自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~「理想と現実は違うんだよ」~

「理想と現実は違うんだよ」

 「理想と現実は違うんだよ」と言われても、頭に血が上らないのが大人といえる一要素かもしれない。私も理想と現実は違うというころは飲み込めるようになった。ただ、この発言を批評したことはあるだろうか。

 「我々は現状に甘んじることなく理想を目指すために足掻いているのだろうか?」と  問う必要があるというのが私の意見である。理想と現実は違うのは当然だろう。ただ、理想に向かっているのか、現状に甘んじいるのかで行き着く先に大きな違いが出てくる。検証する場合、個人単位なら行動と反省と反映のサイクルを行っているかを問う必要があり、チームや国といった集団単位ならば行動と議論(反省)と反映をしているかがポイントになってくる。集団の場合、まず理想に向けて議論はあるか活発ならまだましだ。さらに、議論は現実に反映されているのか、反映されてた場合それはいつ起こったのだろうか。内容と反映されなかった理由は何か。その後の議論はどうなっているか、というサイクルが特に重要だ。PDCAサイクルともいえる。自分の集団が理想に向かっているのか、現状に甘んじているのか、議論をしていないため後退気味なのかを手っ取り早く確認するためには議論がされているかを把握するとよい。ただし、誰にも「議論がない」とは言えないので注意が必要であるが、集団の場合は議事録などで記録されている可能性があるため議論のあるなしは確認しやすいだろう。

理想と現実は違うが我々は理想に向かっているのか

ジョージ・オーウェルの「一九八四年」から

この先、長くても二十年のうちに、「革命前の暮らしは今よりもよかったか」という大きな、そして単純な疑問にはもう絶対に答えることができなくなるだろう。だが実のところ、今だって答えられないのだ。何しろ散り散りになっているごく少数の旧世界の生き残りは、ある時代と比較することができないのだから。役にも立たないことなら際限なく思い出すことができる。仕事仲間と喧嘩したこととか、なくした自転車用ポンプを探したこととか、はるか昔に死んだ義姉の表情とか、七十年前の風の強い朝に渦を巻いて舞った埃とか。しかし必要な事実は何ひとつとしてかれらの視野のうちに取り込まれていない。かれらはアリと同じ、小さなものは見えるが大きなものは見えないのだ。そして記憶がおぼつかなくなり、文字記録が偽造されるとき――それが現実のものとなったとき、人間の生活条件はよくなってきたという党の主張を受け容れるしかなくなる。その真偽を確かめるために参照すべき基準が存在しないし、二度と存在する可能性すらないのだから。

ジョージ・オーウェル,2020(2009),『一九八四年』(高橋和久訳),早川書房,pp.142-143.

 「革命前の暮らしは今よりもよかったか」という視点は理念が集団にあるなら必要である。なぜなら、共同体において何か意見を出すときに共同体が掲げる理念にかすりもしなければそれは却下されるだろうからだ。そう考える理由は、人々は集まるというのが目的ではなくて共通の目的を掲げているから集まると私は考えているからだ。目的が同じならば手段の議論はできるが、目的が同じでなければ手段の議論すらできない。共通の目的、例えば理念があるならば、それに向かうための手段の議論はできる。そこで重要になってくる視点が先ほど述べたように「革命前の暮らしは今よりもよかったか」「本当にこれが豊かなのだろうか、理念にたどり着いたといえるのだろうか」という現状を批判する視点である。現状を批判する視点のないところに過去最も理念に近い現状などないはずだ。「理想と現実は違うんだ、ではどうするか」という視点のない集団など目的意識がないも同然であり、共通の目的がなければ議論のしようもなく、議論がされなければ規範や構造改革はできない。つまり、現状を批判しない集団とは現状維持というよりも後退を押し付ける集団に過ぎず、悲しきかな見限って目的を共にする共同体に加わるか、新たに共同体を構築するしかない。

魚豊の漫画『チ。ー地球の運動についてー』

 この漫画は、15世紀ヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いた」フィクション作品(Wikipedia)」である。引用する場面は、2巻あたりでは死を恐れていたオクジ―は地動説に加担することに悩んでいたが、5巻あたりでは自分の信念に従い次に地動説を託すために身代わりになったらノヴァクという異端尋問官であるノヴァクに捕まってしまった。捕まる際に重症を負っていいたため1週間眠りについていたが生還した。というか、ノヴァクが生かした。なぜらな、彼は個人的な会話を異端のしたかったからである。

