自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~百科全書刊行までの道のり~

  Amazonで注文したブリタニカ国際百科事典が全29巻が我が家にやってまいりました!巻数はブリタニカの方が多いのですが日本百科全書と違い、写真が白黒が多くて、箱付きではないところに安っぽさを感じてしまいますが、どっちも持っているのでよしとしましょう。(内訳:小項目辞典全6巻、大項目辞典全20巻、索引、引用文献、地図)

 今回の記事の内容は、ブリタニカ国際大百科事典が我が家にやってきたのを記念して「百科全書刊行までの道のり」というテーマで記事を書きたいと思います。とりあえず、なんで電子辞書とかあるのに百科全書なんか買ってるのか、という予測できる質問に答えるところから始めていきましょう。

 

目次

辞書と百科全書(辞典)の違い

 辞書・電子辞書とばっかり親しくしてきた読者の皆さんは、辞書と百科全書の違いを明確にご存知でしょうか。

じしょ【辞書】

①ことばや漢字を集め、一定の順序に並べ、その読み方・意味・語源・用例などを解説した書。辞典。辞彙。

ひゃっかじてん【百科辞典・百科事典】

学術・技芸・社会・家庭その他あらゆる科目にわたる知識を集め記し、これを部門別あるいは五十音順などに配列し、解説を加えた書物。

出典 岩波書店 広辞苑

 一様、上記の通り書いてあることが違います。そして、情報量が全然違います。百科全書・辞典ではなくWikipediaでもいいじゃんという、愚問に対しても情報量が質と共に全然違いますので、時事的、最新の内容が絶対に必要でない限り百科全書・辞典の方が調べ物の際に役に立つはずです。コトバンクは日本百科全書やブリタニカ国際大百科事典の内容検索できるのでよいネット辞書と言えますが、百科事典を買っている身としてはやるせない気持ちです。自分自身、この記事を作るにあたりコピペできるので何項目か調べましたが、コトバンクは日本百科全書・ブリタニカ国際大百科事典の全項目を載せているわけではないので引っかからない項目もあり頼りないです。

百科事典

あらゆる自然的・人工的な事物、現象、事項および行動に関して解説を行い、さらに具体的に理解を助けるために挿画、地図、写真、図、表、などを添えて、それらの項目を五十音(またはイロハ順)に配列した辞典。

――百科事典の構造と種類

 社会の複雑化、科学の分肢、開発の発展に伴い、百科事典の項目は多様で巨大になる。そのため現代的百科事典では、項目構造にもくふうがみられるが、大別すれば大項目主義、小項目主義、さらには大項目と小項目とを調和配列させる折衷主義となろう。

 大項目主義とは、前知識・情報を数千、もしくは数万項目にまとめるもので、一項目一分野をそして機的に転科しい、他の項目と巧みに関連を行う。『ブリタニカ』(三万余項目)はその例であり、教養的読書に便利な辞典といえる。

 小項目主義とは、十数万項目を選び、あらゆる事項をあらゆる角度から簡潔に圧縮して説明するもので、情報を瞬間的にとらえることができる。『ブロックハウス』(三二万項目)はその例である。

 折衷主義は以上の両者を兼ね備えたもので、『アメリカーナ』(六万七〇〇〇項目)をはじめ、日本の大多数の百科事典がこの例である。・・・・・・。

 内容別には、小・中・高等学校格別に、学習用の百科事典、また家庭生活を中心とする家庭百科事典、専門領域の項目だけを扱う分野別辞典がある。

出典 彌吉光長『日本百科全書19』「百科事典」.

 辞書を紙で引けとかいいますが、私からすれば百科事典こそ紙で引けと思いますね。兎に角知っておいて欲しかったことは、辞書と百科事典はとても違うということです。

百科全書の刊行までの道のり

 百科全書派(アンシクロペディスト)、ディロドとダランベールの編集した『百科全書』(1751~72年、本文17巻、図版11巻)に寄稿し、その刊行に協力した啓蒙思想家たちをいう。最初の寄稿者たちはむしろ無名に近い人々が多かったが、彼らはほぼ四つのグループに大別される。第一はダランベールの関係する科学アカデミーやロンドン王立協会に属する科学者、数学者たち、第二はディロドの友人でルソー、ドルバック、ジョークルーなど、第三にはもっとも数の多い「職人」グループで、靴下製造業者、絹加工業者、時計製造業者、冶金業者、ビール醸造業者、出版業者などの専門的技能をもつ商人・企業家層、第四はイボン、ペストレ、プラドなどの聖職者グループである。

