自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

雑談 終わりのないコミュニケーションの練習

 今回の記事は、

1.伝える相手の情報がコミュニケーションを成功させる上で重要ではないかという話

2.人々はよく話す人向けのコミュニケーションスタイルをベースに色々な人と話しているのではないかという話

3.初めて話す人に合わせてコミュニケーションをとるためには時間が必要ではないか

4.企業の面接をお見合いと表現するのはジョークですか

5.話すときに結論→本論→結論ってドーナツ型でつまらん

6.自分の意見を補強するデータ探しは情報の大海に身を投げるのとかわらないんじゃないか

という流れになっています。一番面白いので読んで欲しいのは4の企業の面接をお見合いと表現するのはジョークですか、です。どうぞお楽しみください!

 

 実務経験を積むために、まずは業務に携わるべく就職のために勤しむなかでエントリーシートや質疑応答、グループワークをする機会があります。

 エントリーシートで添削されると悲しいことに何言っているのかわからない、相手に優しくといった文言つきで帰ってきます。最初に「あー、直さないとな」と思いつつ、何言っているかわからないって何だと思うのです。何言っているかわからないという一言で過去を振り返ることにしました。もしや、これまでコミュニケーションが取れていたと思っていたが、実はとれていなかったのかもと。しかし、過去を振り返れば自分の書いた文章で奨学金がもらえたり、人と意思疎通をとれている感覚もあったわけで、全てが砂の城ごとく、コミュニケーションがとれていなかったと否定されるものではありませんでした。

伝える相手が誰かわからないと伝わる文章は書けない

 エントリシートや面接の話をしていてふと疑問に思ったのが、なぜ私は誰かよく知りもしない相手に向かって文章を書こうとしているのかというものです。

 普通のコミュニケーションでは、話しかける、メッセージを伝える相手に適するであろうやり方でコミュニケーションをとります。自分は大雑把にしかやりませんが、さすがに、未就学児や小学生ぐらいならコミュニケーションスタイルを変えます。文章でも口頭でも、何かを伝えるといった場合、具体的な誰かをイメージしてメッセージを練り上げます。エントリーシートが上手くかけないのは、誰かもよくわからない相手を想定して文章を書くからなのではないだろうかと思ったのです。

人々はよく伝える人に最適化された伝え方をするのではないか

 次に、疑問に思ったのが、自分が意思疎通に失敗したことはあったが、確かに成功している事例もある。私の話し方というのは特徴的であります。

・話が飛ぶと思われる、話している間になぜ話していたのか忘れる

・話が長い

・99.9%を相手に理解してもらうために説明しようとし補足が必ずある

・主語がない

・会話とはそういうものではないかと思うので自分の中でも不鮮明でなることを会話にあげたり、質問したりする

・自分の言っている用語を使わないと相手は理解していないと思うときがある。

 その他にも特徴はありますが、おおむねこんな感じです。

 話が長く、わかりにくいと言われるので中学生ぐらいからずっと伝える練習をしてきました。その練習が最も反映されているのは大学のレポートです。会話でも練習が成果を出しつつあり、話しはじめのときに結論から話すというのを思い出し、「じゃあ結論からいうね」と言って結論から話せるときもあります。現在の私の話し方は昔と比べたら進歩した方であり、まだまだ発展途上であります。ちなみに、私の考えを明確に伝えるなら視覚的な補助のためにホワイトボードが必要です。ええ、もう、人によっては確実に必要でしょうね。コミュニケーションが上手くとれないのは、私の思考方法と恐らくかなり人と違うからだと予想しています。ただ、みんなの思考方法は知る由もありませんが。だからこそお互いのためにもホワイトボードなどを使って順序立てて話していく必要がある。面接ではそれができない。

 話を戻すと、いままでの特徴のある話し方でも問題がなかった理由は、相手のおかげでコミュニケーションが成り立っていたからだと思う。別に問題がなかったわけでは決してなく、話がはずまない人ももちろんいたし、わからない人もいた。同じ内容を私が伝えた場合と別の人が伝えた場合で理解に差があるといった妙な経験もしたことがある。話し方は、自分がよく話す相手にあった話し方になる。小学校の先生だった人と話すと、小学生に使うであろう表現が頻発するのがいい例だろう。

