自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~秩序問題からアーキテクチャまで~

今回のテーマは、秩序問題から規範・権力についてから始まり、市場について少し触れアーキテクチャという考えと自由について考える。

引用は全部大学の授業資料でやったことである。 というか、講義のまとめというのに近い。

 秩序問題と自由

秩序問題

人々は私的な利害関心を功利的に追求してもいいにもかかわらず、それをしないという選択をして、結果として社会秩序を成り立たせているのはなぜか。

パーソンズ:規範が秩序をもたらす

ウェーバー:権力が秩序をもたらす

秩序問題は自由の問題と置き換えることもできると思う。秩序の維持のためにどこまで自由が許すか、制限してもよいのか。

「規範が秩序をもたらす」by パーソンズ

規範はサンクションによって強化される。サンクションというのは、ある行動に対しての集団の反応である。実際に授業中にサンクションがあったので説明する。(このサンクションは非常に講義内容の理解にはかどった、礼をいう)

例えば、ZOOMの授業で先生が質疑応答をするといった時に中井が先生に質問したとする。「○○〇うるさい」とある学生からプライベートでチャットがやってくる。これが負のサンクションである。ある学生には”こうあるべき”という規範があり、それを中井が破ったので負のサンクションを示し、規範を強化しようとしたのである。正のサンクションの例だと中井の質問に対して先生が「いい質問ですね」「他の人もわからないことがあったらどんどん質問してくださいね」などプラスの評価をしたり、同じ行動を促すというのが正のサンクションである。

つまり、行為者の行為に対する他者のさまざま反応であり正と負の二種類がある。

正のサンクション:ポジティブな反応をし認めて推奨をする

負のサンクション:ネガティブな反応をし否定し罰する

サンクションによって規範の存在が示される。

だが、規範は秩序をもたらすうえで効果が薄い。(規範の中に法律も含まれるがここでは人々の常識という規範のことに触れる)なぜなら、負のサンクションが行為者の許容範囲だったとすれば、負のサンクションは負のサンクションたり得ないからだ。極端な例をだすと、信用を失っても構わないので嘘をつく、みたいな感じである。こんな人に負のサンクションで規範である「嘘をついてはいけない」と言うのは無駄である。なぜなら、信用が失われるのは行為者にとって許容範囲だからだ。先ほどの中井の例の話に戻ると、「中井うるさい」という負のサンクションは行為者(中井)にとって許容範囲内の負のサンクションなので効果はなく、中井は黙らないということになる。だから、規範は秩序をもたらすうえで効果が薄いのである。

「権力が秩序をもたらす」by ウェーバー

ウェーバーの権力の定義は「ある社会関係において、自らの意思を、たとえ抵抗に反してでも貫徹することのできるすべての可能性」である。この可能性の中でウェーバーが重要視したのは、他人に強制しなくても自分の意志を貫徹できる権力現象、つまり服従する者自身の服従への意志(服従意欲)によって支えられている権力の形態、すなわち支配という権力形態である。支配という権力形態では、正当性が服従者の服従を動機付けの役割を果たし、また支配者が自発的な服従を引き出すために活用するものである。

つまり、「ウェーバーが重視したのは、権力の強制力ではなく服従する側の主体性。正当性から導き出される自発的服従という支配という権力形態である」

 三つの正当性支配がある。

①伝統的支配(そういう慣習だから)

②カリスマ的支配(あの人の言うことだから)

③合法的支配(法律で決まっているだから)

脱線してカリスマ的支配の話

継続的な読者ならご存じだろうが、私はpsycho-passというアニメの一期が大好きである。ちょうど中二病の時に見たアニメだったのでどはまりし、槙島聖護が引用する本をかなり読んだ。現在の私という存在を語るうえでは欠かせないアニメだが、何に影響されたかは忘れた。中学の卒業研究でアニメのキャラクターである槙島聖護の分析をしようと思い、カリスマ性についてかなり調べた。類は友を呼ぶので自分もこのキャラクターにみたいな性格になれば現実で同じような友達ができると本気で昔は思っていたので、中三のわりに詳細に分析した。