 1752年初頭、執筆者の1人プラド神父の博士論文が反対派のイエズス会士たちの策動によって、パリ大学神学部で否認宣告を受けたのを機会に、『百科全書』の最初の二巻が発禁処分を受けた。趣意書とこの第二巻は、イエズス会士らの『トレブー日誌』や『トレブー辞典』新版のなかで不信仰で剽窃であると攻撃され、第一巻刊行後、三人のイエズス会の図書検閲係が全項目の調査を命ぜられた。国王諮問会議は、既刊二巻を発売禁止にし、しかもその原稿を没収するように命令したが、ルイ十五世の出版監督官クレチアン・ド・マルシャルブはディロドに即刻原稿を警官から守るように警告し、原稿を自分の家に隠したのであった。しかし百科全書編纂は国家大事業で、フランスの名誉になるものと考えられるようになり、政府は編者たちの続行を要請した。こうして、第三巻は、1753年、遅延理由を説明するダランベールの序論をつけて刊行され、その後第七巻G項部(1757)まで、年一巻のペースで継続刊行された。しかし、その合理主義、実証主義は宗教界をはじめ、反動陣営を刺激し、攻撃が繰り返され、「ジュネーブ」の項に関するルソーとの争いで、この項の執筆者ダランベールは、1758年編者の職を退いた。『百科全書』は危険な書物のブラックリストのなかに入れられた。そのためディロドの友人たちは、計画を断念して身を隠すように勧告したが、彼は断念するどころか、出版社たちを説得して、無害な図版部分の出版許可をとらせる一方、残り10巻の編集・印刷を行った。1765年、本文後半の10巻が完成、66年に配布された。図版11巻のうち、最初の巻は1762年に、最終巻は72年に刊行され、ここに全28巻が完結した。

 『百科全書』がイエズス会ヤンセン派(ジャンセニスム)の影響下にあったパリ高等法院の激しい攻撃のなかで、再三の発禁処分にもかかわらず、実に21年間にわたって刊行され完結することができたのは、ディドロ自身のいうように、「各人がばらばらでありながらそれぞれ自分の部門を引き受け、ただ人類への一般的関心と相互的好意の感情によってのみ結ばれた文学者、工芸家の集まり」に支えられていたからである。また国璽尚書(こくじしょうしょ)ダルジアンソン侯爵(こうしゃく)、ポンパドール夫人、前述した出版監督局長官マルゼルブなど旧制度の官僚にも、『百科全書』の刊行に協力を惜しまない人々が少なくなかったが、何よりディロドの献身により完成にいたった。

 他方、反百科全書派の体制派御用文士としては、フレロンやパリソが有名である。『百科全書』刊行の目的は当時の先進的な学問、思想、技術を集大成し普及することにあったが、同様に百科全書派の人々もあらゆる形態の生産的、創造的活動に直接間接に従事するか、あるいは少なくともそれに個人的関心をもつ学者、専門家、企業家であった。彼らの共通の目標は旧制度下の圧政、悪弊、狂信を改めて、より理性的でより自由な社会を実現することであった。しかしあらゆる分野で経済的、知的進歩を実現することと、政治的、社会的秩序の徹底的な転覆を企てることとは別である。彼らの理想は生産的な市民階級が実業の実践によって漸次的に経済的実権を獲得し、そのあとで暴力を用いずに貴族階級にかわって国家の指導にあたることであった。この意味で、百科全書派や啓蒙思想家はフランス革命を希望しなかった、ということができる。しかし彼らがその実践活動によって、19世紀の産業革命の理論的かつ技術的基盤を準備したことは確実である。

