自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~ハンナ・アーレント『人間の条件』part.1 必然と自由~

 読者の皆さん、お久ぶりです。ここ二ヶ月、自由研究自体を進めていなかったのを自覚してはいました。ハンナ・アーレントを読んでまとめないといけないことが多々ありましたが、いざやろうと思って読解――永遠についての――を進めたのですがまとまらないので、ハンナ・アーレントの『人間の条件』と自由研究の関連することについて細かく言及します。そのため、今後は軽めの記事が続きます。

ページ数が書いてある引用はすべて下記の文献をもとにしています。

ハンナ・アーレント,2021(1994),『人間の条件』(志水速雄訳),ちくま学芸文庫.

目次

自由であることと、必然〔必要〕によって強制されること

私的な所有物は、毎日、使用され、消費されるものであって、共通世界のどの部分よりもはるかに切迫して必要とされる。ロックが指摘したように、財産がなければ「共通なものも役立たない」のである。なるほど、生命の必要は公的領域の観点からみると、自由の剝奪と考えれれるので、否定的な面だけが現れる。しかし、この同じ生命の必要が、同時に、人間のいわゆるいっそう高い欲望や願望とは比較にならないほど切迫した推進力をもっているのである。必要は、人間の欲求や不安のうちで常に第一義的なものである。それだけではない。大いに富んでいる共同体というものは、住民の中に無関心が広がり、逆に創意がなくなりがちであるが、生命の必要は、このような明白な脅威をも防ぐのである。必要〔必然〕と生命とは、極めて親密に関係しむすびついているので、必要〔必然〕が完全に排除されているところでは、生命そのものが脅威に曝される。というのは、必然〔必要〕を取り除けば、そのまま自由が樹立されるというものではなく、ただ自由と必然を区別する境界線があいまいになるだけだからである。(自由にかんする近代の議論では、自由とは、人間存在の客観的状態であるとは考えられていない。むしろ自由は、主観の問題として議論され、意志は、完全に決定されないとか、決定されうるとかいう解決不可能な問題として議論されている。そうでなければ、自由は必然から発展するものであるということになっている。こういう議論はいずれも、自由であることと、必然〔必要〕によって強制されていることとは、客観的かつ感覚的に異なっていることであるのに、その違いがもはや感じとられていないという事実を示している。

pp.100-101

※括弧は原文通り. 下線は筆者が行った.

 はじめに括弧内の下線の方から過去の自由研究の記事との関連を説明し、最後に括弧前のところがわかるように説明していきます。

自由研究から

「自由な牢獄での扉を開けて進んだ場合は自由と呼べると思いますか?縛られないことや選択の多さによって戸惑ってしまうことが自由不自由の問題ならまさに扉を開けるか否かで、開けたら戸惑いから脱して自由、拒んだら縛られていないので自由、という見方もできるのかなと感じたのですがここの認識なども授業で学べますか?」

 本を読んだ上で議論をしないといけませんので、何とも言えないです。選択肢が多いという自由があったとしても、選べなかったら自由はないも同然という論の展開を私はしています。選ばないということを選ぶのは、自由でしょう。しかし、この自由の精が作った神殿は「反抗と自尊心の神殿」という名前です。この主人公は自由の精に強制的に神殿に連れてこられました。扉を選ばなかったらどうなるかも知りません。強制的に神殿に連れてこられたことを憎むなら反抗もあるでしょう。反抗するということは、自分は貴くこの扱いは不当だという前提が必要だと思います。今のまま満足するのはこの扱いが相応しいということです。

 因みに、拒んだら縛られていなので自由、というのは成り立ちにくいです。ある場面を想像してください。あなたは、監禁し拉致されました。あなたは逃げられないと思い逃げることをあきらめます、選択を拒み自由になるはずです。ですが、監禁されています。

 主観的な自由と、客観的な自由の両方を考える必要がありそうですね。

出典:★批判的思考訓練場 ~学生自主企画案の質疑応答~ - 自由研究 (hatenablog.com)

 付け足したいことは山ほどあるが一端おいておいて、最後の一文「主観的な自由と、客観的な自由の両方を考える必要がありそうですね。」と先ほどの引用を比較すると、2020年の12月の時点では他の人のおかげ主観的な自由と客観的な自由という考え方はできていたようだ。

