自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

雑談 ~時として考えることが遊びになる~

 本屋をうろうろしていたら、辿れるようにしときたい言葉が載った本があったので購入しました。せっかく買ったので、他も色々見ていたら、そうその気持ちわかる、interestingと感じるが好きだというのに共感してもらえた気分になる内容があったので、まずそれについて触れたいと思います。

 

以下の引用は全てジョン・ファーンドンの『オックスフォード&ケンブリッジ大学世界一「考えさせられる」入試問題「あなたは自分を利口だと思いますか?」』からである。

 

interesting!が好きな感情でして

 実際、私たち人間は考えるのが好きなのだと思う。考えるのは刺激的だ。生きている実感が湧く。数独クロスワードやクイズに勤しんでいる人がこんなにいるではないか。とはいえ、そういうものは決まった思考回路でしか考えない。そこへいくとオックスブリッジの面接問題はすばらしい、というのはさまざまな思考回路を開いてくれるからだ。確かに、どれ一つとっても「正解」はないし、中には一見解答不可能に思われる問題もある。しかし、ここかしこに知識を少し、論理をちょっぴり、そして遊び心を大量に投入することで、まずまずの解答にたどり着ける――あるいは、いいじゃないか!と思える面白い理屈をひねりだせる。

 

 本気で考えて知力を振り絞ると、本物の高揚感が感じられるものだが、そういうことはえてして学生時代が終わると忘れがちだ。いろいろな考え方に異議を唱えたり、ゲームをしたりするのは楽しい、いや、正直に言おう、自分がどんなに利口かを見せびらかすことが楽しいのだ――自分の知性で荒涼索漠たる世界を一瞬でも照らせたことが・・・・・・。

 利口とは、それを示す人にとっても、見る人にとっても魅力的だ。博識と機知を鮮やかに披露できたら、ときには名曲と同じくらいに人を楽しませ、気分を高揚させられる。もしかしたら、ここまで本書を読んできた読者の中にも、そのような高みにまで駆り立てられている人がいるかもしれない。もしかしたら、自分が今、ねちねちと質問してくるオックスブリッジの面接官を前にして、完璧なまでに見事な解答を披露して彼らを圧倒している姿を想像しているかもしれない。

 だがもちろん、用心しないと人の神経を逆なですることもある。

 

 ここまでがinterestingと感じるのが好きだという私の嗜好を、別の表現で訴えかけてるなと思った文章でした。

 博識と機知を鮮やかに披露してる気になっているのは、以前ブログに上げた記事の内容である、枝豆で収穫するか、大豆になるまで待つかなんて農家は悩んでないという話をすることだ。ただ、私は人の博識と機知を鮮やかに披露するのは好きではあるが、披露されるのも大好きである。TED Talksを見てこの欲求を満たしていたりもする。

 討論というか、他者と一緒に思考のドライブをするのも好きだ。もちろん一人でも楽しいが。ちなみに、私は思考のドライブという言葉を、今まで思いつかなかった考え、発想飲ん転換といったクリエイティブな感じが起こって、じゃあこうなんじゃない?、じゃああれはこうとも言えるんじゃないか?、おぉなんだか考えるのが楽しくなってきたぞという感覚を表している。自分一人で思考のドライブもできるが、他者と話しているとき思考のドライブをしているときがある。人と話すのが好きなのは思考のドライブを期待しているからでもあるが、残念ながら滅多にそうはならない。

※思考のドライブの感覚をよく知りたい人はこちらを参照してください↓ 

大阪市立大学商学部に飛びます)

思考がドライブする? – 宮川研究室 (miyagawaseminar.com)

 

 せっかく大学に来ているのに、なぜ他者の博識と機知を感じられる機会が乏しいのだろうか。まあ、さきほどから言っている通り自分の博識と機知を披露するのは好きだが、披露してばかりいて披露されないのはつまらない。新しく入ってくる知識がないからだ。つまり、私は大学の学生に博識と機知を是非とも披露してもらいたいと思っている。大学の改革を行いたい理由の一つは、誰かに博識と機知を披露してもらいたいからだ。大学まで、大学のゼミナールまで我慢して楽しみにしていたのに誰かの博識と機知に高揚できないなんて、ショック過ぎる。

 では、引用しつつ論理的に討論することの重要性も訴えたい。

論理的に討論することは共同作業を同意してやるために必要だ

イギリスでは人生を成功に導く上で、目的を果たす上で不可欠な技術とされる

論理的に討論すること、これは決してもともと話がうまいとか、人と論じ合うのが好きだとかいう「適性」や「好み」の問題ではない。人生を成功に導く上で、または組織や社会や国家を説得して何かの目的を果たす上で絶対不可欠の技術だと、イギリスでは考えられている。・・・・・・。

 これはある程度イギリス社会全体にいえることだ。僕って人前で話すのが苦手なの、なんて女の子にいったら、照れ屋でチャーミングなどころかバカにされるだけだし、皆さんのお話をうかがうだけで充分です、という控えめの発言に奥ゆかしさなんてみじんんも感じ取ってもらえない。自分の意見を堂々と理詰めで展開する人の方が社会で光るのである。

 その「討論力」を身につけるのは大学に入ってからでは遅すぎる。そういう訓練は入学前にやることで、大学はあくまでも専攻分野における論理的な展開を行うところなのだ。そこでオックスブリッジの試験官が、受験生が基本的な討論力をすでに身につけているかどうかを判断するために、かの有名な口頭試問「インタビュー」を行うのである。単に人間性や目指す分野に対する知識を見せるためのものではない。

