大学の講義のおかげで自由をもっと多角的に見るにはどうすればいいのかわかってきたので今後の道しるべが今回の内容。
自由と孤独
まだ、自由と孤独の問題への解答が不完全で網羅的ではないのでもう少し考える必要がある。近代以前の自由と近代以降の自由の違いがあるということを教授から教えてもらったため、近代以前と近代以降の社会の仕組みを考察したうえで何を自由と定義していたか分析する。
また、近代社会以降にも孤独は存在したはずなである。だから、近代以前の社会は基礎集団特有の人との繋がりがあった上での孤独と、機能集団に変化し基礎集団特有の人との繋がりがなくなった時の孤独は定義や理由が多少かわってくるはずだ。
そのため、近代以前の孤独と近代以降の孤独を考える必要がある。
近代以前の自由と近代以降の自由
社会学入門Bでちゃんと近代とは、近代化とは何なのかというのが分かってから、近代以降の自由は個人主義や産業化に伴う社会的分業や業績主義によるものだと考えられるようになった。そのため、士農工商や絶対王政という制度がある近代主義以前の自由の範囲内で何が自由とされ、そしてなぜ求められたのか考える必要がある。江戸末期の考察も面白いかもしれないが、無難にフランス革命を分析するのがいいだろう。
あと、自由人という言葉が生まれた古代ギリシャまで踏み込みたいが、当分先の話だろう。
大正デモクラシー
自由学園、和光学園、明星学園、成城学園、玉川学園などが自由主義教育を理念として開校されるほど何かが起こったのが大正デモクラシーであるが、私はよく知らない。自分が自由主義教育の理念とした学校に6年間いたわけだが、よく知らない。「なぜ、何の目的で?」という視点のもと大正デモクラシーが起こったのか考察しなくてはならない。そこに自由が何なのかある種の解答があると思う。だから、大正デモクラシー関連の本を読まなくてはならない。
大正デモクラシーをなぜと問うなら 追記 2020年10月21日
大正デモクラシーをなぜと問うなら、大正デモクラシー、特に自由教育運動が何に啓発されたのかも考察する必要があるのは忘れていた。大正デモクラシーは西洋の何に習って繰り広げられたのかが気になる。そこまで行けたら面白い。そもそも、なぜ自由という言葉が生まれたのか。自由という言葉がいつ最初に使われたのか、そのころの社会状況なども踏まえ考えられたら最高だね。(語彙力のなさを感じる)
自由研究用の積読の本たち
途中まで読んで読み終わていない家にある本↓
中山元, 2013, 『自由の哲学者カント カント哲学入門「連続講義」』, 光文社
エンデ,ミヒャエル, 1996,『エンデ全集 自由の牢獄』(田村都志夫), 岩波書店 済
エンデ,ミヒャエル,1976(2020),『モモ』(大島かおり), 岩波書店 済
ショーペンハウアーの本(家にない)
ーー幸福について 済
ーー読書について 済
教授の助言から視野が狭くなる系のテーマに該当すると思い読むのを途中でやめた本↓
仲正昌樹, 2009, 『なぜ「自由」は『不自由』なのか――現代リベラリズム講義』, 朝日新聞社
上記の考察と読書をやり考察したいなと思っている。道しるべは以上。
雑談Ⅰ
自己責任論という詳しく知らない世の中に出回っている言葉に対して考えたことがある。もし多くの論理的によく考える心配症の人が本気で自己責任論を前提に置いたら、多くの発言に予防線が引かれ説得力にかける曖昧な発言ばかりする現象が起きるだろう。例えば、「私としてはね」、「知らんけど」、「個人的な意見だけど」、「多分」、「多くの人が~」などの言葉が頻出する感じ。また、超心配性で質問までする人が仮に多ければ、質疑応答が大変なことになると思う。何をどう定義して、曖昧な事例の場合どうするのか見たいな感じ。責任の所在の明確化というものがもっと積極的になり、義務になるかもしれない。で、言った言ってないの問題にならないために記録、記録、そのための管理、管理という気の抜けない社会に最悪なると思う。だって、不当な責任は負いたくないから、徹底した予防線・証明の準備を抜かりなくやるしかない。
だから、自己責任論を押し付けるのは勝手だけど、質問に答える手間と自分が「自己責任でしょ?」と言われる立場になったときのことまで考えたほうがいいと思う。
別に自己責任論を社会的に普及させるのは構わないが自分の行動管理の徹底がより一層必要になってくるのは忘れてはいけない。やるもやらないも自己責任さ(笑)
ちなみに、自己責任の意味を私は知らない。多分、当人の不利益は当人の努力不足によるもの、という考え方と似ていると思っている。
負担は耐えねばならぬとすれば、私たちには知る権利がある。
by ジャン・ロスタン
雑談Ⅱ
否定する人も尊重してこそ、または否定する人も否定しないことを含めてこそ、真の多様性ではないかな。まあ、否定する人が少数派にいて権力がない場合に限る話だけど。まあ、差別はよくないがね。
お気に入りの多様性だけという意味の多様性なんて不完全だ。属性主義(年齢・性・人種・家柄・個人の能力や努力によって変えられない出自・属性によって、地位が決まる仕組み)を辞め、平等に尊重するならば、罪を犯した人々まで多様性に含めるべきだと思う。そこまで網羅的に全人類=多様性までいけたらこの考えは人権的な問題まで入ってくる。
多様性の尊重は人権の問題だったならば、文字通り全ての人が尊重されるべきだが、この社会は犯罪を犯して罪を償った人々まで多様性に含め、求めることはしないだろう。
極端に物事を考えるのはよくないが、多様性と言うならそこんところどう思ってるのか気になるところではある。