自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~公衆という共同体の不在~

 皆さん、お久しぶりです。今回の記事の内容は、一度は誰しも聞かれたことのある質問である「好きな異性のタイプは?」という質問を相手の答えと自分の答えを振り返ってみると、公衆という共同体の不在をひしひしと実感しまして、記事にしようと思いました。

好きな異性のタイプは議論ができる人

 そんな独白は置いておいて、質問に答えたいと思います。まずは導入から。

 友達もそうなんですが、最近は恋人とか異性に絞るのって人口の約50%に出会いの幅を狭めるのでしたくないなと思っています。で、私は最近、パートナーとか恋人とかそういう言葉を使うようになりました。まあ、パートナーと恋人って私の中でのイメージは同じではないんですが。グダグダとうざいインテリ風になってしまいましたが、質問の通り、「好きな異性のタイプは?」に答えていきます。これは、まず、友人にするか、恋人にするかという風に質問を分解できますが、大抵の場合に則って恋人レベルで好きな異性のタイプを聞かれいていると考えて答えます。あなたと求めてることは同じかもしれませんが、私の恋人レベルで好きな異性のタイプは、「私と長期的に向き合ってくれる人で、社会問題、個人的な問題、仕事の問題などを一緒に批判的に考えてくれて、私の改善する姿勢を見守ったり、背中を押してくれたり、時には観察した上で必要とあらば批判的なアドバイスをくれる人」が好きな異性のタイプです。この社会を一人で考えることはできるのですが、視野と批判には限界があります。それに加えて、私は考え過ぎて、大抵一人でトピックから脱線したり、問題を収束に向かって考えるのではなく、発散する方向で考えてしまいよく混乱しているので、軌道修正をしてくれる人が必要ですね。具体的すぎて驚きましたか?

(文通の内容の一部)

 手紙はまだまだ続くのですが必要な部分は以上です。というか、「好きな異性のタイプは?」ていうこの手の質問って、好きな異性ではなくて同性・異性問わず自分が必要としている、いてくれたらいいなみたいな願望が答えな気がします。世の中のこの手の質問する人々に聞いてやりたい、「今まで自分の好きなタイプというフィルターを通して異性を選別したことあるか~?」(マッチングアプリ・婚活サイトは抜くこと)(笑)。

他愛もない話はここまでです。

好きなタイプは公衆の要素を持ち合わせてる人といえそう

 文通相手の「どこまでも議論しようとしてくれる人」というのと、私の「長期的に向き合ってくれる人で、社会問題、個人的な問題、仕事の問題などを一緒に批判的に考えてくれて、私の改善する姿勢を見守ったり、背中を押してくれたり、時には観察した上で必要とあらば批判的なアドバイスをくれる人」というのは、公衆の要素があるように思います。

 厚東洋輔によれば、公衆は次の3つの特徴を備えている(厚東2006:83ー85)。

 1つは「開放性」である。公衆になるためには特別な資格は必要ない。公衆に求められるのは、本や新聞・雑誌を読み、議論することだけである。現実には、本を読み、議論することができるためには、読み書き能力、さらには私有財産や教養が必要であり、結果として公衆の中心はブルジョワジーだちであったが、原理上は誰にでも開かれているものであった。

 2番めは、「討論への愛好性」である。公衆は1人本や新聞・雑誌を読んで満足したのではない。読んだことについて意見を述べ、議論を戦わせたのである。

 3番めは「自己教育性」である。公衆は議論についていくために競って新聞や雑誌を読み、それによって自らを啓蒙していった。

 まとめると、「公衆とは、討論することを好む・啓蒙された・開かれた読書人階級」(厚東2006:85)であった。

出典:長谷川・浜・藤村・町村(2007)『社会学有斐閣.

 開放性と自己教育性には触れられていませんが、討論への愛好性を好むという公衆の要素と、好きな異性のタイプである「どこまでも議論ができる人」というのは同じといえます。

 論点としては、異性という条件付けされがちな存在に「議論ができる相手」を求めてるというのは、身近な他者に議論できる相手が不在しているからではなかろうか、というのが今回の論点です。

議論する相手の不在

 私が議論をしなくてはならない最近の問題は、

「いじめは自分がいじめをしたかではなく、相手がいじめと思ったらいじめなんだよ」という法律にも載っているらしいこの論理は、「差別は自分が差別したかではなく、相手(誰かが)差別だと思ったら差別なんだよ」という差別にも当てはまりそうだ。この論理は、巷で流布している限りの厳密さにおいて、明示されている基準ではなく、個々の価値観を基準にしている。多様性が鮮明になりつつあるこの時代で、いじめをしない、差別をしない、加害者にならないことはできるのか?

というのが問題です。自己規律化するためには、ある程度基準が明快である必要があると思っているためです。私は、「差別はなくせるもの」という見解に懐疑的になっているのが現状ですが、自己批判に限界がきているので私が議論したいと思える、してもいいと思っている相手とできれば議論したいです。

 しかし、この議論を批判的・自己教育性に富み・好んで議論を一緒にやってくれそうな知り合いというか、そうお互いを認識している人物を勇気を出して名乗り出るか、確認する必要がありますね。

 また、民主主義の担い手である公衆が不在かもしれないという現状が今回のやりとりで気づけて良かったですが、同時に落胆もしています。これが今回の最大で最悪の発見でした。

昨今のSNSの個人の意見と集合知の存在

 議論を好み、開放性があり、自己教育性のある公衆という存在に加わる、もしくはアクセスしにくい社会では、個人の意見は精錬されにくく、合意形成のなされた共同体の意見として述べることは叶いにくい。そう考えるとなんだか、昨今のウクライナへのロシアの侵攻に対しての、ラジオのリスナーの声やsnsでの発信は、個人の意見に留まり、精錬されにくく、合意形成はおそらくなく、個人知であって、集合知のような料理とはいえない、あくまで素材のように私には聞こえます。もちろん、開放性という名の多角的な視点・自己教育性・議論を好むという批判的姿勢を自身だけで保管している人もいますので、素材というより料理と化した意見を出す人もいますでしょうが、残念ながらラジオのリスナーさんの声やSNSとりわけTwitterでは「過去は~」「こういう反論もあるでしょうが~」といった前提の共有や論ずる上で踏まえたことは文字数の関係上出せませんので完全に素材といえます。

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。