 また、自由研究 ~マズローの五段階欲求~ - 自由研究 (hatenablog.com)を読み返したところ、マズローの五段階欲求の1段階目である生理的欲求(寝る、食べる排泄などを満足にできるようになること)と、2段階目である安全欲求(身の安全を確保すること)はフロムのいう自発的活動を行う前提であると述べていた。

 最近のであれば自由研究 ~個人の自由は個人の欲求充足の保障という解釈の危険性~ - 自由研究 (hatenablog.com) この記事でも同様の発言をしているし、たくさんの引用がされている。一部改変したのを載せておくと、「物質的な欲求充足はもちろん重要だが、孤独感・無力感から逃避しようとする人間の性質も忘れてはいけない。個人は欲求が充足すれば自由をすれるならば、孤独感・無力感に耐えられなければ自由を捨てることになる。極論を言えば、生理的欲求・安全欲求・孤独感・無力感から解放されない限り、人は自由を捨てるだろう。それが個人の自由は個人の欲求充足の保障という解釈の危険性である。」、個人の意志が妨げられることがない自由という状態には生理的欲求・安全欲求・孤独感・無力感がないという前提が存在するのだ。これが人質にとられてしまえば、個人の意志の有無の問題ではなくなってくる。なぜなら、生命の維持が必然的に優先されるからだ。

『人間の条件』に戻る

 では、『人間の条件』から理解を促すために別の個所を引用する。

各人は生命が必要とするものを私的領域の中で手に入れなければならなかった。同じ自由人でも、私有財産を売り払い、奴隷と同じように主人として振舞えないような自由人の場合、やはり貧困によって「強制される」ことがあった。貧困のため、自由人でさえ、奴隷のように振舞ったのでる。したがって、私的富が公的生活に加わる条件となった。しかし、それは、その所有者が富の蓄積に従事していたからではなく、むしろ、富によって、その所有者が自分で使用手段と消費手段を得る仕事にたずさわることがなくなり、公的活動力の自由が確実に保証されたからであった。明らかに、公的生活は、生命のもっと緊急な欲求が満足させられた後になって、はじめて可能となるものであった。生命欲求に満足を与える手段は労働であり、したがって人の富は、しばしば労働者、つまり所有された奴隷の数によって計算された。この場合、財産を所有しているということは、生命が必要とする物を征服しているということであり、したがって、潜在的にはその人が自由人であるということを意味し、自身の生命を超越して万人が共有する世界に入る自由をもつことを意味した。(p.94)

※下線は筆者が行った

 

政治的領域に入った者は、だれでも、まず自分の生命を賭ける心構えがなくてはならない。生命にたいして愛着しすぎれば、それは自由を妨げたし、それこそ奴隷のまぎれもない印であった。そして勇気をもつ者だけが、その内容と目的において政治的である共同体に迎え入れられた。(p.57)

 

まとめると、「自由であることと、必然〔必要〕によって強制されていることとは、客観的かつ感覚的に異なっていることであるのに、その違いがもはや感じとられていないという事実を示している。」なので、生命活動に必要なものの調達から解放された状態が自由であって、生命活動に必要なものの調達をしなければならない状態は自由とは言わない、というのが古代ギリシアハンナ・アーレントの主張である。生命活動は何よりも優先順位が高いのは言わずもがなだが、一様、必然について言及しているところも引用しておこう。

どれほどポリスの生活に反対していようとも、ギリシアの哲学者ならだれでも、自由はもっぱら政治的領域に位置し、必然はなによりもまず前政治的現象であって、私的家族組織に特徴的なものだと考えていた。そして力と暴力がこの領域で正当化されるのは、それらが――たとえば奴隷を支配することによって――必然を克服し、自由となるための唯一の手段であるからだということを当然なことと見ていた。すべての人間は必然に従属しているからこそ、他者にたいして暴力をふるう資格をもつ。つまり、暴力は、世界の自由のために、生命の必然から自分自身を解放する前政治的な行為である。この自由は、ギリシア人が至福 eudaimonia と名づけたものの不可欠の条件であった。この至福というのは、なによりもまず健康と富に依存する客観的な状態である。逆にいえば、貧困あるいは不健康であるということは、肉体的必然に従属することを意味し、これに加えて、奴隷であることは人工の暴力に従属することを意味した。この奴隷状態の二重の「不幸」は、かりに奴隷が現実に主観的には豊かであったとしても、それとはまったく別のものである。(p.52-53.)

