自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~Ver.2 カントの『啓蒙とは何か』を読む~

案の定大学の講義を受けていたら、カントのいう公的の意味を捉えきれていなかったことが発覚したのでアップデートをしたいと思う。

目次

Ver.1の振り返りから

カントの『啓蒙とは何か』の紹介と注意点

カント『啓蒙とは何か』  ― 近代自由論の古典です。
カントとしては超短編岩波文庫で14ページ、ほかに光文社文庫)の明快な叙述 です。

ここに西洋近代人の自由の理想が「啓蒙」という標語で用いられています。

カントの国際平和論などにもつながります。
ひとつ注意すべきことは、そこで用いられている理性の公的public使用と私的private使用、の意味の理解です。研究者でもよく意味を取り違えます。

その背景には、「公的」「私的」という言葉の意味と評価が「近代」になって大きく変化した(そしてカントはその境界の時代=フランス革命の時代を生きた)、ということがあります。

( メールの文章を抜き取りました)

「理性の公的使用」と「理性の私的使用」の意味の理解に注意してくださいと言われているので、それを重点的に読解した。

本題に入る前に確認しておくべき前提

こうしてどこでも自由は制約されている。しかし啓蒙を妨げているのは、どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば、啓蒙をさまたげることなく、むしろ促進することができるのだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間の啓蒙をもたらすことができるのである。

引用 カント『啓蒙とは何か』

 理性の公的な使用と理性の私的な使用を考えるうえで啓蒙が目的であるということを忘れてはいけない。だから、大衆が啓蒙するためにはどのように公的に理性が使用されればいいのかを考えればよいといことになる。同時に私的な理性の使用ではなぜだめなのかも考える。順番が前後するがカントがいう啓蒙の意味を記しておく。

♢啓蒙の定義

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から脱けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態のにあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語というものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サベーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

引用 同上

 つまり、理性の公的な使用は未成年の状態の者が自分の理性を使う勇気をもち活動できるようにする役目を果たすということになる。

♢公衆の啓蒙

自由を与えさえすれば公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである。・・・。このような人々は、みずからの力で未成年状態の〈くびき〉を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めてくのだ。

引用 同上

  このようにカントは言っているわけだが、私としてはそんなんでは未成年の状態にとどまっている原因である人間の怠慢と臆病に勝てないと思う。

本題に入っていこう。

理性の公的な使用と理性の私的な使用を見比べながら読んでいこう

 理性の公的な使用は学者として、理性の私的な使用は市民としての地位または官職についているものとして行使される

 理性の公的な使用の場合は「学者として」だが、理性の私的な使用の場合は「市民としての地位」と述べるところだと思う。そのため、少しだけ学者と市民の地位の違いに触れる。

 市民は何を言っても失うものはさほどないが、学者として発表するなら、それなりの権威を喪失しかねないので、ある種の責任感が理性の公的に使用する学者にはあると思う。学者は客観的な視点で比較しながら物事を判断するが、市民は視野が狭く主観的な判断をすると思う。 

公的な理性の使用は公衆に発表し、私的な理性の使用は内輪の集まりで発表する

  字のとおりである。公的な理性の使用は公衆に問いかけ、私的な理性の使用は内輪に問いかけるのである。

だから教会から任命された牧師が、教区の信者たちを前にして理性を行使するのは、私的な利用にすぎない。教区の集まりは、それがどれほど大規模なものであっても、内輪の集まりにすぎないからだ。

引用 同上

 同じものさしを持っている人々に同じことを言っても同じ結論にしかならない。私的な理性は自分のものさしで物事を判断する、自分のものさしで物事を何度も図っても無駄である。なぜなら、人は本当の意味で客観的に物事を判断できないからである。また、新たな視点というのは一人で考えても出てこない。
 公的な理性は公衆のものさしで物事を判断するよう求める、つまり議論をうながすためにされるのである。で、これがカントのいう「自分で考えることをする人」によって考えられ周りを啓発していき、さらには公衆を啓蒙することにつながるということになるのだと思う。