その時、マックス・ウェーバーの本を読んでいたので②カリスマ的支配の捕捉を少しだけすると、カリスマ的支配は短期的にしかもたない、と書いてあったはずだ。

「支配」—挙示しうる一群の人びとを特定の(またはすべての)命令に服従させるチャンスのことである。と定義風にいっておく。

マックス・ウェーバー「権力と支配」p.23

 

正統的支配の三つの純粋型のカリスマ的支配について

③カリスマ的な性格をもつ。つまり、ある人物およびかれによって啓示されるか制定された秩序のもつ、神聖さとか超人的な力とかあるいは模範的資質への非日常的な帰依にもとづく。(カリスマ的支配)

カリスマ的支配のばあいには、カリスマ的に資格ある指導者そのものにたいし服従がなされるのであるが、それは啓示や英雄的行為または模範的資質にたいする人格的信頼によるのであり、また、指導者のこうしたカリスマへの信仰がおこなわれる範囲内においてである。

同上

psycho-passの方から少しだけ捕捉をするとカリスマ性とは、英雄的・預言者的資質、あらゆることを雄弁に語るための知性、一緒にいて気持ちがいいというシンプルな演出能力、これら三種類がカリスマ性の資質である。

私の結論としては、カリスマ性を持つ人物はサイコパスである可能性が高いことだ。

サイコパスの揺るぎない自信と逆境をものともしない性格の尺度——については点数が高い。

神経症的傾向の採点でも、不安、意気消沈、自意識、傷つきやすさは超低空飛行だが、衝動性が高く、そのことが外向性(自己主張の強さと刺激を求めること)や開放性(行動)での高得点と結びつけば、むき出しで恐ろしいほどのカリスマ性を生む。

ケビン・ダットン『サイコパス秘められた能力』

 機能的サイコパスサイコパスーまずい意思決定≓勇敢な英雄、と考えられる。結局、中学の卒業研究でカリスマ性とは何かをテーマにしなかったのは、カリスマ性≓サイコパス的傾向、という答えが出たからだ。それ以降、分析はしていない。

カリスマ美容師と言うが、ここで使われるカリスマは能力があり憧る存在に近いと思う。本来のカリスマの意味はないに等しい。

その他の権力

市場(経済的な利害のもと動く)

・受容と共有という概念があるため需要がないものは存在しにくく、供給過多のものは価格競争により高品質低価格かつ手に入りやすいなどの条件が加わってくる。

・市場指向型人間という概念がある。自分がどうありたいかではなく、どのような人材が求められるかで自分の在り方を決めていく人間のことを指す。

・普通に、市場が値段を吊り上げれば欲しいものは買えず、体験できずということになる。

つまり、需要と供給、金額をいじくれば産業や学問の活性化と衰退をコントロールできるということである。市場をコントロールできる資本家、その他がここでは権力ということになる。

 アーキテクチャ環境管理型権力

個人の道徳心を涵養するのではなく、技術によって問題が発生しないように前もって手を打っていくことが増えている。それによって表面的には道徳が機能しているかのような状態が作り出されるのである。

後藤弘志『情報哲学入門』 

池内了の「技術が道徳を代行する時」から孫引きしてきた一文である。

授業で出されたのは、自動改札機やタスポである。昔は駅員が切符を確認していたためキセル乗車が可能だったが自動改札機になったらそれが不可能もしくは、しにくくなった。キセル乗車はフリーライダーでよくないからしないのではなく、自動改札機ができて無賃乗車で捕まる可能性があるからしないという、技術によって問題が発生しないように前もって手を打っていくことが増えている例である。これにより、表面的には道徳が機能しているかのような状態が作り出されるのである。スーパーなどでカートを利用するために100円玉が必要になる。セルフレジは人件費削減のためもあるが、セルフレジのおかげで店員がお金を盗む機会はほぼなくなった。つまり、盗む機会があっても盗まないという道徳心を試す機会がなくなったのである。他にも、本屋や高い服についていて会計済みでない商品が通ると音が鳴るセンサーもそうだ。高額商品は箱だけしか売っていないというのもである。

