自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

「なぜ、何の目的で?」という視点

psycho-pass槙島聖護のセリフを聞くと「なぜ、何の目的で?」という問いかけを自分にもするようになる。で、そんなことを考えて大学の講義を受けていたら自由を考えるうえで重要な視点を手に入れたので紹介したいと思う。

 

大正生命主義 アバンギャルドの作家たち

大正生命主義については情報量が少なすぎて上手く説明できないのだが、多分大正デモクラシーを理解するうえで大いに役立ちそうなことがわかる。

今回の日本のヌードと裸体が講義内容だった授業の先生の受け売りだが、

生命主義の風潮に乗っかた人々や黒田にぶつかって新しいものを考えようとした大正初期のアバンギャルドの作家たちはというのは、実は、もう明治のころに上手いこと自分の才能によっていい席に座ってしまった、国家や社会のために頑張っていい席に座れた旧世代に対して、もう席は全部埋まっちゃって、その席が人間が長生きしていくことによってなかなか空かない。自分たちで新しい席をつくるしかない、ともがいていった世代なんですよね。そういった世代は旧世代が国家や社会のためといった大目標を持っていたのに対して、そこに対抗するためには強い個や自我をといったような、つまり個人主義を突き抜けなければならない、といったような風潮に行きます。もちろん、個人主義は素晴らしいんですが、個人主義をやりすぎてしまうと味方がいなってしまう。そこには不安が伴うんですよね。

まだ少し続くが以上のように先生が言っていた。

 

ここから考えたのは、私には「なぜ自由というか個人主義になる必要があったのかその目的は?」という視点が抜け落ちていたことだ。なぜ、画家たちは特徴的にならざるを得なかったのか。ピカソ印象派たちはいったいなぜ、何を目的にその表現方法で描いたのか。したいと思ったから、という単純な理由では説明しきれないはずである。

現に先生は近代化への不安が村山塊多の絵に見え隠れしているといっていた。絶対王政から市民によって政治が行われるようになり、近代化のために、資本主義のために産業化、民主主義のために民主化啓蒙主義実証主義のために合理化・世俗化、個人主義自由主義のために個人化が進んだわけだが、画家たちも困っていたようだ。彼らは新しい席をつくるために、個人主義を貫こうと決意したわけだがそこには孤独が伴う。最初から個人主義が目的ではなく、席をつくるのが目的だったのだ。(消極的な自由が欲しかったかアバンギャルドの作家たちよ)

 

人間が何を見ているのかに注目しなければ

封建制度の前から自由という言葉はあったわけだが、なぜフランス人は自由を欲したのか、何の目的でという視点は重要だ。その答えでその人の考えというか自我(個性)がわかる。

私は?んーーーーーーーーー答えにくいけど、自分の人生を生きるのが重要だから、私にとって幸福より真理の探究とかinterestingだと思うことが生きるうえで重要。真理の探究対象を今自由に設定してるから自由研究している。自由という真理の探究をしながらinterestingな感情を楽しみ、真理を探して自分の生活に目を向ける。自由は難題なので答えには簡単にはたどり着かないし、自由という憧れのようなものが欲しいから自由研究している。あとの私の個性は、面倒くさがりなので超合理主義なのと、平等なところ。それと、自分がニュースを見てイライラしないために社会を変えようと思ってしまう思考回路。(消極的な面もあるが、そこまで動くのは明らかに積極的だなというのが個人的な見解)

以上が私の主な絶対になくならない初期衝動というか個性のようなもの、他にもあるが、ブログの中に私の個性など散らばっているよ。本のあとがきを真似て謝辞を書くことが重要と思っているところや、詩を引用してくるところとかね、全ては書ききれていないが引用参考文献ではなく思考源なところとか、私の個性というかこだわり。

 

終わりに

そんなことを授業を受けて考えた。自分と人々はなぜ、何を目的に自由を求めるのか。大正デモクラシー個人主義はなぜ起こったのか、何を目的としていたのか考えたいと思う。いつか、私が「なぜ、何の目的で?」と誰かに尋ねたら素直に答えて欲しいところですが、テンションが上がってたり好奇心が湧かない限りそんな質問はしません。

psycho-pass槙島聖護にはよくお世話になってるので感謝します。

 

 

 

思考源

psycho-pass 一期・新編集版

大学の講義 女と男の空間表現