自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

雑談 ~違いを楽しもう、そして弊害への対策を心がけよう~

自分が変わっているということについて

他者承認と自己認識のずれに気づく

 中学時代から高校時代にかけて「変わっている」と他の子たちに言われ、何かよくわからない線引きをされてきました。私はいつもいつもそう言われたとき「普通だよ」と返し無意識に普通に固執していましたね。(変わっていると関わらないは別の話だったりするのに)

自分、なんか違うぞ

違うという自信

 コロナ禍で大学に入って、一年間ぐらいみっちり自由について考えたり大学の授業を受けていたらやっぱ自分って他の人と違うなと思うようになりました。例えば、「質問ありますか」には質問がなくてもひねり出して聞かなければならないと思っているところとか。何より自尊感情を高めたのは自由について考えていく過程もそうですが、自由な状態での意志が自己中心的なだけではならないということ気づき共通世界を見つけ、それに関与している人に気づけた自分はわりとよかったです。コペルニクス的転回を遂げてしまうのは少々悲しいことですが、完全に自己中心的である利己主義な人と自分は自覚をもって違います。そこが今の私と多くの人との決定的な差異だと言えます。

違いを再確認

 もっと小さなことだと、私が思ったことを口に出すとたいてい違いますね。例えば、火起こしするときに火種ができたかできないかぐらいで、それを手で消した人がいたときに「熱くないの、手汗のおかげか」と反応したら、わざわざ「よく我慢できるねとかじゃなくて手汗か、そう言われたの初めて、僕乾燥肌なんだ」とかなんやら言われ、なんかおかしいこと言ったのか自分、と思ってしまいました。なぜなら、私は手汗がひどいのに悩んでいるから、そういう活用方法もあるのかと感嘆していたら違ったみたいです。

常識を考えても違うので結論も違うのに気づく

 他には私がみんなが思っているであろうことを確認すると大体違います。私は「あんたは話が長いから結論から話しなさい」といわれる。これを言われたときに同時並行で考えているのは、「いや待て、世の中には結論と過程を重視する人にわかれていてる。私は過程を重視しているが、結論の人は「結論から話したらそれ以上話に耳を傾けないだろう」」と思ったので、言葉は悪いが強制的に私の話を聞かせるために私はわざと結論から話すのを避けることにしていました。なぜなら、結論をいったら話を聞かない、理由を聞かれない限り言ってはいけないと思っていたので。(それを危惧するぐらい話が長いのは知っています。もれなく、わかりにくいのも周りの人に言われてました)で、そしたら結論から話した方がいいのは相手にわかりやすいように、という視点を教えてもらいました。結論から話すのは過程を軽視して時間短縮する以外のいいこともあったのかと思いましたね。大袈裟ですけど、目から鱗ですよ。英語だとわかりやすいから結論から話しているというのは意識できましたし、レポートでもそうした方がいいというのは意識でしましたが、おしゃべりでも時間短縮以外にわかりやすい喋り方という見方もあったのか!、といった感じ。何の話をしていたかというと、自分が変わっているということを自覚した要因の話です。

想像してもどうせ違うので質問するしかない

 自分が人と違うことを意識できるようになると、とても質問したくなります。どうせ常識的なことを想像しても間違うなら相手も間違っている可能性を意識しつつ聞いた方が手っ取り早いし、質問への答えはたいてい私の想像とはずれているからです。どんなに人工知能のように解答を導こうと思っても、でてこないところに人の多様性を感じますね(笑)。

違いに気づくと想像力が停止する「どうせ違うでしょ」

 自分が変わっていることを自覚するということ、かみ砕けば、自分と他人は違うし、他人と自分は違うということを意識し始めると想像力が止まり聞くしかないと思っています。だって、「私と他人は違うわけだし、私が想像力をめぐらしたところで根本的に違うのだから、聞くしかないだろ」と思ってしまうんですよね。そうなってくると、想像力のみを駆使した配慮とかわからない。なぜ不登校の子が不登校になったのかわからないんですよ。いじめは私もいじめまがいのことをされているので理由としては共感しかねるが、自分なりに理由をこれ以上考えられないので聞くしかないですけど、センシティブすぎて聞く気になれないのが実際のところです。社会問題として不登校の子があげられますが、これへの関与は他に任せようと思います。よく、多様性、ダイバーシティといったりして、想像力を駆使した配慮が求められていますけど、配慮はあくまで自分の想像の塊だから「相手がしてほしいこと」っていう本当の正解をできることはないんだろうなと思っています。まあ、見ればわかることもあるよねと言われたらそこまでですけど、理由を言いたくないとか、言わなくても助けてって、理解しかねます。(言えないこともあるんだよというのはわかりますが、、、おそらく私が相手が求めている助けを差し伸べるべきだというのに固執している模様ですね。)そして、見てわからない、経験したことのない問題に対して想像したところで変わっててずれてるので想像したところでという話。想像力という名の配慮の限界は知っといた方がいいかと思いますが、思考停止にならないようにお気をつけください。私も常にそう自分に言い聞かせています。そして、おそらく、私は相手が優しさをはねのける自由があるというのを意識しすぎなのと、一方的な配慮は歓迎されないぐらいなら聞いた方が早いと思っているのかもしれませんね。どこまで行っても合理的さを求めて申し訳ないとは思っているので、ネガティブケイパビリティを養わないと。共苦もいいかも。何の話をしていたかというと、自分が他人と違うこと、他人と自分が違うことを意識して起こる想像力の停止という弊害の話でした。(人には言えないこともある。だから配慮というか心配りをしようという心持は見習いたいです。)