 確かに我々は、人によってコミュニケーションスタイルを変えることもできるが、基本的には日常的なコミュニケーションスタイルをベースに、非日常的なコミュニケーションにもあたるのであろう。

 どうでもいい話かわからないが、私の家族以外の日常的なコミュニケーション相手は比率的に大学の男性の先生が多い。おそらく、この人たちと自分が合わせやすい波長でのコミュニケーションが常態化している。この前久しぶりに中高年女性と話したら言っていることがわからないと言われたが、もしや中高年男性とだったら上手くかみ合ったのではないかと思ってしまった。(よく話す中高年女性はカウンセラーと母親、あと大学の先生が1人いたか)前述の通り、同じことを話しても誰に言うか、誰に言われるかで相手とかみあうかどうか変わる。だから、面接相手がどのような人物かは私にとって非常に重要だ。

 私にとって面接やインターン、知らない人との会話は非日常であり、日常的な大学の男性の先生と話す方法でそれらに臨んだら、おかしなことになりかねないし、おかしなことになっている。話す内容も全く違うのもあるだろう。基本に私事や相手のことは話さず、「Ithink that ○○ is~」である。「I like ○○, because」じゃないのだ。私のことを聞かれても、あなたのことをメインに話されても、ただただ困る。

 私は自分のコミュニケーションスタイルが嫌じゃない人と関係が続く。ただ、小学生に話す場合に話し方をかえるように、目の前の誰かにあったコミュニケースタイルに変更することだってできる。ただし、それには時間と観察が必要だ。面接やインターンを通して合わないと判断されても、そんな短時間・短期間、場合によってZOOMで、雑談もなしで、相手がどういう服装をしていたり、どう他の人とコミュニケーションをとるのか観察していない中でその人にあったコミュニケーション、そう分人を生み出すのは困難だ。分人の説明と、分人がいかにしてできるか触れておこう。

 まず、イメージをつかんでもらいたい。

 一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、・・・・・・あなたという人間は、これらの分人の集合体である。個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって対人関係の数は違うので、分母は様々である。そして、ここが重要なのだが相手との関係によって分子は変わってくる。

 関係の深い相手との分人は大きく、関係の浅い相手との分人は小さい。すべての分人を足すと1になる、と、ひとまず考えてもらいたい。

 

 分人のネットワークには、中心が存在しない。なぜか?分人は、自分勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。私たちの生きている世界に、唯一絶対の場所がないように、分人も、一人一人の人間が独自の構成比率で抱えている。そてい、スイッチングは、中心の指令塔が意識的に行っているのではなく、相手次第でオートマチックになされている。街中で、友達にバッタリ出会して、「おお!」と声を上げる時、私たちは、無意識にその人との分人となる。「本当の自分」が、慌てて意識的に、仮面を被ったり、キャラを演じたりするわけでもない。感情を隅々までコントロールするなど不可能である。

・・・・・・。

 ・・・・・・。誰かと会う度に、まったく新しい自分であることはできない。出社する度に、自己紹介から始めて、一から関係を結びなおすという、バカげた話はない。

 私たちは、朝、日が昇って、夕方、日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら、身の回りの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねている。

 人格とは、その反復を通じて形成される一種のパターンである。

 この人とは、こういう態度で、こういう喋り方をすると、コミュニケーションんが成功する。これに付随して、喜怒哀楽様々な感情が自分の中で湧き起こる。会う回数が増えれば増えるほど、パターンの精度はあがってゆく。また、親密さが増せば増すほど、パターンはより複雑なコミュニケーションにも対応可能な広がりを持つ。それが、関係する人間の数だけ備わっているのが人間である。