 そして未成年の状態から自分の理性を使う勇気をもつ人になり成年の状態になるのだと思う。

Ver.2 コーヒー・ハウスを知った境に…

新たな情報を入れて読み直し

社会学入門Bという講義でメディアの概念を教えてもらい、公衆という情報がはいったのでVer.1に書いてあることと歴史と共に解説も含め読みなおした。

■この論文の新しさ

 ・・・・・・。

 しかしこの論文にいたって、「いま・ここ」、具体的にはフランス革命直前の一七八四年におけるドイツのプロセイン王国という個別的な時代と場所におけるドイツの住民を対象とした哲学の営みが行われるようになったのである。こうして哲学が真理の体系ではなく、人々の思考の営みの性質について、方法について問題にするようになったのである。このことは、とても新しいことなのだ。p.287

解説――カントの思考のアクチュアリティ

カント,2008(2006),『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(中山元),光文社.

つまり、時代背景をある程度は把握しとかないとカントのこの論文の真意を読み解くのは不可能である。にもかかわらず、文字の情報から読み解いたのは経験値が足りないといえよう。だが、自分で早々気づいたのでよしとする。

まずはコーヒーハウスから

17世紀中頃にコーヒーを飲む習慣がトルコからヨーロッパに伝わり、コーヒーを飲むための場所としてコーヒー・ハウスが次々に開かれた。18世紀初頭のロンドンでは、すでに3000軒を超えるコーヒー・ハウスがあったという。(小林2000:41)

 ・・・・・・。

 コーヒー・ハウスはただコーヒーを飲むための場所ではなかった。それはまた異なった階層の人びとが出合い情報を交換し議論する場所であった。話題に制限はない。巷の流行・噂話から、文学や芸術、政治や経済にまで及んだ。コーヒー・ハウスのテーブルの上には新分野雑誌が置かれていた。人々はそれを手にして読んだり、字を読めない人のために声に出して読んでやったりした。そして、そこに書かれている記事をもとに議論が始まる。新聞や雑誌はコーヒー・ハウスでの議論の対象となっただけではない。コーヒー・ハウスでの議論がまた新聞や雑誌の記事となった。人びとは、新聞や雑誌に競って投書し、新聞や雑誌も投書を掲載した。コーヒー・ハウスには投書箱が置かれ、そこに投書を入れると、それがまた記事となったのである。(小林2000:182)そして、それを読んでまた議論が行われる。この過程が繰り返されるなかで、公衆がしだいに啓蒙されていくと同時に、公共的な意見(public opinion)も形成されていったのである。

 公衆が討論をとおして社会的・政治的意思決定を行うための回路が形成された。回路が公共圏である。

長谷川・浜・藤村・町村(2007)『社会学有斐閣

 多分だが、カントはコーヒー・ハウスの議論のことにいて言及していたのだと思う。なぜなら、カントがこの論文を発表したのは1784年の18世紀だからだ。

余談だが、日本は中間共同体の不在がかなり社会的に悪影響をもたらしていると言わざるを得ない。機能集団化した近代社会において中間共同体(コミュニティ)は人々の成長や民主主義において非常に重要である。

(私より専門的な人も同じことを予想している。捕捉カントをめぐる対談:カント政治哲学と国際秩序の〈未来〉(第1回)|KUNILABO|note

次は公衆の啓蒙について

 厚東洋輔によれば、公衆は次の3つの特徴を備えている(厚東2006:83-85)。

 1つは「開放性」である。公衆になるために特別な資格は必要ない。公衆に求められるのは、本や新聞・雑誌を読み、議論することだけである。現実には、本を読み、議論することができるためには、読み書き能力、さらに私有財産や教養が必要であり、結果として公衆の中心はブルジョワジーたちであったが、原理上は誰にでも開かれているものであった。

