コミュニケーションの話をするとき恋愛映画「花束みたいな恋をした」のシーンをよくとりあげる。麦君役の菅田将暉と絹ちゃん訳の有村架純ダブル主演の映画である。映画では、この二人の大学生での出会いから社会人になって働いて別れるまでの5年間が描かれている。感想は、坂本裕二が脚本の作品は台詞がよく考えられていて面白かった。
映画「花束みたいな恋をした」のシーンを紹介したい。
この二人は趣味関心がサブカルチャーであったためか、趣味関心の話をする相手がいなかった。そのとき、たまたま二人は飲み屋で話す機会があり意気投合する。絹ちゃんが自分を励ますとき思い出すことは、「自国開催のワールドカップでブラジル代表は準決勝でドイツに負けてしまった、あの時ほど自分は惨めではない」というものであった、多分。これが映画の序盤にでてくる。二人は、趣味関心を互いに共有しどんどん仲を深めて、デートしたり、同棲していく。絹ちゃんは麦君が就職をきに忙しくなってしまって趣味関心を共有できなくて悲しい気分になる。このあたりで、二人は別れることにした。すぐに同棲解消(引っ越し)ができるわけではないので、一定期間、同棲を継続することになった。あるとき、二人は共通の友人の結婚式に二人でいく。その帰りのファミレスで麦君は「やっぱり結婚しよう」、絹ちゃんは「雰囲気に流されているだよ、別れよう」といって、決定は変更されなかった。
この後の帰宅の道中のシーンで麦君がブラジル代表の話を口に出した。2014ワールドカップのブラジル対ドイツ戦に対しての2人が注目しているところを比較して欲しい。
映画を見返していないので断定はできないが、多分、このインタビューだと思う。
【麦君が注目したところ】
涙ながらにインタビューに応えたD・ルイスは、「いろいろなことに苦しんでいる人々に喜びを与えたかった。けど、残念ながらそれはできなかった。ブラジルの皆さんに謝りたい。皆さんの笑顔が見たかった。フットボールがどれほどブラジルの人々の幸せになるかは誰もが知っています」と謝罪の言葉を口にした。
また、「彼らは僕たちよりも上だった。いい準備、いい試合をしていた。6分間で4失点だ。大きな悲しみの日となってしまった。けど、人生においてここから多くを学ばなければ」と思いを絞り出している。
出典:T・シウヴァに代わり主将務めたD・ルイスは落涙「皆さんに謝りたい」 - ライブドアニュース (livedoor.com)
【絹ちゃんが注目したところ】
ブラジルの新聞は、この試合を"史上最大の恥" (Lance!)、"歴史的屈辱" (Folha de S. Paulo)、"ブラジルは殺された" (O Globo)、といった見出しで結果を酷評した。一方で、ドイツのビルト紙は"稲妻のドイツ代表"が"7–1の狂喜"をもたらしたと報じ、フランスのレキップ紙は簡潔に"大惨事"と表現した[49]。イギリスのSky SportsのMatthew Stanger記者は"最大の困惑"と書き[50]、アメリカのESPNのMiguel Delaneyはこの試合をMineirazoと呼んだ[51]。イギリスのガーディアン紙のBarney Ronayは"今までで最も屈辱的なワールドカップ開催国"と書き[52]、イギリスのインデペンデント紙のJoe Callaghanは"ブラジルサッカー史上最も暗い夜"と書いた[53]。
絹ちゃんはこれを踏まえて、「あのときのブラジル代表ほど惨めではない」と考える。麦君は、どう考えていたかは忘れた。すみません。
「花束みたいな恋をした」を考えてみる。
2人は、趣味・興味関心が同じ人と出会い嬉しかった。そう花束みたいに。ただ、ワールドカップへの見解の違いを考えると、確かに趣味・興味関心は同じであったが、実は同じところが好きではなかった、のではないだろうか。例えば、ジャニーズの嵐が好きという二人がいたときに、ひとりは曲が好き、ひとりはダンスが好き、もしくはバラエティーの掛け合いが好き、と実は同じところが好きなわけではなかったりする可能性がある。「○○の漫画が面白いから貸してあげるから読みなよ」「どうだった?」、といったとしても同じところを面白いと感じるとは限らない。むしろ、同じところを面白いと感じるのは稀だろう。