所詮、自分は上を見ればかすむほどの個性さ

 今思えばなんだか恥ずかしいですが、自分と他人の違いを意識しすぎて「自分、人とは違うので」という枕言葉をわざわざ入れて質問しました。そしたらずれてて自分の思っている常識とみんなの常識がたいてい違うというのに対し、「一人一人が考えている常識は違うよ、京都と東京の常識が違うみたいに」といわれ、そして「君ぐらい個性じゃ40年前の大学で埋もれちゃうよ」と言われたのです。時代が違えば私は浮かないぞ!なんて現実的でないことを思ってしまいましたが、、、人と違う自分に注目するぐらいなら自分とは違う人に注目したいので大歓迎ですね。自意識が吹っ飛ぶほどの強烈な個性のある人に会うもしくは気づきたい今日この頃です。その場合、自分の話は控えめにしないといけませんね(笑)。「私の変わっているは変わっているに入んない。上を見ればかすむぐらいの個性だ。」そういう見方も持っておくのもいいですね。

 

私も今の大学生の悪いところを持っているが結果として悪くなっているか

 「今の大学生の悪いところはたかが20年間ぐらいしか生きてないのに、自分らしさを失わないために多種多様な学びを積極的に行わずして、自分にあるものだけを使ってクリエイティブになろうとするところだよ。」という先生の話を自由研究に当てはめて話していた。私は自由を考えるために自由を直接的に調べず、自由を直接的に調べるのに結構な時間をおいた。ミルの自由論を読むのではなく、身近なものから抽象化したり、関係のない本の内容を無理やりつなぎあわせて自分なりの自由という概念を構築してきたし、そのやり方がいいと思っていた。しかし、私も悪い学生の特徴を持ち合わせているようでこれを言われたとき戸惑いを感じた。しかし、彼らは多い時だと年に500冊、1000冊読むほどらしい。(念を押しておけば漫画は含まないそうだ)もしかしたら、思考する対象が違うのかもしれないが、、、それはショーペンハウアーの「読書について」を支持しているものとしては納得し、実践しかねるやり方だ。

 さんざん苦労して、時間をかけて自分の頭で考え、総合的に判断して真理と洞察にたどりついたのに、ある本を見たら、それが完璧な形でさらりと書かれていた――そんなこともあるかもしれない。だが自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察には、百倍の値打ちがある。というのも、自分の頭で考えてたどりついた真理や洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、全体を構成するのに不可欠な部分、生き生きとした構成要素となり、みごとに緊密に全体とむすびつき、そのあらゆる原因・結果とともに理解され、私たちの思考方法全体の色合いや色調、特徴を帯びるからだ。さらにそれは、ちょうど内なる欲求が活発になった絶好のタイミングであらわれたものなので、しっかりと根をおろし、二度と消えることはない。こうした事情をみごとにとらえて解説したのが、ゲーテの次の一節だ。

 

「父祖の遺したものを完全に自分のものにするためには自ら獲得なさい」

ゲーテファウスト』第一部、682行)

 

 つまり自分で考える人は、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献を学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。しかし博覧強記の愛書家は文献から出発し、本から拾い集めた他人の意見を用いて、全体を構成する。それは異質な素材を寄せ集めて作られた自動人形のようなものだ。これに対して自分で考える人は、生きた人間を生み出しているにひとしい。すなわち思索する精神が外界からの刺激で受胎し、それが月満ちてこの世に生まれ出たようなものだ。

 習得しただけの真理は、義手や義足、義歯、蝋製の鼻やせいぜい別の肉でこしらえた隆鼻術の鼻のように、私たちに張りついているにすぎない。だが自分で考え獲得した真理は、生まれながら備わっているに四肢にひとしい。それだけがほんとうに私たちの血となり、肉となる。考える人と、単なる物知りとの違いはここにある。

 だから自分で考える人の精神的産物は、適切な陰影やほどよい色調、みごとな色彩のハーモニーで生き生きと際立つ美しい絵画のようなものだ。これに対して、単なる物知りの精神的産物はカラフルで、それなりに整ってはいるが、ハーモニーやつながりが感じられず価値もない。

ショーペンハウアー,『読書について』「自分の頭で考える」.

これに実感を持って共感するからなのだ。自由研究並みに血肉となる真理を別の角度から探るのは時間と意欲が必要なので、当分ないと思う。まだ、自由ついて考えないといけないことが、公的と私的、永遠、自己中心的と共通世界、個人の自由のとらえ方ではなく社会における自由の在り方についてもやる必要があり、当分、大学基金や財団系以外に興味関心が向くことはない。

 しかし、確かに考察があまり入らない歴史や社会で起こっていること情報、物語は入手して世界を知っておく必要はあるかなと思う。それを教養というのかもしれない。世界についてあまりというか、ほとんど何も知らないからだ。共同体の中で生きていくためにはある程度必要だが、現代は情報あふれているので取捨選択が欠かせない。

 

 

以上になります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

過去関連記事

 

independent-research.hatenablog.com

 

 

思考源

火起こしの先生と卒業生との町田でのお喋り

(ボランティアはいくものかも)

 

 

付録

就活の面接のために考えた良い質問だと自分では思っている質問

「会社のいう責任とは何ですか?」

 

これへの批判:あなたにとっては重要な質問だけど漠然としすぎて答えにくいし、つまらない。答えたくなるような質問ではないね。責任という言葉は条件設定をしないと説明しにくい言葉だよ。

 

私のボヤキ:ただね、安倍政権の任命責任、説明責任というのの責任の取り方のせいで責任がよけい何かわからなくなったのは事実だよ。責任は100%元通りという名の償いとかではないわけでしょ。だからね、責任って何なんですか。文脈依存とか言ってないで責任の抽象化ぐらいしてくださいよ。しかし、つまらない質問はあまりしたくないとは思う。