 2番めは「討論への愛好性」である。公衆は1人本や新聞・雑誌を読んで満足したのではない。読んだことについて意見を述べ、議論を戦わせたのである。

 3番めは「自己教育性」である。公衆は議論についていくために競って本や新聞や雑誌を読み、それによって自らを啓蒙していった。

 まとめると、「公衆とは、討論することを好む・啓蒙された・開かれた読書人階級」(厚東2006:85)であった。

引用 同上

 

・近代市民社会の担い手

【公衆(public)】社会を構成する民衆が自律的で能動的な市民から成り立っているとみるとき、その民衆を公衆と呼ぶ

【大衆(mass)】他方、他律的で受動的な市民から成り立っているとみるとき、その民衆を大衆と呼ぶ

引用 社会学入門B授業資料

カントは「自分の理性を使う勇気もて」という啓蒙は独力では困難だが、公衆がみずからを啓蒙することは可能だと述べている。

 ♢啓蒙の定義

啓蒙とは何か。それは人間がみずから招いた未成年の状態から脱けでることだ。未成年の状態とは他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

 引用 カント『啓蒙とは何か』

公衆の啓蒙とは 

討論することを好む・開かれた読書人階級(=公衆)が、みずから招いた他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない状態から、自分の理性を使う勇気がある状態になることである。

「理性の公的使用」と「理性の私的使用」

理性の公的使用は公益が目的、理性の私的使用は私益が目的という側面があるはずだ。

♢理性の公的な利用と私的な利用

 ところが公衆を啓蒙するには、自由ありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。

引用 同上

 公衆を啓蒙するためには理性の公的使用、すなわち公益を目的とした自由があればよいのである、と言い換えられるはずだ。以下の引用がそれをほのめかしている例である。

♢啓蒙の広がり

 ・・・・・・。

 ・・・・・・。国家の元首は宗教における啓蒙をまず優先しながらも、さらに先まで考え抜くならば、立法の分野においても、臣民みずからの理性を公的に利用させ、より優れた法律を率直に批判することを許しても、なんら危険はないことを洞察できるはずである。

引用 同上

まとめ

 討論することを好む・開かれた読書人階級(=公衆)が、みずから招いた他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない状態から、自分の理性を使う勇気がある状態になることである。そのためには、自分の理性を公的に使用する(≓公益が目的)自由を与えればよいのだ。

公衆の啓蒙をする目的

カント曰く、

人間性にたいする犯罪

 ・・・・・・。

 もしも一つの世代の人々が集まって誓約し、次の世代の人々がきわめて貴重な認識を拡張し、誤謬をとりのぞき、さらに一般に啓蒙を推進することを禁じたとしたら、それは許されないことである。これは人間性にたいする犯罪とでも呼ぶべきものであろう。人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。

引用 同上

人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることである」ということである。啓蒙を進める目的は人間が人間たりうることである。

それと同時に公衆を啓蒙する目的は良い民主主義を成り立たせ維持するためという一面がある。「民主主義の前提は大衆が情報を理性的に判断し公益を考える力があること」¹

そして、啓蒙主義と民主主義は近代社会の理念である。

*これは特定秘密保護法の賛否の理由にもなりそうですね。

少し脱線 民主主義における多数決の在り方

民衆の知的、思想の質と数が民主主義の在り方に大きく影響を与えると私は思う。なぜなら、多数決で決めたがるからだ。民衆の大多数の知的、思想の質が素晴らしければ民主主義が上手く機能すると思うが、民衆の大多数の知的、思想の質が低くても大多数の意見が正しいことになり微妙なものでもよいとされてしまう。みんなの同意を得るまで議論する場は与えられていないのである。考えの内容の質が問われるではなく、考えの内容の正当性を賛成する人の数で担保するのである。おかしな話だ。

公益とコペルニクス的転回 

コペルニクス的転回を少しかじった。ざっと見通すなら、人生の意味を自分が作るのではなく、この状況下でどのように人生を歩むのかと問われているのだろう。

不確かで逃れられない自己を中心に人生の意味問い、創造神であるかのように自己を創造するのではなく、この世界(表象)でどのように生きるかが問われているかということだ。

