自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~自己中心的な自分に気づかないといけない人々~

 新しく自由について直接言及している本だと考えられる池田潔の『自由と規律』と戸田山和久の『教養の書』を買ってしまいましたが、自分の考えを公開してから読み始めないと自分と本の考えが同じだったということになるのではなく、本と自分の考えが同じということになりかねないので、記事を書こうと思いました。他人のふんどしで相撲はとりたくないし、他人の考えを取り入れて思考する場合は読解を徹底しないといけないので。

目次

自己中心的な自分に気づかないといけない人々

フリーライダーたちは自己中心的ではなかろうか

 社会運動のフリーライダー、もしくは社会のフリーライダー、時間軸を入れるならば文明とか歴史のフリーライダーというのは自分のために生きている人のことを指した、オリジナルの造語である。フリーライダーとは、NHKの番組を見ているにも関わらず料金を支払わない人のことである。そう人が多いと料金をとることによって得られていた資金が、料金が支払わない人がいることによって予算がが得られず、よりよくできなかったり、劣化していくため経済学では問題視されている。社会は一日でできたわけではなく、様々なことを誰かが担ってくれたおかげよくなってきたわけだ。例えば、女性の社会進出や家畜、参政権投票権や家畜、地形、なども含まれる。近年では、自己責任論が流布しているが、自身の利益を意識しすぎの自分のためにだけに生きている人を自己中心的な人といっても過言でではないだろう。なぜなら、目的がたいてい自分のためだからである。

消極的自由から考える自己中心的な人

 もう一つの視点は、消極的自由は「~からの自由」と表現される。具体例としては、貧困からの自由、差別からの自由、常識からの自由とか考えられる。消極的自由は見方を変えれば自分のための自由という見方もできる。なぜなら、~から(from~)というのは出発点が必要なのと、それから逃れる何かが必要である。この何かはたいてい自分だ。貧困からの自由は、自分が貧困から自由になりたい。差別からの自由は、自分が差別から自由になり公平で平等に扱われたい。常識からの自由は、自分が常識から離れたい、という感じなる。英語だったらもっとわかりやすい。「I want to be freedom from ~.」となるからだ。 もし個人が様々な消極的自由を望んだ時、様々な何かから自分が等間隔に離れていると考えることもできる。それはちょうどコンパスで円を描くときその中心を自分で置くような感じだ。何かからの自由の進行方向はもちろん中心の自分である。矢印で考えると何かから中心にいる自分に矢印が向く。自分のために動いているのだから当たり前だろう。まとめれば、消極的自由を望むだけでは単なる自己中心的な利己主義の人ということになる。(完璧な利己主義も完璧な利他主義も無意識を含めればいないだろうが)

公的と私的の意識が欠かせない人々

 フリーライダーは社会のことを考えていないし対価も支払っていないから問題であるという論調をしてきたが、実はもう一つ理由がある。

 フルタイムで従事している医者の数とは言えないが、医者の人数は増えているみたいだが60代が中心なのでその人たちが引退すれば技術ともに医者の人数は減少しかねない。(医師数32万7,210人、増えた科や多い都道府県は?―厚労省調査|医師向け医療ニュースはケアネット (carenet.com))近年、美容外科の広告をよく見るので利益が出ているのだろうなとは思っているが、必ずしも必要のないが人が来る分野にお金目当てで開業する医師がいないかは心配ではある。人口は減少しているが、医者にかかりやすい世代が増加している社会で必要な分野の医者が減るのに危機感が必要だ。(医者一人の養成に多額の税金がかかっているのはわかっていはいるが)社会的に希少価値と重要な役割のある医師たちにはある程度、社会的立場と自分の立場を鑑みてもらいたい。国も彼らの負担が増大しないようによく考えるように。医者だけでなく、特に小学校教員の労働も改善策を講じなければ、自己中心的で私的しか考えられない人の増大とともに倍率は改善しなくなるだろう。

 また、一様業績主義で学歴社会の日本は大卒が幹部や企業の上にたちやすい人々である。彼らは社会に関与する力が強い立場に就く可能性が高いのだから、社会的立場の意識した行動を促すことは社会の行く末を左右する。社会貢献はやりたい人がやればいいとかではなく、できる人は何%かは務めるという意識改革が必要だと考える。繰り返しにはなるが、なぜなら、社会のフリーライダーだからである。これについては別の記事を参照。だから、私は小中高より改革のしやすい大学のこうした高等教育をある程度はした方がいいと考えるため、大学の理念追求を可能にする大学基金が重要だと考えている。

 社会の今後の左右しかねない意思決定ができる立場にいる、就く人間が消極的自由のみ意識する、自分のことしか考えられない人間がそんな立場に就くのはおぞましい。

 

 

 

上記のことを本を読む前に書き残しておこうと思ってこの記事を投稿しました。

これで気兼ねなく本を読むことができます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

思考源

・自己中心的のコンパスの例えはコペルニクス的転回より発展、矢印の向きは物理からだと思う

・コンパスの例えは学芸員もしている先生との会話

・本を読む前に自分の考えを書き残そうと思ったのはショーペンハウアーの『自分の頭で考える』から

・社会的立場の認識の話に医者を取り上げたのは、日本の医師数のカウントの仕方がフルタイム勤務者ではなく、医師免許を持っている人でカウントしていた気がするから。小学校教諭は小学校の倍率の低下は、教諭の負担の低減策が講じられていたとしても効果がでていないように見えるから。

・中学の数学の先生に教えてもらった『教養の書』は学生自主企画で盛り込む予定なので読みたいが、帯に「万人の自由のために、魂の自由のために」と書いてあって自由について直接書いてあると危機感があったからので記事を上げる前に読みたくなかった。

・大学の火起こしの先生に教えてもらった『自由と規律』は自由について直接触れてるのが題名からわかるのと、内容を若干見てみたらイギリスのパブリック・スクールについて触れられていて社会的に地位がある立場に就く人間を意識した教育について触れられると予想できたから記事を上げる前に読みたくなかった。

 

付録

付録1

 積極的な自由とは別の解釈をするのならば、消極的な自由と対比して考えるならば自分以外の何かに関与するための自由といえるだろう。「自分の望みが叶ったら何がしたいですか?」という問いには愛と関与とかそういう風な視点を持ち合わせていなければなかなか答えられないだろうし。

付録2

 また、人類とか社会の恩恵を受けているのに自分のためだけに生きていいとか断言できる人間は自己中心的から転じてナルシストと解釈することもできたりする。これを切り口にするとフロムの『悪について』を交えて考えを発展させることができる。