背景にある設計思想は個人の道徳心を涵養することなはずなのに、道徳を技術が代替えし秩序が保たれているのである。

人々は道徳心を失ったロボット同然の行動しかしなくなるかもしれない。

迂遠なようだが、人々の道徳心を涵養し、どのように判断すべきかを決めていける人間であり続けねば、社会は荒廃してしまうだろう。道徳を技術で置き換えることの危うさを考えておくべきではないだろうか。

池内了「技術が道徳を代行するとき」

面白い例は、昔の子どもはお使いを頼まれたら現金を渡されお使いに行き、言われない限りおつりをちょんぼすることができた。現在では、もしスイカといった電子マネーを渡されお使いにいっても、おつりがでないのでお釣りをちょんぼすることは不可能だ。ある意味、環境管理型権力である。排除アートは典型的なその例である。

もしカントがこのような現代を目の当たりにしたら、「理性を使う勇気をもて」などと言ってられないだろう。なぜなら、その理性を使う機会がカントの生きた時代より減少したからだ。

規律訓練型権力

規律訓練型権力=ひとりひとりの内面に規律(規範)を植えつける権力

フーコーベンサムパノプティコンを持ち出して説明した。

私たちは、監視者の在・不在にもかかわらず、彼の視線を内面化し、さらには、彼の役割をほとんどオートマティックに引き受けてもいるだろう。ここに、私たちは自分自身が体制内で強制されていく姿を見出しうるはずである。そしてここにおいてこそ、フーコーの言う「ディシプリーヌ」(discipline)の徹底が進むのである。要するに私たちは、社会のパノプティコン的状況化の結果としてディシプリーヌという権力作用の全域化を見るのである。

佐野将彦「フーコーの権力論——日常生活に潜む微細な権力作用」

例えば、ブログを炎上させないように気をつけることである。初めの頃は匿名でやっていたし、お礼の言葉や注意書きがよくあった。しかし、最近思ったのはごく一部の人しかこのブログを見ないのだとしたら、誰かの視線を内面化する必要はないのではと思っている。

この話が講義で取り上げられたとき監視カメラで監視されているのが嫌だという話がでた。私から言わせれば、なぜ監視カメラの録画を自分をピンポイントで再生する人がいると思うのか、自意識過剰すぎるだろという話である。あとは、パスワードを複雑化しましょうというのも誰が金持ちでもない人のパスワードを盗むのだろうか、やるなら個人を狙うのではなく何百人単位でやるでしょと言う話である。

終わりに

アーキテクチャという設計思想の時点で意図的組み込まれているものを考えるのは面白いと思うので、興味のある方は世間を見渡して探してみてね。

アーキテクチャであらかじめできることを制限しているならば、自由はあらかじめ制限されているということになる。

良いか悪いかというか道徳を問われる場が減少している。盗みや殺人をしてはいけないのはそれが犯罪だからという人が多くいるだろう。だが、その論理では刑罰の重さが許容範囲内に感じる人物がいたら何の抑止力にもならないのである。だから、事前にアーキテクチャで行動を制限するという話なのだろうが。「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです」(psycho-pass常森朱)というセリフ通りである。

個人の自由は守られるべきで皆が同等の自由を持っている状態が消極的自由。

積極的自由が批判されがちなのは個人の積極的自由が他者の絶対的な消極的自由を侵害しかねないからだと認識しつつある。

 

付録

きょうせいするためにきょうせいし、きょうせいするためにきょうせいする

共生するために強制し、強制するために矯正する

 

思考源

大学の授業 社会学入門B