「今までに読んだ本の話なんかしてもだめなんだよ。どうやって頭が回転するかを短い時間で試験官にわからせるのが目的だからね」

 とサムはいう。

 というわけだ。無論、私も同様の意見である。ただ、日本では扱いが違う。堂々と意見を言うことを悪いと何て1ミリも思っていないが、うるさいやつと見られるときがある。この国、もしくは大学では、自分の意見を堂々と理詰めをしても内容を理解してもらえないし、その内容を評価されないし、悪目立ちしてしまう。日本では、論理的に討論すること、これはもともと話がうまいとか、人と論じ合うのが好きだとかいう「適性」や「好み」の問題だと扱われている可能性が高い。イギリスと違って、人生を成功に導く上で、または組織や社会や国家を説得して何かの目的を果たす上で絶対不可欠の技術とは日本では考えれていないだろう。

日本はでは論理的に討論することは必要不可欠な技術されず訓練もあまりしていない

 また、日本では大学に入ってから討論力を身に付ける訓練はあまりしない。少なくとも、必ずするわけではない。もちろん、高校までとした場合も討論の訓練などしないのではなかろうか。人から聞いた話だと、人形を持っている人が話すとか、スウェーデンかどっかの議論のルールを使って議論したとかどうとか高校時代に聞いたぐらいである。ディベートはやったことがあるが、教師の指導力不足や受験生ということもあって生徒のやる気が低く、いまいちだったことは覚えている。

論理的に討論することは共同作業を同意してやるために必要だ

 討論をする力というのは、同じゴールを目指しているはずのもの同士が、可能な限り同意形成をして共同作業をやるために必要な能力であると私は思っている。弱い立場の人の討論力も重要ではあるが、権力を握っている側の討論力も同等に重要である。なぜなら、どんなに弱い立場の人が討論を上手く進めたとしても、権力を握っている立場の人に「何言っているかよくわからない」、「難しくてよくわからないや」などとある意味話し合いを拒否されたら終わりなのである。

 共同作業を行うために同意形成をすることが大切だ。同意形成なくして共同作業などしないぞ、という意識が前提に自分にはあるかもしれない。

 私が思う討論をする場は、もっといい方法がある、効率的なやり方を提案する、そもそも目的や議題の設定がおかしくないか、問いの立て方がおかしいというのを指摘する場である。私の考え、設定されている方法、問い、目的や議題が微妙な可能性がある。1対1の話し合いでは、言った言っていない、「こいつの言っていることおかしくないか」といった主観の問題もあるため、複数人での討論もしくは内容の検討が望ましい。(私が何かを話したとき聞いている人には何言っているかわからないという人、言っていることが分かる人とわかれたときがある。一対一の討論は説明がひどいのか、相手の理解力が低いのかがわからず泥沼になりかねない。)

 以前、大学のオンライン授業で、グループディスカッションをやりたい人は意思表示をと指示されたとき、120人中8人しか意思表示をしなかった。意欲があって可能という人が8人しかいなかったとも考えられるが、約6.7%しか意欲があって可能という人がいないとは、これがまさか社会の縮図であったり、今後の人生でやるディスカッションにやる気がないやつがいるのかと想像するだけで驚嘆であり、ストレスであった。この事実に対して、講師に社会人になったことも考えてディスカッションに可能な人は全員参加させるべきと提案したところ、悪平等がどうとか言われたのち、社会は20%の人で動いていると言い始めた。120人中8人というのは全体で全体の約6.7%であるという考え方は文通の人に言われた考え方がだが、とうてい20%に満たない。やはり、社会のことを考えて可能な人はディスカッションの練習をすべきだという意見にはかわりない。6.7%は、仲間を増やすためにも多少辛抱しなくてはならないが。

 ちなみに、大学の次である、企業の面接のときですら、討論力を測ろうとしない気がしてならない。そもそも、評価の仕方を知っているのだろうか。論理的に討論することをやってこなかった者が児童・生徒・学生の討論力を養うは無論難しい。しかし、それを諦めるのは社会にとって非常に危険であり、個人的にはストレス警報が鳴りやまない。

 

では最後に考えてて面白かったことと思考法をひとつずつ。

運命論か自由意志かについて

 私は運命論が気に食わないので反論を考えていました。まず、自分が100%自由に選択しているというよりは、0.01%ぐらいは自由に選択してると考えられる。もしくは、99.9%は運命で決められているが、0.1%は自由に選択しているという意見を考えた。次に、運命論か自由意志かは証明できていないと考えた。だとしたら、運命論か自由意志かどうかを決めるのは個人に委ねられていることになる。すなわち、運命論か自由意志が正しいかではなく、どちらを信仰するかである。どっちもだっていいし、それ以外でもいい。私は自由意志を信仰しているので、運命論か自由意志かを選ぶのは自由意志なのではないかと思ってしまうが、この考えは思考がぐちゃぐちゃになっていると思えるので意見として主張はできない。ちなみに、人間に自由意志があると前提にしているから罪と罰があったりしたはずだ。

 まとめると、運命論か自由意志かは証明できない。そのため、運命論を信じるか、自由意志を信じるか、両方を信じる、信じないかでしかない。何を信じるかの問題である。

 

思考法

「君のいう社会って何?」に答えるために使った思考法

この質問に答えるとき、社会の要素をすべて挙げるのは難しいと、政府や大学、行政といったぐらいで思った。だとしたら、社会の要素に含まれないものをあげればいいとひらめいた。私が社会というとき家族は含まれない。つまり、私のいう社会とは家族以外が社会となる。この回答が問題がある気もする。私にとって、家族は変えられないけど、社会は変えられると思っている節があるのはとても面白い発見であった。もしかしたらこの思考法は幸福にも使えるかもしれない。

 

以上になります。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。