※下線は筆者が行った

というわけで、自由を考えるにあたり何が絶対に回避できない必然なのかということは明確化しておく必要がありそうです。また、主観と客観も必要でそうです。

 その他のポイントは、消極的自由・積極的自由・自由意志などは古代ギリシアにはなく、必然からの自由という分類するならば消極的自由が自由であった。加えて、自由研究では『はてしない物語』以降、意志の重要さを説いてきたわけだが意志の強度は、古代ギリシアでいう勇気といえるだろう。

 

では、今回はこれ終わりです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

もう一度質疑応答をするとしたらどう返すか

「自由な牢獄での扉を開けて進んだ場合は自由と呼べると思いますか?縛られないことや選択の多さによって戸惑ってしまうことが自由不自由の問題ならまさに扉を開けるか否かで、開けたら戸惑いから脱して自由、拒んだら縛られていないので自由、という見方もできるのかなと感じたのですがここの認識なども授業で学べますか?」

Q1:自由な牢獄での扉を開けて進んだ場合は自由と呼べると思いますか?

A:自由の牢獄での扉を開けて進んだ場合、主人公にはリスクを受け入れる覚悟を伴った意志があったと解釈できる。同時に彼の意志を行使できるだけの自由が自由の牢獄にはあったと解釈する。扉を開けるか否かという自由だけだが。

 

Q2:縛られないことや選択の多さによって戸惑ってしまうことが自由不自由の問題ならば、まさに扉を開けるか否かで、開けたら戸惑いから脱して自由、拒んだら縛られていないので自由という見方もできるかなと感じた…?

Q2.1:縛られないことや選択の多さによって戸惑ってしまうことが自由不自由の問題

A:縛られないことや選択肢の多さによって戸惑ってしまうことが自由不自由の問題かどうかですが、縛られないことは自由不自由の問題ですが、選択肢の多さによって戸惑ってしまうことは自由不自由の問題ではありません。「選択肢が多いことが自由である」という持論を持っている人に考慮すべき事例として、選択肢が多ければ選択できないならば自由とは言えないのではないだろうかと問題提起をしました。選択肢が多ければ選択できないならば、それはただの意志の明確化できていないといっても過言ではありません。選択肢があって選べる状態のときに意志の行使は制限されていないわけで、同様に戸惑っている人も意志の行使は制限されていません。そのため、意志の行使が制限されていないのにも関わらず選択肢が多く戸惑っている人は不自由とは言えず、ただ単に悟性が足りないもしくは、自分の理性を使う勇気をもっていないといえるでしょう。自由を考えるにあたり選択肢の多さよりもその人の意志の方が重要だから、「選択肢が多いことは自由である」というのは考え不足ではないでしょうかという話でした。

 選択のパラドックスを教材で扱う理由は、そもそも選択肢が多いことが自由であったとしても選べない、自由意志が作動しなくなるけど反論はありますか、という挑発的メッセージがあります。ジャムとかは選べないかもしれないけど、私たち人間には自分の好み、流行、気分だってあるわけで、髪型だったら坊主頭からロング、染める、ツーブロック、結ぶ、パーマ、巻くといったたくさんの選択肢があるわけだけど、人によってすぐ決められるわけです。代償の大きさによっては戸惑って決めかねることもあるかもしれないけど、どんなに無限の選択肢があっても選べると思う。もしかしたら、それを勇気というかもしれない。

 

Q2.2:扉を開けるか否かで、開けたら戸惑いから脱して自由、拒んだら縛られていないので自由という見方もできるかなと感じた…?

A:意志の行使に制限がかかっていないならば確かに自由といえる。そのため、扉を開けても、扉を開けないことを選んだのならば主観的には自由といえる。しかし、選択の理由が物理的に無理だったのか諦めたのか、はたまた、恐怖から選ばないことを選んだのかといった目的の違いでも自由の種類はかわってくる。

という分類はわきに置いておいて、客観的に自由かといったらそうではない。なぜなら、そもそも選択肢が111の扉を選ぶか否かという、112の選択肢しか提示されおらず選択せずに解放してもらえるという自由はなかった。もっといえば移動の自由、何度も選択しなおすという自由もない。主人公は到底自由とは言い難く、選択しないという自由を選び自由と叫んだとしても自由ではない。意志があったのに弱かった、もしくは相対的に評価し現状を受け入れざる、甘んじざるを得ないというのは自由とは言えない。意志のなさなら尚更である。

ここでさらに考えることは、主人公が何の目的のために扉をあけず留まったのかという点です。また、アッラーしか信じられず自分は信じられないのだとすれば、多くの人が考える自分に依拠する自由意志というのは自分を信じることが前提なわけで、段階はあるにせよ自分を当てにできないなら何を当てにするのだろうかという問題提起もできますね。

 

Q2.3:Q2のような認識は授業で学べますか?

