今回は聖書のヨハネによる福音書8章の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉から自由研究したいと思う。
筆者は不可知論者なためキリストのいう真理にはたどり着けづけず自由になれないかもしれないが、自由の定義は自分で決めるので問題ない。
真理とは
最初に辞典の真理の意味を引用する。
①ほんとうのこと。まことの道理。「不変のー」
②〔哲〕(truth(イギリス)・Wahrheit(ドイツ))
㋐意味論的には、命題の表している事態がその通りに成立しているとき
に語られる。例えば「雪が白い」という命題が真であるのは、事実雪
が白いときである。
㋑真理の認識の方式にはおおよそ三つの立場がある。観念(認識する知
性)と実在との合致によって真が成立すると考える対応説
(correspondence theory)。当の観念が整合的な観念体系の内部で適合
するときに真が成立すると考える整合説(coherence theory)。仮説が事
実によって検証されたときに真が成立すると考えるプラグマティズ
ム。現実の真理認識は、この三説によって成り立っている。
㋒倫理的・宗教的に正しい生き方を真理ということもある。
筆者の真理の定義は、「もうそれ以上理由がないこと」「対象すべてにあてはまること」例えば、人間関係なら”馬を川に連れていけても、馬に水を飲ませることができない”ように人にどんなに資産運用の説明をしても、するかしないかはその人次第といった感じ。
真理はあなたたちを自由にする
仮に真理を知っていたらもう悩むことはない。なぜなら、自分ができることできないことが明確にわかるからだ。自分が努力してもできないと分かればあきらめるのである。つまり、真理がわかれば不自由でも仕方ないと悟り、何かを求めるという不自由な状態から自由になるのである。
諦めの境地(悟り)になれば不自由な状態から解放されると思う。(問題は何も変わらないわけだが)手っ取り早く不自由から解放さるためには悟ればよし。
現実的に、人間関係といった限定的な真理は得られると思うので、真理なんかわかんない、とかいう人は熟語や本、過去の名言を深く考察し、世に当てはめれば真理が得られるのではないだろうか。または、自分で研究するのもありだと思う。
終わりにニーバの祈りを再度引用する
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。出典[http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm]
思考源
自由=不自由でない状態=何も欲しない状態=・・・=悟り・諦め という考え