自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~人間とAIの決定的な違い~

この前の帰宅途中にした家族との会話

S:「税理士とか公認会計士は国家資格だから独占的な仕事だよね」

F:「AIに乗っ取られちゃうでしょ」

S:「まあそれもそうか」

その次は、運送業の佐川とヤマトの話で、費用便益分析をして利益が上回らないと自動運転など盛り込まないでしょという話をした。

その後、

S:「大学の教員はAIに乗っ取られない仕事でしょ」

F:「でも、オンライン授業も出てきたから大学の在り方も変わるよ」

S:「まあ、確かにそうだけど何の目的でそれするんだろうね。AIを導入するにしろそこに目的を与えるのは多分人間だから…」

F:「AIに目的を与える仕事をすればいいんだ!」

S:「それ主体性に欠けるのでは?」

F:「でも、人間の脳はカロリー消費したくないから考えるのをさぼるよ」

S:「でも、考えるの面白いじゃん」

F:「カロリー消費したくないから、考えないでしょ」

S:「でも、現代ってカロリーが人類史上最も簡単に取れるじゃん。食べろよ」

F:「だけどさ、消化するのにもカロリー使うじゃん」

S:「そもそも、何の目的でカロリーを消費しないようにするの?それ重要でしょ」

F:「えー、でもさ考えたくない、カロリーを消費したくないのは人間にもともと備わっている本能みたいなものだから…」

S:「それ、家畜と変わんないじゃん」

F:「AIを生かすための家畜ね…どこに出荷するの?」※

という、家に帰る道すがら10分間ぐらい話していました。話し方はちょっと違うと思いますが、内容はざっとこんな感じでした。

※「AIを活かすための家畜ですか…どこに出荷するの」という発言は、食肉用の馬ではなく騎乗用の馬という役畜の面を忘れてました。それを踏まえるとAIを活かすための家畜という視点は大いにありだと思います。どこに出荷するのか、ずばり社会でしょう。

主体性は人間にはあるがAIにはない

 この話をしててブログの記事なるほど重要だと思ったのは「主体性」と「目的」です。AIに目的を与えるのはあくまで人間であり、AIはその手段でしかないという話。お金の用途を考えるのは人間であり、お金はあくまで目的を達成するための手段でしかないのと同様です。

 そもそも、「自由を何のために欲するのか、その目的は?」という視点で見ると恐らく多くの人が目的がないので簡単には答えられないはず。(答えられたとしても大抵自由という言葉で置き換える必要のない事柄だろう。)目的、つまり意志が定まっていないと目的を達成するための手順だって考えられないし、その手順を批判することもできない。ちょうど、国が現行のコロナ対策を何を目的にしてやっているのか明かさないように(収束は目的なのは自明であるが)。目的がわかったところでなぜそれが最優先の事項(目的)であるのかという話になるのがおちなのだが。

 自分なりに目的が見いだせていないのに主体性のある行動がとれるとは私は思えない。主体性のある行動をとるべき理由は、考えずに他者に追随するサイレントマジョリティになりかねないからというのが一つの理由である。数の力で正当性を担保するこのご時世では非常に迷惑極まりない。一人一人の自由意志ならしょうがないと諦める気にはなるが、考えずに「なんとなく」というのが一番最悪だ。

 AIと人がまったく違うのが、できない場合は途中で放棄したり、延期することだと思う。AIに飽きるというのはないだろう。さらには、共感を求めるためにできごとを人に話したりなど、合理的でなかろうが目的以外のこともするというのは人間ならではでありAIには備えられることのない特徴に思う。AIには欲求、意志がないのだ。そのため、主体になりえない。

 

 

 

 

付録 

 ベンチャー企業におけるアイディアと資金の関係

イデアが先か金が先かという話があるが、アイデアが先だと思う。そうじゃなきゃ、投資というシステムを説明できない。

 

引いたら前に出るものって何?

珍解答 馬の手綱(馬が出る)

普通の解答 銃、弓、アーチェリー、パチンコ、大砲などの飛び道具

 

意志をテーマにした名言をご紹介

  汝 の 

欲する ことを 

  な せ 

ミヒャエル・エンデはてしない物語」より

 

ただ

彼女はいつも

こう言っていた…

 

人の足を停めるのは

❝絶望❞ではなく❝諦感(あきらめ)❞…

人の足を勧めるのは

❝希望❞ではなく❝意志❞とね......

漫画『ARMS』より

 

低級な頭脳の持ち主が退屈を大いにもてあますのは、彼らの頭脳が徹底徹尾、意志を動かす「動機の媒体」以外の何ものでもないからである。さしあたり、動機がなければ、意志は休息し、知性はやむをえず休業する。というのも知性は、意志と同様、独力では活動しないからである。

ショーペンハウアー『幸福について――第二章「その人は何者であるか」について』より