仮に自由を「縛られない状態」と捉え広義に適用するならば、依存からの脱却や地球温暖化の改善といった既存の問題に取り組むのは不自由である。既存の問題がなかったら何がしたいのかという積極的な自由は正にコペルニクス的転回とは真逆な考えである。

なぜ、コペルニクス的転回が重要な気がするのかというと、積極的自由は傍から見れば「歴史のフリーライダー」だからである。

中学でお世話になった先生に2020年9月22日消印の手紙と共に送ってもらった本の抜粋の文章を引用する。(『啓蒙とは何か』と社会学入門Bとこの抜粋の三つが相補的な理解を私にもたらしてくれた。)

社会の中でこそ教養は育つ

 教養の目指すところは、社会の担い手になることにある。教養には、社会の担い手であるために必要な能力と、自分は他者と共に生きる一員だという自覚が含まれる。

 「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養」があるという。(阿部謹也

教養が目指す「人間」は社会の担い手のこと

 教養は、人間であるために必要なものである。その人間とは、社会を野蛮に後退させずに存続させ、できればもうちょっと良いものにして、次の世代に手渡すという面倒な作業に携わる存在である。「近代市民社会の担い手であるために必要な態度・能力・知識等々」がわれわれの教養だ。

 「知性は特権ではない。それは恵なのだ。他人のために使うべき贈り物だ。だから、きみはそれを人類のために使うんだ」。

近代市民社会ってなんだ?

メンバー全員の利害に関わる問題を、利害関係を持つものなら誰でも参加できる話し合いによって解決・意思決定しようとする社会。この話し合いのための空間を「公共圏」という。

教養の定義

「社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来に向けて社会を改善し存続させようとする存在」であるために必要な素養・能力であり、また己に「規矩(自分の行動を規制する基準、お手本)を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための課程を意味する。

引用 戸田山和久 『教養の書』 筑摩書房

何が言いたいかというと、人は生まれた瞬間、否、胎児のときから文明にお世話になっている。文明は一夜で作られたものではなく、様々なものの上に成り立っている。学校で教わったことも身の回りのものも、それを作る技術も家畜も地形も人が作ったものであり、歴史の中で社会の担い手たちがリレー形式で改良しながら受け継いできたものである。生まれる前から巨人の肩の上に乗って生活しているのである。そして死ぬときに次の世代の人びとに譲るわけだが、何もしなければ進歩もしないし廃れるばかりである。縛られないという積極的自由な自由も重要だが、長い歴史を持ち未来ある人類の公益に目を向ける必要があると思った。個人である前に人類のなのだから。

自分ができることで歴史のフリーライダーという汚名を返上する必要がある気がした。

カントが理性の公的な使用を、公益のための理性の使用と捉えなおすことができるなら、人類の公益まで拡大解釈できるはずである。

啓蒙は崇高で大義名分という公的な理性の使用であれば可能だと私も思った次第だ。

今回の収穫

不確かで移ろいやすく証明できないために、懐疑心を抱いた瞬間に崩壊する、しかも嘘をつくことができない個人を中心に人生を送るのは 私的に得策とは思えない。これを自由からの逃走というなら致し方ない。自由のもとになる不変の自己などないし、自分に嘘をつくことはできない。自分に嘘をつくことはできないというのが不変の自己である。

「ものの好きこそ上手なれ」というのだから、自分の好きなことで、つまり自分のできることでコペルニクス的転回という考え方をもとにし、巨人の肩の上で生きていることを頭の片隅に置きながら自分の人生をどのように生きるか考えようと思う。

これが最大の収穫である。

 

以上です。最後まで読んで下さりどうもありがとうございました。

 

思考源

カント 『啓蒙とは何か』

中学の先生の手紙できた本の抜粋

フランクフルの自己超越からのコペルニクス的転回(ちゃんと読んでないけど、天動説と地動説を想像して当てはめてみました)

自由研究 ~Ver.1カントの『啓蒙とは何か』を読む~

社会学入門B 授業資料

 

参考

¹ 100分で名著 メディア論