自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

雑談 久しぶりに自分の部屋を片付ける

 クーラーが限られた部屋にしかないわが家では、夏のクーラーがないと本当に熱中症になって死にそうになる故、クーラーのある部屋でみんなで寝ます。近頃は、秋になったこともあり過ごしやすい気候になりまして、クーラーをつけることがなくなったので自分の部屋で寝なさいと言われてしまいました。実のところ期限からもう1ッカ月も経ってしまったので、しぶしぶと言いますか、いい加減、寝れるように自分の部屋を片付けようと思った次第です。久しぶりに自分の部屋を片付けていたら、「ああ、本当に自分の部屋だ」な思いました。というのも、私の部屋は本、漫画、大学の書類などでごったがえしているからです。片付けの最中に漫画を読まずにはいられませんので、片付けが進まないという背徳感は大分前にどこかにやってしまったので、漫画をペラペラめくっていました。漫画を並べておく本棚が限られているので、部屋の片づけのときに本棚のラインナップをかえるためにも読まないといけないんです。というか、自分がいいなと思っている漫画が並べてあるので読まずにはいられませんでした。というわけで、読んでいたら懐かしいと言いますか、自分の破片というか、一部分が確認できたので、片付けそっちのけでブログにすることにしました。片付けそっちのけで漫画を読むという行為に背徳感は感じなくなりましたが、さすがに片付けそっちのけでブログの記事を書くという行為には背徳感が残りますね。(背徳感の使い方があっているのか少々疑心暗鬼ではありますが。)

 

 また、コミュニケーションの話をしたいと思います。漫画や本を読んでいるとき、感動という個人的な活動が行われいます。よく、本棚はその人の心の中を表すみたいに言いますが、心の底から同感です。現代は、電子書籍電子書籍での試し読みが増加傾向にあるので本棚が必ずしも心をまんま映し出しているとはいえないですけど。気に入った本や漫画を買うようにしています。その基準は、個人の興味関心、問題がとても反映されています。本の量に対して私の本棚は小さいので、本棚は定期的に入れ替わりますが、そのため鎮座している本や漫画は気に入った、記憶に留めておきたいものになります。滅多にやらない片付けという機会で、久しぶりに本棚のいれかえをしていると、漫画や本を読むので自分の気に入った個所にまた触れる機会にもなります。自分の一部があるなと思うわけです。漫画とか本を読んでいると内言語という個人的な活動が行われています。

 今年の8月は自分自身にひきこもりの素質あり、学校があるからこそ健全に生きられる人間と実感するほど家にずっといました。この素質や人間性はアクティブさや、エネルギッシュな人に憧れがある私としてあまりいい自覚ではありませんが。久しぶりに部屋の片づけ&本棚の整理をしながら本や漫画を読んでいると、内言語が活発になり、なんとも言えない充足感があります。この内言語の内容を非常に個人的で恥ずかしいので、別に誰かと話して共有したいだなんて思いません。誰かとのコミュニケーションのために、誰かにあった話題を選んだりしがちです。例えば、友人をわざわざ誘って、場を作ってするコミュニケーションにおける私の会話にはテーマは必ずあるので、実は人と話題はセットだったりします。相手が思いがけず、もしくは私が連想や関連付けを相手からやっていない話題があるときにテーマが広がったりはしますが。

 人との会話のおいて私は、限度、節度、話題の適当さというのを無意識に設定してきました。漫画や本を読んでいると非常に個人的な体験故に内言語の話題は尽きませんし、タブーや、限度・節度・話題の適当さもありません。個人的な体験であり、ここから自我を発達させているので、本や文字の普及が個人へと分化を進めたという社会学の見解にも納得します。そういう意味では、キリスト教は聖書を使い毎週日曜に集まるので個人への分化が起こらないような構造のある宗教といえますね。イスラム教もそうかもしれませんが。これのメリットは共通認識が成熟、維持されやすいところでしょうか。デメリットについては、歴史を振り返らないとわかりません。

 後期が始まったあたりで、引き続き必要な本や教科書だけを残そうと思って、物について考えていました。(窓ふきの掃除をしてたときにわかったことですが、私は非常にやっている仕事や触っている物、勉強、環境、構造ついて考えてしまう癖があるようです。窓ふきの掃除のときはガラスの大きさと価格、技術の発展について考えていました。あと、最近の新築の分譲住宅の窓が小さいことについても)残す本を考えていて、全部残したい、全部やらないといけないことだと気づき自分の頭の中ってこんな風になっているだなと実感した次第です。数学、英語、簿記、編入学、割れた茶碗、自由についての本たち、ファイリングしないといけない書類たちとかですね。どれもはじめたけど、満足いくまで終わらしていない、中途半端なんでしょうね。

 私物には私の思い出というか、興味関心や視点がかなり付着しています。人との思い出はその人に会ったり、誕生日を思い出せばいんでしょうが、内言語はものがないと夢を忘れてしまうみたいに思い出せんないんです。ミニマリストの人はどういう価値観なのかわかりませんが、私は当分の間、本や漫画、数学と英語の参考書たちなど手放せそうにありません。少女漫画や少年漫画はもういいですけど。割れた貰い物の茶碗も割った直後に比べて未練がなくなってきたので金継ぎして修復せずにもう捨てようかしら。

 

以上が、どうせ友だちとの話題に上がらない、そして話すなら端的にまとめないといけなくて思考を中断しなくてならず到達しなかったであろう地点までの話でした。尚、このブログは内言語の記録のためにやっています。

 

付録

持っている、やっている物事について考えてしまう私の癖で発見されたinterestingな話。

 

問題、下記のナッツの中で一つだけ仲間外れがいます。どれでしょう。

カシューナッツ、ピーナッツ、ピスタチオ、クルミ、アーモンド

 

 

 

 

 

私の考え

ピーナッツが仲間外れです。理由は、他のナッツは種実類なのに、ピーナッツは植物であり、土の中に実がなり豆類です。そのため、ピーナッツが「nuts」の称号を得ているのはおかしいです。調べてみたら、栄養素がナッツと似ているからピーナッツと呼ばれているらしいです。ピーナッツはナッツが付かなかったらピーだけだったのか思うと、ナッツをつけてもいいかなと思いますね。(笑)

 

この話をしたり、調べずに悩んで考えていたら全然面白くない、早く調べればいいじゃんと言われたことがあります。自分で考えるから面白いのにと思いました。ナッツをみると思い出す、豆知識、それは「ピーナッツは豆類のくせにナッツの称号を得ているんだぜ」。良かったら誰かに話してみてください。多分、反応悪いです。人はクイズに反応するので、「問題です!」という形式でやるといいですよ。食いつきが違います。