自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~自由の保障を担うものたち~

「遊び」という言葉には、遊戯と余裕という二つの意味がある。この言葉に習い、自由を「自由が効く」という言葉から考察してみる。眠くて考察が粗削りなのは目をつぶって欲しい。

 

自由と義務と信用

「自由が効く」とは、仕事の休みや規定に縛られないようなものと解釈できるし、こういった意味で使用される。自由が保障されるのは、過去の人々が義務を果たしてきた場合、もしくは義務を果たすと信用されているからその人に「自由が効く」のだと予想できる。つまり、自由は義務を果たす信用の上に成り立っているといえる。(義務がある時点で自由なのかは今後の課題とする)

義務を怠るとどうなるか我々は知っている。ルールや校則(拘束)・法律・マナーという縛り・制限・強制が設けられるのだ。しかも、個人が起こした問題にも関わらずルールは所属する全員に適用される。これが正に「不自由」である。例えば、バイトが禁止な学校や副業禁止の会社があるの学業や本業に支障が出ると信用されていないからだ。不自由はすべての人に課すというのが社会の常であり、仮に勉学や本業に支障が出ていなかったとしても罰が与えられる。特例を設けないのは融通が利かないということになる。つまり「自由が効かない」のである。(私的に統治者の怠慢と言いたいところだが)

 

自治においての柔軟性ある義務と自由

 恐らく信頼関係があれば融通は聞きやすくなると思う。大学で学生の自治が認めらているのはそのためだ。自治は当事者が統治するため柔軟性がある。しかし、絶対的な平等と信用の維持が不可欠だ。自治権が強いアメリカのノックス大学のオナ・コードを紹介する。(筆者は金銭的自由が手に入ったらここに入学したいと考えている)

ノックスでの教育・学生生活の中核を成すのが、オナー・コード (Honor Code)と呼ばれる学生によって制定された自治憲章である。オナー・コードの規定は学業面の多岐にわたり、例えば

  • 教授は試験の監督をしてはならない(試験開始後、教授は教室から退室する)
  • 試験は公共の場所であればどこで書いてもよい
  • 課題に協力して取り組むことは奨励されるが、提出物はすべて自分のオリジナルであること

などが挙げられる。オナー・コードの目的は学生のモラルと自主性を信頼した上で委ね、学問的誠実さと人格教育を涵養することである。違反者は学生により構成される査問会にかけられ、退学をふくむ厳しい処分をうける。
現在でもオナー・コードを維持している数少ないリベラルアーツ・カレッジのひとつである。

出典[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%A4%A7%E5%AD%A6]

 

信用と自由

「自由には責任がともなう」という自由の解釈はわかりにくいので言い換えると、「自由な状態でいるためには義務を果たさなければならない」義務を果たさなければ必ず誰かが強制してくるだろう。(なぜなら、社会は分業で成り立っているからといった様々な理由がある)個人が義務を果たさなかっただけで、義務を果たしている人まで不自由になるのが社会の問題なのである。

 

義務の上に成りっている権利という自由

話はずれるが人々は自分の自由や利益が侵害されていないときでも他人の自由を奪う。実際にあった体験だが、筆者が教会のツアーに参加してガイドの説明を聞いていたらツアーに参加していいないのにも関わらず、ガイドの説明をちゃっかり聞いている観光客がいた。筆者はガイドの声が問題なく聞こえ自分の権利を侵害されていないのにこの観光客にむかついた。(この感情を恐らくニーチェルサンチマンという用語で説明できる。)侵害されていないのに他人の自由を奪うのはいい気分ではない。結局一緒にツアーに参加していた人がちゃっかりしている観光客を告発した。告発した人に言わせれば、ツアー代を払っていないのだからガイドの説明を聞く権利はないといったところだろう。権利は義務の上に成り立つという考えがある。ツアー代を払うという義務を果たさなければ聞く権利はない。しかし、自分の聞く権利は侵害されていないわけだが・・・。(悩んでしまうのは心が狭いのではないのかと思っている)

義務の上に成り立っていない権利という自由

身近なことに一般化すると、税金を払っているのだから福祉を受ける権利がある。緊急事態だが納税義務を果たしていないホームレスは公共施設を利用する権利はない。しかし、憲法では保証されている。世の中には義務を果たしていなくても人権で自由が保障されている。だが、論理的には間違っていない。国が権利を保障するわけだが、国家予算は税金で成り立っているという矛盾がある。

(ホームレスを公共施設に入れないようにするのは義務と権利問題以前に人間性を疑う。)

結び

今回は「遊びがある=自由が効く≒余裕がある」という風に考察しようと考えていたが、自由・義務・信用・権利の関係の話になってしまった。

自由≒権利であり権利は義務を果たし保障される。おそらく、人権の保障は国民の人間性の上に成り立っているのかもしれない。追記で出したTEDには倫理的英雄がでてくる。今の社会では倫理的英雄は経済的損失があっても評価するという姿勢を取り戻すべきなのかもしれない。

規則には柔軟性があり、定期的に設定しなおす会社・学校・国が良いかもしれない。マナーはある意味でこれを社会で実現している。なぜなら、強制力はないが社会の常識であり、少しぐらいマナーを破っても見過ごされるからだ。

 

余裕と義務の上に成り立つ自由の考察は今後の課題とする。 

 

 

 

思考源

強いていうなら「自由には責任がともなう」という言葉。

 

追記

規則と自由の関係の理解がはかどるかもしれない

TED  Barry Schwartz  「知恵の喪失」

[https://www.ted.com/talks/barry_schwartz_our_loss_of_wisdom?language=ja#t-1227753]