自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 自由の多義性ーー自由とは何者にもなれる状態

歩いていたら自由の意味が思いついたので記事というか、お披露目しようと思います。

自由の多義性

自由とは何者にもなれる状態である

例えば、人は常に状況から問われているという風に考えると

参加するのか、現状維持なのか、離脱するのか問われているのである

この選択がその人の応答である

その人がとる行動によって自由の価値が認識できるようになる

つまり、自由は万能細胞のようなものであり

その人の意志によってかたちづくられる

すなわち、自由そのものに価値があるというよりは

その人の取る行動で自由に価値(意味)が与えられるのである

 

この自由とは何者にもなれる状態という考えで重要なのは、自由が欲求の充足という利己主義に利用されるか、はたまた利他主義に利用されるか、その他かはその人の価値基準による。自由は貴いものかもしれないが、自由を求める目的によって自由の属性は変わるというのを忘れてはいけない。つまり、自由だからって何でもしていいとしてもその内容によって自由という万能細胞のようなものまで与えるべきか否か是非が問われる。

確かに、その後のことを考えなければ能力という限界はあるがなんでもできる自由が我々にはある。しかし、その自由を使い方によっては剥奪されることを忘れてはならない。犯罪レベルでもそうだが、社会運動のフリーライダーといった改善すべき現状を維持する場合、その現状維持をした人々の自由が剥奪されるのではなく、次の世代の自由が失われるのである。

上記を踏まえると、自由は不自由でない状態とも言い換えられよう。

 

大学における学問の自由とは

大学が掲げた理念を追求するために

誰からの干渉を許さず、依存しないことであり、

常日頃から反省を怠らないことである

(特に財源の依存は最も学問の自由を脅かすもののひとつである。私立大学なら学生に、国公立大学なら財源の基になる機関にだ。)

終わりに

最後に、フランクルの本を買った出の人生の意味におけるコペルニクス的転回と関連する部分と、新しい考え方である「未来からの可能性を選択する『未来の実践主義』と、可能性を過去という避難所へ救い出すことによって揺るぎない現実にする『楽観主義』」に関連する部分を引用して終わりたいと思います。本当に、二月中はやらなくてはいけないものがあってブログを更新するつもりはなかったのですが、やらなくてはいけないものがあるときほど読書がはかどること、はかどること…。今度、フランクルの本でちゃんとした記事を書こうと思います。フランクルの本が図書館のとアマゾンで購入したのと二冊あるのですが、初版と第13版ではやはり違いますね。それから、コントラート・ローレンツの話がよく出てくるのですが、私が最近教授の紹介でおさえていた人物なのでなんだか気分が良いです。

長々と雑談をしてしまいました。やらないといけないことがあるので今回はこの辺で失礼します。

 人生は、日々私たちに問いを投げかけてくる。それゆえ、この記録はドラマチックである。私たちは、人生の方から問われているのであり、それに答えていかなければならない。言わば、「人生とは、生涯にわたる問いの繰り返し」である。そして、答えに関しては、生涯をかけて答えていくことだけが可能なのだ、と何度も言っておこう。このようにして人生に「応えていく」ことこそ、自分の人生に対して「責任を持つ」ということなのである。

 永遠の記録は失われることがない。これは慰めであり、希望である。しかし同時に、修正することもできない。これは戒めであり、暗示である。昨日からは何も取り除くことができないからこそ、どのような可能性を選択し、過去に保存するのかは、私たち自身にかかっているのである。「修正することができない」というのは、「私たちに課せられた、この責任の重さを思い出しなさい」という暗示なのである。

【引用】

ヴィクトール・E・フランクル,1999,『<生きる意味>を求めて』,春秋社,p.181.

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。 

 

 思考源

・現在までの自由研究の記事の蓄積より

・ヴィクトール・E・フランクル,1999,『<生きる意味>を求めて』,春秋社.

・歩きながら聞いてた曲

→UNITED SQUARE GARDEN「シュガーソングとビターステップ

→歌い手:yama 作詞作曲:くじら 「春を告げる」