 この『百科全書』は、構想と実施面において、次の二点で既存の百科事典にまさっている。その一つ表題に「学芸、科学」のほか「技術」を加えたことが注目される。ダランベールは本書の「序論」で、ディロドは「技術」の項目で、教養科目と工芸との間の差別を論じ、常に工芸が軽視されている点を非難している。ディロドは哲学とともに技術にも担当責任を負ったので、その論述は観察と経験に基づいている。第二の点は、表題にも現れているように「学界」に著作を依頼していることで、これが百科事典進化の一段階を画したものといえよう。初期の百科事典類は、個人の著作であったが、のちにヒューブナ―は他人の手を借りて序文を書き、ツェッドラーは九人の匿名の編者の力を借り、またモレㇼの後継者たちはついに百科事典を共同作業にした。ディロドとダランベールが、初めに自分たちの周辺に集めた著述家集団はルソーとドルバック、別として、概して無名の人々であった。しかし、『百科全書』の評判ならびに本書に対する批判が高まるにつれ、著名な専門寄稿家が集められ、第四巻ではデュルゴ、デュクロ、ボルドゥ、ブーランジェ、第五巻では、ボルテール、マルモンテル、フォルボネー、デレール、第六巻では、ド・ブロッス、サン=ランベール、モルレ、ネッケル、ケネーが寄稿し、文字通り著名文人の豪華な顔ぶれとなった。他にも、イボン、コンディアック、デュマルセ、ドルバック、ドーバントン、エルペシウス、モンテスキューや、アカデミー会員が寄稿した。執筆者は多種多様であったが、特にカトリック教会に反対し、反絶対王政という立場ではおおよそ一致していた。これは18世紀後半のフランス資本主義化の総括的反映であり、当時の進歩的思想を総動員し、89年のフランス革命への思想的武器の提供と思想的地ならしをした点、重要な意味をもつ。そして、18世紀啓蒙思想の最も顕著な成果である。

【上記の論述は下記の文献をまとめながら引用したものです】

ブリタニカ国際大百科事典 大項目辞典16 「百科事典――フランス百科全書派」

日本百科全書19 「百科全書派」

ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典1 「アンシクロペディスト」

ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典5 「百科全書」

余談ですが、駅にポンパドールというパン屋があるので、ポンパドール夫人に反応してしまいました。ポンパドール夫人はパンだけじゃなかったみたです。(笑)

教養が手元に

 百科全書を手に入れ教養が手元にあり心が満たされている今日この頃ですが、こんな百科全書のエピソードがフランス革命前の啓蒙主義にあったとは全然知りませんでした。全てのことが上手く運んだのではなく、たくさんの啓蒙思想家たちが協力したから生まれたのがフランスの百科全書だったのですね。この記事を書いた後では、百科全書たちがより一層重く感じます(笑)。脱歴史のフリーライダーという志が高まる一方です。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』についての記事を後日投稿する予定ですが、それを読むとより益々百科全書の重みが増します。百科全書が私のもとに来るべくして、やってきた感が否めないです。

三千年を解くすべをもたない者は

闇の中、未熟なままに

その日その日を生きる

――ゲーテ

自分の考える教養 

 私なりの教養の意味の一つは世界を社会についていかに知っているかだと思っています。高校まで物理選択だった身としては、世界の仕組みが少しでもわかるのはとってもinterestingです。例えば、花火は二次元の円に見えるが、三次元の円球という事実。銅の炎色反応は青緑色とかなので、金属の炎色反応を覚えれば花火も別の楽しみ方ができたりする。他には、入道雲の説明の断熱膨張との関係とかを説明できるのが、なかなか楽しい。その延長線で、大学では自然観察のフィールドワークなんかとって世界を見る目を養っている最中です。なので、知りたいという欲望を百科全書がほぼほぼ満たしてくれるので大好きですね。百科全書を読んでいると「へえ、そうなんだ(ニコニコ)」が溢れます。

百科全書で教養を調べたら

  以前、「思想を種とし心を土地と見立てる」みたいなことを話していたことがありまして、この記事のために教養を百科全書で調べてみたらでてきました。

 教養

 人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養いて育てていく努力、および成果をさす。とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすい我々の精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが教養人の理想である。教養はとく専門的、職業的知識を意識した場合、「一般教養」と表現されることがある。教養ということばの原語である英語やフランス語の culture がラテン語の cul-tura (耕作)からきていることかえあわかるように、土地を耕して作物を育てる意味だったものを「心の耕作」に転義させて、人間の精神を耕すことが教養であると解されてる。その「心の耕作」cultura  animi という表現を初めて用いたのは古代ローマキケロである。

 心を耕して豊かにするための素材は、時代や社会によってことなって展開されてきたが、ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマ的な教養の概念が受け継がれてきている。ギリシアでは精神と肉体が調和した全人的教養人が理想とされ、それがやがて自由七科へと発展して、継承されていった。古代の教養の概念はルネサンス人文主義でよみがえり、さらに18世紀後半にドイツの新人文主義運動のなかで、古典文化精神を学びなおし、それを新たに想像、展開し直すという形でとらえ直された。しかし、教養は古典的、学問的に偏り、それ自身が目的となるきらいがあるため、科学・技術が急速に発達し、社会生活も大幅に変化した現代では、教養の新しい内容が求められている。

【出典】諏訪内敬司、『日本百科全書6』「教養」.

