じ漢字です

きょうせいするためにきょうせいし、きょうせいするためにきょうせいする

 

模範解答 共生するために強制し、強制するために矯正する

 

思考源

アニメ psycho-pass 一期・新編集版 五話まで

本アカウント意味 https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88-676080#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

アイデンティティの定義 大学の講義 青年心理学自己編 授業資料