映画の2人は、確かに同じものを見ているが、同じところに注目・関心をもっていなかった。その感性の違いに注目を移行していく必要があったのだろう。二人で同じものを見るのではなく、お互い見合う、物や事象から徐々に人間へと注目をずらすという風に。そうでなければ、それこそ「相手に関心がある」にはならない。もの、情報、アクティビティ、空間、時間を共有しているから関係が保たれるのであって、それがなくなれば関係がなくなる。ただし、共有したとしても同じものを見ているとは限らない。だからこ、感想の共有や質問を通してすり合わせるのに意義があるといえよう。
映画では、ファミレスで麦君と絹ちゃんがの2人でひとつのイヤホンで同じ音楽をきく、聞こうとするシーンが冒頭にある。そのシーンでは、隣のおじさんが、「イヤホンの右耳用と左耳用では出ている音は同じじゃないから、同じ曲を聴いているようで、聞いていないんだよ。」みたいな感じでわざわざ言ってくる。その話を受けて二人はひとつのイヤホンで同じ音楽をきくのやめる。それをきっかけに、二人は誕生日にワイヤレスイヤホンを互いに送り合う。
後日、成長して結婚式の参列後に入ったファミレスで二人は5年前の自分たちと重なり合う若いカップルがイヤホンで同じ音楽をきくところをみて、ふたりはおじさんに注意されたことを思い出す。
後日、わかれた後に、二人は偶然カフェに居合わせた。お互い現在の恋人をつれていた。二人は、またカフェで若いカップルがイヤホンで同じ音楽をきいているのを発見し、おじさんと同じように同じ音楽は聴けていないことを説明しにいこうとした。しかし、同じ方向に向かっている誰かに気づき、麦君と絹ちゃんは偶然遭遇したことに気づく。その前後で、お互い一緒にいた恋人とひとつのイヤホンで同じ曲をきくことについて話していた。そのとき、二人の恋人は、「同じ曲が聞きたいというよりも。。。」と話す。私が続きを忘れてしまったので、私の想像でおぎなってしまうが「同じ音が聞きたいというよりも、お互いの興味関心をひとつのイヤホンで分かち合うというのが大切なんだよ」と恋人に窘められていた。
この記事の内容、映画「花束みたいな恋をした」の話を友だちと話していたことがある。すごく盛り上がったし、面白かったのも覚えている。ただ、相手のことを知っているかと聞かれれば、何が好きとか、何が嫌いとか、なぜ映画が好きとか、そういうのは全く知らない。相手のことをあまり知らないことに愕然として、違う友達に、猫やゲームが好きとか、服にこだわりがないとかぐらいしか知らないんだよね、と言ったら「こちらから情報を与えていないからね」と言われたことがある。私は基本的に、その人が口にしない情報を知らないし、質問しない、深追いもしないのでそういう風になっているのだろう。プライベートな話や興味関心についての自己開示をしたくない人にとっては非常にいい話し合い手ともいえる。
コミュニケーションの練習に終わりは見えそうにない。自分の話したいことがないときに家族に話かけるように、とりあえず、「今日の仕事どうだった?」と聞いてみようか。外国人思わせる問いの投げ方らしい、、、。興味はありませんが、コミュニケーションと今後の共同作業のためにも、「今日授業どうだった?」と聞いてみようかしら。 何事も自分が想定するようにはなりにくいのだから。
合唱をしているときに自分が上手いかどうかとか、全体的にバランスがとれてハモれているかは、音楽の最中にはよくわからない。録音を聞き返してみてはじめてどうだったかわり、どうすればいいかを考えられる。ただし、自分の声をある程度認識していなければ、聞いたところでどうしようもない。同様にコミュニケーションも即興でやっている時点で改善していくのは難しくて、思い返したり、指摘されてはじめてよくなる兆しが見えるのかもしれない。ただ、どんなに考えていても相手がどう思っているか聞かないとわかりようがないし、同じような会話というのは二度とないので悶々とするばかりである。自然がすべていいと全肯定しようとは思わないが、歩き方を意識するあまり歩けない現象が私のコミュニケーションに起こっている。
以上で終わります。
では、また。(なんか、二番煎じみたいな記事になってすみませんでした)