 少し話は変わりますが、活版印刷は近代化にかかせなかったですし、公衆たちのいるコーヒーハウスといった公共圏でも活版印刷を通してつくられるメディアは重要な役割を担っていました。

 厚東洋輔によれ、公衆は次の3つの特徴を備えている(厚東2006:83-85)。

 1つは「開放性」である。公衆になるためには特別な資格は必要ない。公衆に求められるのは、本や新聞・雑誌を読み、議論することだけである。現実には、本を読み、議論することができるためには、読み書き能力、さらには私有財産や教義が必要であり、結果として公衆の中心はブルジョワジーたちであったが、原理上は誰にでも開かれているものであった。

 2番めは「討論への愛好性」である。公衆は1人本や新聞・雑誌を読んで満足したのではない。読んだことについて互いに意見を述べ、議論を戦わせたのである。

 3番めは「自己教育性」である。公衆は議論についていくために競って本や新聞を読み、それによって自らを啓蒙していった。

 まとめると、「公衆とは、討論することを好む・啓蒙された・開かれた読書人階級」(厚東2006:85) であった。

・・・・・・。

公共圏は、新聞・雑誌という活字メディアと、話し言葉を用いたコーヒー・ハウスでの討論とのインターフェースにおいて成立していたことである。「同一の討論が新しいメディア[新聞・雑誌]へ移されて続行され、読書を経てまたもとの会話のメディアへ立ち返っていくわけである」(Habermas[1962] 1990=1994:69, []は引用者)。・・・・・・。

 印刷された書物や新聞を読むことによって親密な共同体から切り離された「活字人間」が、一方で国民として編成されるとともに、他方でこれと対抗しつつ公共圏として編成されるような社会とは近代社会にほかならない。

【出典】長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志、(2007)、『社会学』、有斐閣、(第5章).

 書物といったメディアに信用があるからできるわけだし、その信用は近代化の過程で啓蒙主義実証主義などが推し進められたからこそできたことだと思います。啓蒙思想家たちが頑張ったおかげで、書物への信用までその恩恵がやってきました。教養は古代ローマからあるようですが、教養が多種多様な人々に広くいき渡ったのは活版印刷が契機になったと考えられます。

 現在はインターネットの発達とともに情報リテラシーが重要で、情報を懐疑的にみる視点が欠かせません。情報社会と言われるほどに情報の量が増加し、その情報の質も玉石混合になっており、議論するときも前提の共有がままならないず「それどこの情報?」という風になってしまい話が先に進まないのではないでしょうか。というか、最近の議論ってSDGsとかもそうですが、「これ知ってる?」みたいな会話になりがちだと思うのは気のせいでしょうか。北欧の場合~だけどね、とか。

 啓蒙は自己教育性が欠かせないわかですが。まず情報に信頼性、次に文章の論理性、そして情報を読み取れる能力、情報のアップデートがなければ啓蒙から遠ざかるばかりです。情報が信頼できるかは議論する上でも重要でして、それが啓蒙思想家のおかげで昔はある程度の信頼があったという話でした。

啓蒙思想

啓蒙思想とは、狭義には、主として18世紀にフランス、イギリス、ドイツなどで行われた思想文化運動をさしていう。広義には、そこに現れた特徴がみいだされる運動一般に対しても使われる。「啓蒙」とは民衆の蒙昧(もうまい)さを理性によって啓(ひら)くという意味であり、ヨーロッパにおいても同様な意味内容がないわけではないが、その本質的な性格は批判的精神、懐疑と否定の精神に求められる。したがって蒙昧を啓く、いいかえれば教え導くというよりは、その原因となるものを徹底的に批判し破壊することがそのまま真理の道へ通じるといった考えが、とりわけフランスの思想家に強い。

佐藤和夫、『日本百科全書8』「啓蒙思想」.

 自由になるためには正確な情報があることが重要だと思ったので、最後に長ったらしく啓蒙についても引用しました。 

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

付録

集団キッチンでつくられる給食の目的と制服の目的が一緒なんではないかという話。

集団キッチンー学校

      ー病院

      ー刑務所

学校がお弁当だと少々不平等感というか劣等感みたいなのがあるわけだけど、それって制服を支持する人と同じこと言っているのでは、という話です。