ノヴァク:「何故、異端が現れるのか。

     「だっておかしいだろ。」 

     「我々は約束されているんだぞ?」

     「・・・ジッと善良に生きてれば天国へ行ける。なぜそれを自ら棒に振るようなことをする?」

     「悪魔に頭をおかしくされちまったからって話はわかる。だが、異端と話すとそう単純じゃないのもわかる。頭のマトモな奴もいる。」

     「一体、どういう理屈だ?」

     「どういう動機だ?」

     「悪魔以外の理由があるなら、異端(きみら)は、何故存在する?

オクジ―:「そんなのわかりません。」

     「でも・・・」

     「少なくとも俺は・・・なんというかその、迂闊にも憧れて・・・求めてしまったからだと思います。」

     「何を?」

回想:「”大きな理念”って?」

   「何に動かされてるって言うんです?」

   「それに答えるのは君だ。」

オクジ―:「自由を。

ノヴァク:「・・・・・・」

     「やはりわからん。」

     「自由なんて聞こえはいいが、規範がないなら獣と変わらないじゃないか。」

オクジ―:「・・・・・・ええ、そうなのかもしれませんが、今ある規範を疑えないなら、それも獣と大して変わらない。

ノヴァク:「・・・普通に考えて異常だと思わないか?お前はこの世の中心が太陽だと信じて、私の部下を三人も殺した。盲信的心棒だ。」

オクジ―:「急所は外したつもりですが、死んでしまいましたか。お互いに信念の為に働いた。覚悟はしてたでしょう。」

ノヴァク:「・・・・・・」

オクジ―:「まァ、しかし、これでもう話すことはありませんよ。俺は本当に何も知らない。」

(強調は原文通り)

【出典】魚豊,2021,『チ。ー地球の運動についてー5巻』,小学館.

 私とこの漫画家と同じこと考えているぞ!という感嘆は脇に置いておくとして、「理想と現実は違うんだよ」から始り、ジョージ・オーウェルの「革命前の暮らしは今よりもっと良かったか」を引用して述べていたわけであったが、一言でまとめるなら「今ある規範を疑えないなら、それも大して獣と変わらない。」である。

終わりに

 確かに理想と現実は違うと思う。だが、今を批判し、過去を参照しつつ未来を変えようと動こうとしないと、真理にも理想にも向かっていない。そのことを現代人には突き付ける必要があるように思う。理想に向かうための理念が掲げられ、手段の議論ができれば共同体も復興するはずだ。ただし、行き過ぎた全体主義社会主義に陥らないように気を付けなければならない。行き過ぎたから、戦後の理念に平和が加わったことは間違いないだろう。

 

追記(2022年1月7日)

引用するところ間違えてましたので差し替えます。

 ファンタージエンの道は、あなたさまの望みによって見出されるのです。」グラオーグラマーンはいった。「そして、いつも一つの望みが次の望みへと進むことができるのです。あなたさまが望まないものには手も届かない。『近い』とか『遠い』とかいうことばも、ここではその意味で使われます。だから、ある場所を立ち去ろうと思うだけでは十分ではない。他の所へゆきたいという望みがなければだめなのです。望みをもって、それにご自分を導かせるのです。」

【出典】エンデ, ミヒャエル, 1997, 『エンデ全集5――はてしない物語下』(上田真而子佐藤真理子訳), 岩波書店, p.59.

以上になります。最後まで読んでいたただきありがとうございました。

 

思考源

・焚火の授業の先生と「学生が指摘されるのを嫌がる」という話をしていたときに「よくなるためには指摘されるしかないじゃん」という話をしてたときかも。(多分違うが、大学で先生と喋ってたときに小さな絶望を感じたのだけは覚えてる)

・「理想と現実は違う」という言葉

ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の「革命前の暮らしは今よりもよかったか」

・世界経済において経済成長しないというのは、他の経済成長している国に追い越されるということ。

ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の近いと遠い

ジョジョの奇妙な冒険のワンシーン「大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている」「向かおうとする意志さえあればたとえ今回は犯人が逃げたとしてもいつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな・・・・・・・・・・・・・・・違うかい?」。