A:Q2.2のアンサーが的確な回答ならば授業で学べるようにしておくことはできそうです。(忘れなければ)

 

覚書 共通世界とコモンセンス

「共通世界は、必ず、過去から成長し、未来の世代のために永続するものと期待されるが、これにくらべると、私的所有物の方は本質的に、永続性がなく、所有者が死すべきものである以上、その死によって滅びる。」

ハンナ・アーレント、人間の条件、第二章公的領域と私的領域、9社会的なるものと私的なるもの、p.97.

もしかしたら、日本人だけでなく世界規模で現代人の共通世界という概念の希薄さが観察できているのかもしれない。SDGs、とりわけ環境問題は共通世界という着眼点から見れば至極当然のことであるからだ。共通世界という概念の希薄さ、もしくは共通世界と認識する範囲は身近な人間や日本といったように狭いと考えられる。それは同時にコモンセンスが通用する範囲も狭いといえるはずだ。(指摘しておきたいのは、SDGsは環境問題以外にも男女平等といった人権問題も含まれることがあまり意識されていないことである。環境問題の改善への寄与はSDGsの一部分にしか寄与していない。)

 

付録

付録1:問題

問題:啓蒙の対義語を自分なりに考えてみてください。

私の答えは、啓蒙の対義語は「タブー」と「無関心」だと思います。

付録2

大学基金の前提は資本主義が永続的に続くことだ。だから、資本主義が崩壊すれば基金系も同時に崩壊するため基金は永続的とは言い難い。しかし、資本主義が崩壊する以前に何かに貢献できたとするならば歴史の一端を担ったといえよう。

付録3

最悪といいますか、あまり嬉しくないことが発覚しました。2021年9月6日の午前0:00に成績が公開されて興奮したのですが、なんと持続時間40分でした。今まで史上最も成績が良かったのに、興奮の持続時間は40分という、自由研究したときに「つながった」と思えたときの持続時間より普通に短く嬉しさと安心感だけで感動もない。成績とるために勉強しても、、、、。というか、嬉しいけど一番かと言われればそうじゃないな。成績をとることを目的にしても嬉しさが持続的に続かないのがわかってよかったかもしれない。虚しいすぎる事実です。そもそも、成績をとりたくて勉強してんじゃなくて海外の大学院も視野に入れつつ成績で院試に落とされないために勉強したわけだから、本当の目的が達成されるとどんだけ嬉しいんだろうかね。

「その嬉しさの持続時間知っていますか?」

もしくは「その感情の持続時間知っていますか?」

私の場合、成績は40分でした。安心感は相当長く継続されるけど。

コンプレックスは相当耐久性がある感情だな。やっぱ、想起の根源がなくならない限り想起され続けるのか…。(汝の欲することをなせ、ってね笑)というか、快楽感情の持続時間って短いな。

でもやっぱり、「その嬉しさの持続時間知ってますか?」というフレーズはインパクトがある。だって、タバコ、ダイエットしている人が食べたいもの、二度寝、お酒、服、ジュース、お菓子といった、不摂生や衝動買いとか依存ってわりと嬉しさの持続時間が短い、慣れもあるとは思うけど。今度から不摂生や衝動買いとかする時は考えてみることにしよう、「その感情の持続時間はどれくらい?」ちなみに成績は40分、後悔の想起は喜びの想起を圧倒的に上回り、ムダ毛の処理や歯列矯正にいたっては一度気になりだすとそう簡単には終わりが見えない。私だって、前期あんなに頑張ったのに、こんなに感情の持続時間が短いなんて思ってなかったよ。

最後に言っておきたいことがあります。「自分の好きな感情を長時間味わい続けることが幸せというのは無理があると思います

経済学は人々の欲望に限界はないが資源には限りがあるので最適化などを考える学問でもあります。感情の持続時間が短いから欲望に限りないといえるかもしれません。では、人々の感情の持続時間が長い消費の仕方は何なのか考えるのも面白いでしょう。ですが、コンプレックス産業に注目するのはやめてください。