出典:平野啓一朗,2019(2012)『私とは何かーー「個人」から「分人」へ』,講談社

 とにかく言いたいことは、時間やコミュニケーションの回数がある程度ないと、その人にあったコミュニケーションをとるのは少々難しいということである。

 よく企業との面接はお見合いと例えられたりするが、いったん立ち止まって考えても見て欲しい。現代の結婚においてお見合いは廃れているという事実を。結婚願望者、結婚経験者は同性だったり、交際に時間をかけて相手との相性を見定めてたい、見定めてきたはずだ。定年まで同じ会社で勤め上げるということ以外考えなかった頃は会社と結婚するという表現があった。現代は転職が増えつつあるが定年まで勤めあげる人もゼロにはならないだろう。短時間、短期間でお互いの相性を判断するのは難しいと知っているにも関わらず、そのような採用をやめず、面接を「お見合い」と表現し続ける。ジョークなんだろうか、誰かツッコミをいれてやって欲しい。この話に試用期間がとかツッコミを入れたい人もいるだろうが、そんなんだったら新入社員の離職率なんて出してない、問題になっていないだろう。新入社員の離職率、すなわち企業との相性が悪かったという人が多いということなのだから。(イコール関係ではなくても近似はするだろう)現代はお見合いではなくマッチングと例える人もいるかもしれない。だが、マッチングアプリで付き合おうが、交際期間という相性が合うかの見定め期間というのは必ずある。私はその見定め期間がないと言いたいのだ。どんな人か面接でわかったら、結婚相手を決める方法でお見合いは廃れないだろうし、マッチングで最高の相手が見定める交際期間なく、すぐにゴールインだろう。(交際期間と離婚率の相関関係のデータはないのだろうか)

 とりわけ日本企業よ、相性が合うか合わないかは面接ではわからないことがわかっているのだから、お互いの相性を見定める期間というのを設けてもいいのではないだろうか。一歩譲って、試用期間がその役割を果たすとしよう。それを使って新入社員がやめようと思ったときに行動に踏み切れるように、ぜひとも新卒一括採用を、新卒優遇、ある種の年齢差別をいい加減やめるべきだ。そして、また正社員と非正社員の同一賃金をすべきだ。何度も言うが、採用面接をお見合いと表現し、自分で自分を皮肉ってることに気づいてやめて欲しい。

 それから、私の話し方は私の思考の流れの表れであり、こんな盲点に気づけるのはこの思考の流れのおかげなのである。結論→本論→結論というドーナツみたいな会話じゃ、思考や考えの拡張はできない。時と場合で使いわけるべきなのは重々承知だが。私が人と話す目的は、思考や考えや知識の拡張である。(まさくしく人工知能

 説明・紹介・会話・対話・議論・面接など別に話し方を変える努力は今後もしていこうとは思うが。

 

付録 期限のある課題をやるときに情報の大海へと身を投げれるか

 最近いつも思うのが、自分の考えを伝えることが重要なのではなく、嘘をついてでもいいから答えられる、発表する際に形になっていることが重要なのではないかと思う。これは英検の筆記試験のときに思ったことで、「新入社員の給料は今後あがるか?」という質問に対して、自分はあがらないと思っても、あがるという回答の方が答えやすいのから思ってもないことを解答するというものだ。レポートだったら、自分の考えはあったとしてもデータがないので、データが集まるであろう内容でレポート作成に挑むというもの。この社会に自分の言いたいことを補強してくれるようなエビデンスを見つけるのは骨が折れる。そして、データがないこともあるだろう。(最悪なのは、データがないことを証明することはできないことだったりする)時間制限が厳しい課題をやるならば、発表に間に合うように、集まるデータで意見を考えた方が合理的である。そんなデータ収集など至極つまらない。それゆえ、課題をやるのもつまらない、発表する意欲も当然失せる。そのため、自分の意見を補強するあるかわからないデータを集めるために情報の大海へと身を投げるか、あるであろうデータで意見を作るかは非常に迷うのである。

 

終わりに

この記事を書き始めたときは、どうやったら人に伝える能力が上達するのだろうかと悩んでいましたが、記事を書き進めるうちに採用面接をお見合いと表現するのが、自分で自分を皮肉ってると気づいて、沈んでた気分からドンドン楽しくなってきて、早く誰かにこの記事を見て欲しいと興奮気味になりました。まあ、どうせほとんどの人に別に面白くないと思われるんでしょうが。私が意気揚々とするような面白い話は家族に行っても反応が悪いのでね。

 

では、まあ、今回はこの辺で失礼します。最後まで読んでいただきありがとうございました。